屋代線紀行(4)川田宿

駅から南西方向の徒歩数分の場所には、開業時の駅名由来の町川田こと、旧・川田宿がある。千曲川(ちくまがわ)の大きな堤防が北側にあり、山裾と赤野田川の間に発達した旧宿場町になっている。
国土地理院国土電子web(町川田)

この川田宿は、現在の国道403号線である谷街道(たにかいどう)と、北国街道(ほっこくかいどう、現・国道18号線)の脇街道である松代道の宿場町だった。江戸期の慶長16年(1611年)、当時の川中島藩主・松平忠輝(ただてる※1)が、この川田宿を設置。度々の千曲川の水害被害が甚大な為、元々は現在の国道付近にあった宿場を南側の現在地に移転した。

谷街道は、現在の千曲市稲荷山から千曲川東岸を北上して、松代、川田、須坂、小布施(おぶせ)と中野を経由し、千曲川沿いの飯山に抜け、越後方面に連絡をしていた。また、松代道は、北国街道の矢代宿(現在の屋代)から川田宿まで谷街道と併走し、此処で分かれ、次の宿場町・福島宿先の川渡し場「布野渡し」を越える。千曲川西岸に渡ると、長沼宿、神代宿(かじろじゅく)を経由して、北国街道に再接続をしていた。

駅から線路伝いに西に行き、小さな踏切を越えて南に250m程行くと、東西に伸びた広い道路に出る。此処が、川田宿のメインストリートになる。


(川田宿のメインストリート。)

川田宿は、「コ」の字を90度回転させた、東西に長い宿割配置になっている。このメインストリートの本町通りは、白石風石畳みの立派なもので、古文書の昔ながらの表記法に従うと、長さは「弐百壱間弐尺」=「二百一間二尺」=約366m、道幅は「七間」=約12.7mの立派な大道であり、その成りに驚く。本町通りの東西端には、南北に延びる連絡路があり、枡形を兼ねている。

また、宿場町の周辺は田畑が広がり、農地や山に出入りする為の作場道(農道)が、宿場の外に向かって、数カ所設けられている。東端の下り飯山方は、下組の秋葉社と下横町の南北道が接続し、この南北道は、町中の長さ「九拾五間四尺」=約173.9m、道幅は「四間」=約7.3mある。距離がかなり長いのは、宿場が南の位置に移転した為らしく、旧宿場町(現在の国道付近)からの分岐地点「分杭」には、一里塚跡も残っている。


(東端の秋葉社。こちらが下組、下り長野方面になる。)

(下横町の南北道。)

角には、こんな屋根の古民家も。茅葺屋根を葺き替えたらしい。入母屋の傾斜や重なり方が良く判り、煙出しの有る棟部も立派で、軒下の独特な膨らみが特徴的である。この膨らみの部分が、元の茅葺きの厚さと思われる。


(トタンに葺き替えられた旧家。)

大通りの中央部まで行くと、北側に一際、大きな屋敷が構えている。川田宿開設以来、本陣兼問屋(といや)を務めた西澤家の長屋門である。文化財指定ではないが、長野市の景観重要建築物(第四号)に指定されており、老朽化の為、原形を参考に建て替えられた。なお、敷地内の母屋は火災の為、明治2年(1869年)に焼失したとの事。
マピオン電子地図(若穂川田・長野市景観重要建築物 西澤邸 1/3,000)

長屋門は、元は武家屋敷門の門様式で、江戸時代の武家屋敷に良く見られる。裕福な庄屋等にも見られ、門の建物内部は使用人部屋、土蔵等に利用された。中央が門になり、左右から挟む配置で、手前の建物の屋根が独特であるが、養蚕の為の鞘屋根(さややね)と言う構造である。また、屋根の下に空間があり、通風性、防火や断熱効果もある。復元前は、赤屋根だったとのこと。


(西澤家の長屋門。)

復元らしいが、門の隣に御高札場もあり、観光案内板も設置されている。


(観光案内板。車は家屋工事の工務店のもの。)

案内看板を見ると、大通りの中央に用水路があり、「コ」の字に配されていた模様が判る。現在、用水路は地中化されているが、農地に向かう路地に水路が残っており、威勢良く水が流れる。水源は、宿場の南西部山際にある、「大滝泉」と言う泉から引いているという。


(観光案内板。)

(かつての町割りの様子。)

建築年代は不明だが、西澤家東並びの土壁造りの長屋門も立派である。瓦屋根や壁の一部が新しい感じなので、改装・補修されたらしい。中央の門を入ると前庭と母屋があり、これ程に立派な建物でも、門になる。


(土壁の長屋門。)

本陣西澤家の向かいには、長野市の景観重要建築物(第五号)指定の北村邸があり、明治期の土壁木造二階建て・土蔵造長屋門になっている。国登録有形文化財に指定され、川田宿で現存する一番古い長屋門と思われる。
マピオン電子地図(若穂川田 長野市景観重要建築物 北村邸 1/3,000)

かつては、この川田宿の地主であった。残念ながら、江戸期の建物ではないが、街道時代の様式を良く残している。この黒色の腰板付きの土壁は、下見板腰板外壁と言い、敷地内の母屋の一部は、明治20年代に小布施から移築された酒屋との事。


(北村邸長屋門。)

西側のむくり屋根の部分は、土蔵の元・出入口になり、大正時代中期から昭和14年(1939年)頃までは、郵便局が入っていた。今では、この小さな赤ポストだけが、名残の様に佇んでいる(個人宅の為、内部の見学は不可)。


(むくり屋根。)

(郵便ポストと県景観重要建造物の認定プレート。)

【国登録有形文化財リスト・川田宿北村家住宅】

所在地 長野県長野市若穂川田2805
登録日 平成16年(2004年)3月29日
登録番号 [主屋]20-0172、[門]20-0173、[局舎]20-0174
年代 [主屋]明治20年(1887年)
[門・局舎]明治期(明治元年から明治44年・1868-1911年)。
構造形式 [主屋]木造二階建、瓦葺、建築面積216㎡。
[門]木造二階建、瓦葺、建築面積83㎡。
[局舎]木造二階建、瓦葺、建築面積59㎡。
特記 [主屋]
旧川田宿の中心地に建つ木造二階建、切妻造、桟瓦葺の居宅。
棟札拠り、近隣の大工・中條豊吉の手で建てられた事が判る。
北側を正面とし、二階は当初、養蚕の為に用いられていたが、
近年居室に改造された。明治期の宿場の景観を今日に伝える建築である。
[門]
敷地北側に局舎と並んで建つ。
土蔵造二階建で、屋根は切妻造、桟瓦葺とする。
西寄りに小庇を掛け、門口を開き、腰部は板張、上部に小窓を設ける。
内部は倉庫として用いられ、戦前までは主として米を収めていた。
良質の土蔵造長屋門建築の好例である。
[局舎]
敷地北側西寄りに建ち、東側を門と接する。
土蔵造、桟瓦葺で、置屋根形式とする。
大正中頃から昭和14年頃まで郵便局舎として用いられ、
北面東寄りの庇は、その当時、入口が設けられていた名残である。
街路に面する土蔵として、近代の集落景観を今に伝えている。

※文化庁公式HPから抜粋、編集。

本町通りの家々は、大きな屋敷が多いが、大部分は、戦後の建物に建て替えられている。もっと残っていれば、観光の目玉に成るのだが、惜しい所である。また、通りの真ん中には、鉄骨製の火の見櫓もあり、これも昭和の風景になって久しい。見張り台は円形になっている。


(火の見櫓。)

なお、本町通り西寄り南側の小道から、保科道(ほしなどう)が分かれており、保科川に沿って山を登ると、脇往還道の大笹街道(※2)に接続していた。この街道は、元々、中世に切り開かれた「鎌倉街道」(※3)であり、関東方面から善光寺参りをする参詣客が、遥々、歩いて来た道でもある。


(保科道接続部。)

川田宿の南側は、整然と水田が広がっており、奈良時代頃の条里制水田の名残とのこと。


(条里制水田。)

大笹街道は、全国に街道が整備された江戸時代に入ると、高崎で北国街道から別れ、JR吾妻線沿いの現・国道144号線の大戸と大笹を経由し、須坂をまで結ぶ、中山道・北国街道の脇往還道として利用されていた。しかし、途中の経由地である菅平高原(すがひらこうげん)と峰の原高原は、1,000mを超える標高で、冬季はパウダースノーが舞い上がって道が判らなくなる為、多数の旅人や馬が遭難する冬の大難所だった。今でも、蜂の峰高原周辺の大笹街道沿いには、遭難者供養の石仏が多数残る。
マピオン電子地図(国道144号線・大笹・鳥居峠・菅平高原・1/30万)

本町通り西端の江戸方上横町の上組の秋葉社は、屋根は赤く、巨石との隙間が落ちそうで怖い。なお、此処の足元にある水路が、山際の水源地に接続している。


(西端の秋葉社。上りの江戸方になる。)

西の秋葉社前から、南北道を100m北に行くと、松代藩の口留番所跡(関所跡)がある。現在は、町の倉庫らしい蔵風建物が建ち、道斜め向かいには、十王堂と言う仏堂があったそうだが、駐在所になっている。
マピオン電子地図(町川田・口留番所跡・1/3,000)


(口留番所跡。)

(つづく)


川田宿は3日目の追加取材です。グーグルマップの線路部分は、廃線の為に削除されています。駅の所在地は正しいです。

(※1 川中島藩)
松代藩の前身。関ヶ原の戦い(1600年)後は森忠政が統治し、後に徳川家康の六男・松平忠輝(ただてる)が統治した。元和2年(1616年)の三代目藩主以降は、松代藩と呼ばれた。真田家の転封・統治は、元和8年(1622年)から。
(※2 大笹街道)
上州側では、仁礼街道(にれかいどう)・信州街道とも言われた。各藩が整備した脇往還道で、大笹は現在の群馬県嬬恋村(つまごいむら)、仁礼(にれ)は現在の須坂の旧地名で、市中の字にも残っている。現在のJR吾妻線終点・大前駅西方の大笹に関所があり、東の高崎からの大戸通り、南からは北国街道から分岐した脇道の沓掛通り(くつかけどおり。沓掛は現・中軽井沢付近で、宿場町があった。)、北の温泉地の草津方に行く脇道も接続している、交通の要衝であった。また、沓掛から仁礼間は、本街道の中山道・北国街道経由よりも宿数や距離が少なく、一日早く着いた為、難所がありながら、物資輸送が大変盛んだった。当時、北国街道筋の馬方(馬を使った民間運送業者※下記参照)と大笹街道筋の馬方の間で、荷物取り合いの訴訟が起き、幕府が仲裁したと言う逸話も残る。
なお、峰の原−菅平高原−鳥居峠間の当時の大笹街道は、現在の国道よりも、標高が高い山側に有った為、今以上に難所だったらしい。保科道は、大笹街道を菅平高原から分岐して、川田宿に降り、川田宿の西外れ(上り・江戸側)の「関崎渡し」を渡って、善光寺まで連絡していた。馬方(信濃や甲斐では、中馬と言う)は、地元農民が自家用馬を利用して請け負った。本業の農業よりも、かなり良い収入で、水呑百姓(小作農)でも一家楽に暮らせた為、次第に専業化して行った。宿場の問屋と違い、途中の宿場での荷継ぎが無い為、所要時間も短く、問屋に支払う手数料も掛からず、馬に荷を付け替えなかったので、荷が痛み難かった(最終目的地の宿場までの貸切貨物輸送と言える。問屋は宿間のリレー輸送方式だった)。
(※3 鎌倉街道)
鎌倉幕府が建設した鎌倉往還道。鎌倉道・鎌倉古道とも言う。鎌倉から信濃への道は、鎌倉幕府の歴史書である「吾妻鏡(あずまかがみ)」にも、それらしき記述が見られる。立派な道ばかりでは無く、山中では、馬がやっとすれ違い出来る細道も多かった。

【解説/五街道と脇往還、宿駅制度について】
五街道は東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道で、それに付随する街道が脇街道になる。なお、五街道とそれに付随する脇道は、江戸幕府の道中奉行が整備と管理をした。それ以外の脇道は、主に各藩が整備、勘定奉行が管理し、脇往還と言われた。飛鳥時代後期から平安時代にかけての律令制度時代は、都と地方を結ぶ駅制度が整備されたが、律令制の崩壊と共に平安時代中期には廃れ、宿に代って行った。戦国時代までは、各国が街道整備をし、伝馬(てんま)と言われる馬交通制度を構築。江戸時代に入ると、この伝馬制を元にして本格的に発達していった。この宿駅制度は、公用者や公用荷物(年貢米等)の輸送、書状通信、休憩宿場機能があり、あくまでも、公用が第一優先だった。

また、人足や馬を常時取り揃え、公用者や公用荷物を次の宿まで送る役割がある。街道の宿場数を「◯◯街道(数字)宿」と言わず、「(数字)次」と言うが、次の宿に、人や荷物を「継ぐ」と言う事から転じている。宿場町の中心部には、大名家や公家が泊まる本陣・脇本陣があり、小さな宿場は、問屋(といや)を兼ねている事が多い。一般旅行客の宿泊施設は、旅籠(はたご・今で言う旅館で食事付き)と言い、自炊素泊まりが出来る木賃宿(きちんやど・今で言う簡易宿泊所に相当)も、宿代が安い事から庶民に良く利用された。当時の旅籠の宿泊代は、夕食と朝食付きで150−200文程度。現在の貨幣価値の4,500−6,000円位で、物価も現代と大きく変わらない。(ちなみに、ざる蕎麦一枚が、16−20文位・500-600円程度だった。)

宿の食事は、夕食よりも、朝食の方が豪華だった。健脚な成人男性ならば、一日約十里(約39km)も歩いたので、その腹ごしらえもあると考えられる。成人女性や子供は、一日六−七里程度歩いた。夜明け前の4−6時頃には出発した。

【参考資料等】
国土交通省関東地方整備局長野国道事務所 広報冊子「北国街道」
長野市公式HP「長野市景観重要建造物」
財団法人・仁礼会「大笹街道ガイド」

2019年5月18日 ブログから転載・校正・修正。

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