屋代線紀行(3)信濃川田駅 後編

信濃川田駅(しなのかわだ-)の木造駅舎を見てみよう。線路北側の千曲川(ちくまがわ)側に設置されており、もちろん、開業当時の駅舎である事から、今年で丁度、築90年になる。切妻屋根の瓦棒付きトタン葺き、軒下に見える白壁が印象的である。また、降雪エリアの為に屋根も急傾斜で、大きな鈎状の雪止め金具が付いており、ホーム側の旅客上屋は出庇風の急傾斜であるのが特徴になっている。東側の須坂方の転轍てこ小屋(てんてつ−)と倉庫と思われる部分は、最近、葺き替えられているらしい。


(ホーム側からの駅舎全景。)

大きさは、松代駅よりふたまわり程、小さな木造駅舎である。駅事務室の窓や扉は、カーテンや大きな板で閉鎖されており、中は見えない。また、改札は撤去された様だが、ホーム側に木製引き戸が付いており、南関東住まいの小生には、冬の寒さが厳しい信州らしさを感じる。斜め梁の角度も大きく、奥の梁の上にある登り梁で屋根上部を支える雪国らしい構造であるが、支柱は結構細い。


(旅客上屋。)

白壁はモルタル壁では無く、昔ながらの白漆喰壁で、中の補強材の麻粗縄が見えている。また、塞がれた出入口横に、こんな注意書きも。今見ると、少し寂しい限りである。


(駅舎の白漆喰壁。)

信濃川田駅の有人駅時代は、六、七人の駅員が勤務した主要駅だったそうで、かつては、この川田周辺の他、千曲川対岸の町からも利用客が集まり、屋代経由で東京方面に出る人達や通勤通学客で、大変賑わったという。なお、両隣の大室駅と若穂駅は、戦後の追加設置駅の為、当時は駅が無かった。また、当時の屋代線(河東線/かとうせん)は、貨物の取扱も大変多く、近くの鉱山から採掘された硫黄、生糸や林檎等を輸送していた。貨物取り扱いは、昭和46年(1971年)6月に廃止されている(※)。


(有人駅時代の名残の標識。)

ここで、屋代線の前身の河東鉄道(かとう-)について、少し触れておきたいと思う。河東鉄道は、その名称の通り、千曲川東岸に沿って敷設された民営鉄道であった。大正11年(1922年)6月に、国鉄信越本線(現・しなの鉄道)屋代駅から、須坂駅(現在の長野電鉄本線との接続駅)まで開通。3年後の大正14年(1925年)には、須坂駅から木島駅(現在廃止)に延伸開通している。現在は、長野駅−須坂駅−湯田中駅間の長野電鉄本線がメインルートであるが、元々は、東京口である屋代駅から河東線を経由し、木島駅へのルートがメインだったそうで、一時期は、上野発湯田中行き国鉄直通急行「志賀」も乗り入れていた。

開業当初は非電化の為、蒸気機関車牽引の客車列車が運行していたそうだが、屋代駅−須坂駅間開業後の4年後に早々と電化。長野中心部の権堂駅−須坂駅間の長野電気鉄道を、電化をした同年秋に合併し、現社名の長野電鉄に社名変更をしている。また、平成14年(2002年)9月までは、かつての会社名を彷彿させる河東線の支線名だったが、木島線の廃線と同じ年に、現在の屋代線に名称変更されている。

駅舎の中に入ってみよう。待合室の広さは10畳程で、天井も高い。西側の窓沿いの幅一杯に、木造のロングベンチが据え付けられており、床はコンクリートの打ち放しである。渋色の縦腰板と黒くすす汚れた白漆喰が、長い時を経た貫禄を感じさせる。床のコンクリートの抉れは、ストーブ設置の跡であろう。ベンチは、背もたれが無く、座面に少し隙間があるタイプになっている。ベンチ下に、「ノ」の字に曲げられた鉄パイプが取り付けられており、補強の為と思われるが、珍しい。


(駅出入口からの待合室。)

(木造ロングベンチ。)

出札口や鉄道小荷物窓口は板で閉鎖され、手前のテーブルも撤去されているので、残念ながら、往年の面影は無い。有人駅時代のものと思われる、昔の電光時刻表や広告看板は、一部残っている。


(出札口跡と改札口。)

(古い広告看板。)

実は、太平洋戦争終戦日の二日前の昭和20年(1945年)8月13日、米軍空母戦闘機が長野まで飛来し、陸軍長野飛行場や国鉄長野機関区が攻撃された長野空襲があった。その際、飛行場から近かった信濃川田駅と川田国民学校(現・川田小学校)が、空襲を受けている。上空から見て、地上の動く人や車両を標的として狙われる為、屋代線(当時は河東線)の電車は、この駅に緊急避難停車したそうだが、機銃掃射を受け、犠牲者と負傷者が出たという。

駅舎の壁には、その機銃掃射の跡が残っていたそうだが、その後、補修された様である。また、屋根から天井に貫通した銃痕があるらしく、良く調べてみると、西側窓上中央の二ヶ所の傷穴があり、これが銃痕らしい(赤丸の部分、斜め上から貫通している)。


(天井の貫通跡。)

出入口には、10cm位の凸段差があり、段差の上に引き戸が設置されている。なお、ホーム側は、新しい木製引き戸に交換されているが、駅前側は開業当時の両引き戸が残っている。駅前側の両引き戸は、左戸は僅かに歪むアンティークガラス、右戸は破損した為か、透明アクリル板に交換されている。四段ガラス最下段の縦桟が良いアクセントになっており、並びの窓も同じデザインである。


(駅出入口。)

(駅舎近景。)

駅前から、駅舎を見てみよう。舗装された駅前広場は広く、ロータリーもある。駅前通りには、数軒の商店と、駅舎の両隣に広大な空き地がある。


(駅舎遠景。)

この川田地区は、千曲川とその支流の犀川(さいがわ)との大きな合流地点の南側にあり、有名な川中島古戦場からは、約5km下流になっている。山側からも、保科川と赤野田川が流れる事から水利が良く、肥沃な土地になっており、周辺に水田や果樹園が広がっている。


(駅出入口からの町並み。)

(つづく)


グーグルマップの線路部分は、廃線の為に削除されています。
駅の所在地は正しいので、参考程度として下さい。

(※河東線の貨物輸送)
須坂の東、群馬県都の県境の近くに、米子鉱山と小串鉱山と言う硫黄鉱山があった。戦時中、硫黄は火薬の原料としても使われ、大きな鉱山町が出来、大変栄えた。特に、群馬県境を越えた場所にある小串鉱山は、国内三本指に入る硫黄鉱山だったが、昭和30年頃から、石油を脱硫して硫黄を生成する様になり、徐々に廃れ、閉山した。

2019年2月2日 ブログから転載・校正

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