足利散策 その2

朝っぱらの晴天の下、ご当地B級グルメを平らげ、エネルギー満タンである。この鑁阿寺(ばんなじ)を後にして、東隣にある足利学校【B地点】に行ってみよう。山門脇【A地点】で入場者数調査をしている市関係者らしい中年女性に挨拶をし、門前通りに出る。なお、この小さな水堀は足利氏宅があった唯一の名残で、寺敷地1万2,300坪の東西南北に張り巡らせてある環濠になっている。内側には、敵の攻撃から防御する土塁もあるため、一種の平城でもあり、日本100名城のひとつに登録されている。


(鑁阿寺山門から望む大日大門通り。少しばかり、通りに人も出てきた。)

(足利氏宅名残の環濠と土塁。今は、大きな鯉が悠々と泳ぎ、水鳥たちも集まる。)

大門通り西側の駐車場脇には、足利尊氏(たかうじ)公像【赤星マーカー】が立つ。日本史の教科書に大きく取り上げられ、知らない人はほとんどいないだろう。今から約680年前の延元元年(1336年)、京都に室町幕府を開いた。武勇ばかり先行するが、人を憎まず、私欲はなく、式略に優れ、和歌や書画を好んだ、高潔でインテリな武将であった。少なからずも、室町文化の発展の礎になっているという。

ちなみに、足利氏のルーツは、平安時代後期、源氏の祖・八幡太郎源義家の子・義国とその子義康が、当地に館を構えたのが始まりである。義康は足利氏姓の祖であり、尊氏は7世孫にあたるという。なお、鎌倉幕府の御家人であった尊氏は、倒幕の狼煙を上げた後醍醐天皇軍の鎮圧に向かったが、途中で離反し、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい/鎌倉幕府側の監視機関・幕府軍も常駐)を殲滅。幕府本拠地の鎌倉は、上野国(こうずけのくに/現・群馬県)の新田義貞(にったよしさだ)に攻め落とされた。しかし、当初、新田氏よりも足利氏を天皇家が高く評価したため、対立の原因になった。建武の新政の崩壊後、後醍醐天皇から離反した北朝(後の室町幕府)の尊氏、後醍醐天皇を擁した南朝の義貞と別れたのも、これらの確執もあったと思われる。


(足利尊氏公像。平成3年[1991年]に、当時のふるさと創生交付金を利用し、足利市が建立したと銘板に記されていた。)

この大日大門通り沿いには、新しく、小綺麗なレトロ風建築の土産店やカフェもあるが、レトロに似せたものではなく、本物のレトロな建物も残っているのがいい。バランスがよく、観光地化され過ぎていない感じは、なかなか見かけないので、感心してしまう。この通り沿いは、足利の歴史が凝縮しているという。


(山門と民家の2階建て白土蔵。足利市内では土蔵や店蔵は珍しい。市中心部では、大火がなく、太平洋戦争中のアメリカ軍の空襲もなかったためらしい。※個人宅のため、奥の敷地が写らないように撮影。)

(総ガラス張りの外観が斬新な、大正時代から昭和初期築と思われる民家。)

(明治28年[1895年]の創業、看板建築の松村写真館【黄星マーカー】。築年は不明であるが、4つの大きなコラムや縦長のガラス窓から、大正時代頃のものと思われる。映画やドラマの撮影もされるという。)

この松村写真館の南に、茂右衛門蔵【青星マーカー】と呼ばれる小さな白土蔵が建っている。足利市が所有し、取り壊しの予定であったが、その後の市民活動により、この足利発展のシンボルとして保存された。現在は、市民ギャラリーを兼ね、一般公開されている。なお、江戸時代末期の安政5年(1858年)築になり、地元ボランティア団体が管理しているとのこと。

この蔵を建てた小佐野茂右衛門は、九州の小倉織の技術を習得し、足利に織布産業の基礎を築いた人物である。当時、発令されていた寛政の倹約令(江戸時代後期の1787年)と相まって、木綿の足利織物(茂右衛門は「足利小倉」をブランド名にした)は全国に販売され、評価が高まった。なお、西隣の群馬県桐生と比較すると、桐生は高級絹織物が中心であり、足利は高級絹織物も生産するが、庶民向け普段着の絹綿混紡物や木綿物が多かったという。江戸時代末期には、桐生と対抗するほど発展した。


(茂右衛門蔵。※参拝前の朝に撮影。)

通り中程の交差点脇には、旧家の松村記念館【緑星マーカー】もある。足利の大地主であり、生糸商でもあった松村半兵衛によって、現在地に建てられた木造2階建ての和風建築は、大正から昭和初期頃の特徴をよく表しているという。ちょっと、門先から覗いてみると、小洒落た感じの建物で品格の良さを感じる。残念ながら、このコロナ禍のため、屋内の一般公開は中止であった。


(松村記念館。正面の主屋は、大正14年[1925年]築になり、国の登録有形文化財になっている。)

(玄関前から。主屋西側には、家財などを保管した地上2階建て・地下1階建ての内藏[うちぐら]が隣接し、通り側に米蔵も残る。)

この大日大門通りの中程のT字路を左折し、そのまま、80メートルほど進むと、小さな木門がある。日本最古の学校といわれる足利学校【学校マーカー】である。


(表門に相当する足利学校入徳門。古松も相対し、格式の高さを感じる。)

門を潜り、右手の受付で体温チェックをし、入場券(一般大人個人420円)を購入。「足利学校入学証」なる毛筆書きの短冊を貰った。なかなか、面白い趣向である。


(入学証を模した入場券と見学者向け案内パンフレット。日本遺産に登録され、さらに、世界遺産登録も目指しているという。)

足利学校の創建については、詳細は不明になっており、奈良時代、平安時代、鎌倉時代の諸説がある。記録上では、室町時代に関東管領(かんとうかんれい※)の上杉憲実(のりざね)が書物を寄進し、学校を再興したというので、少なくとも、それ以前になる。また、キリスト教布教で来日したイエズス会のフランシスコ・ザビエルが、「日本最大の有名な坂東(ばんどう/京都から見て、足柄峠や碓氷峠より東国の意)の大学」と世界に紹介したという逸話も残る。当時の学生は約3,000人であった。

多くの分野を学ぶ現代の大学とは異なり、中国発祥の儒教(※)を中心とする大学であった。敷地内には、孔子廟も建立されている。儒学のほか、易学(占い)・兵学・医学が教授され、出身者の多くは戦国大名に召し抱えられたという。歴史の長さから、国宝や文化財級の書物も多数所蔵し、西洋式の学校制度が取り入れられた明治の初めにその役割を終えた。

正門である学校門を潜る。正面向こうにもうひとつ門があり、その奥に中国の明の様式を模した孔子廟が設けられている。江戸時代は厳格な鎖国政策が行われたが、明は例外的に交易が許されていたため、導入されたのであろう。徳川4代将軍・家綱の頃、寛文8年(1668年)築と伝えられている。


(学校門。江戸時代初期の寛文8年[1668年]築で、「学校(旧漢字・右書き)」の扁額が掛かる。東側に通用門[裏門]があり、普段の通学や一般人は裏門を利用した。)

(孔子廟全景。別名・聖廟とも呼ばれる。学校門と同じ、江戸時代初期の寛文8年[1668年]築。)

広い高板床の奥を覗くと、観音開きの木戸と禅寺で見られる火灯窓(かとうまど)があり、その中に孔子像が安置されている。なお、孔子廟は敷地内でも独立し、四方を白塀で囲まれ、神聖な場所とされているらしい。


(中央の木戸奥に安置された孔子像。)

孔子廟を出て左手に向かうと、巨大な茅葺屋根の建物に度肝を抜かれる。世界遺産の白川郷のものとそう変わらないか、それ以上の大きさで、関東でこれほど大きな茅葺屋根の建物を見たことがない。大正10年(1921年)に国史跡に指定され、昭和57年(1982年)に江戸時代中期・宝暦年間(今から約270年前)の校舎にあたる、この方丈(ほうじょう)を復原したという。東側には、炊事場のある庫裏(くり)を直角に併設配置する。


(復原された方丈[手前]と庫裏[向こう側]。日あたりのよい南に面し、池と築山のある庭園が整備されている。)

(方丈正面の縁側。萱の厚さや軒下までの高さなど、豪快な造りになっている。)

屋内も見学できる。縁側から様子をうかがうと、ほとんど見学者おらず、大丈夫そうだ。庫裏側の土間で靴を脱ぎ、上がろう。すぐ正面に、「学校(旧漢字・右書き)」と書かれた扁額が置かれている。こちらが本物で、学校門に掲げられているものは複製になる。学校門を建てた際、明の公使が揮毫(きごう)したオリジナルが大き過ぎたため、高名な日本人書家が縮筆したもので、江戸時代初期の寛文8年[1668年]の制作とのこと。

左手に進むと、南側の庭園に並行した大部屋が3つあり、教室部分になるらしい。その北側に尊牌室(天皇供養の位牌安置室)・仏殿・上の間が西から順に並ぶ。中庭の回廊を回ると、最奥部に書院があり、校長室に相当するとのこと。接待や個人授業に使われたという。今は、講演やイベント会場などに使われている。


(「学校」の扁額。)

(方丈内部。左手が縁側・庭園側。)

足利学校は学問に秀でた僧侶達が先生であり、僧侶の学生が多かったが、俗人の学生は僧侶の身分になった。校則は3つ、「学問の内容や規則を守る」・「不勉強な学生は退学」・「入学すると僧侶の身分になる」だけであり、現在の管理教育と違い、時間割や学年制はなく、自ら進んで自習(自学自習)し、卒業は自分で決めたとのことで、驚きである。また、学費は不要。逆に学校側が食事や寮を提供しており、敷地内には寮も復原されている。学生の中では、江戸徳川将軍の秀忠(2代目)と家光(3代)に直参し、幕政を補佐した天台宗高僧の天海(生年不明〜1643年)が知られている。


(学生寮である衆寮。6畳間が4つ連なる長屋形式の質素な作りで、ひと部屋数人がここで生活をしながら、勉学に励んだという。方丈と同じ宝暦年間頃のものを復原。)

(衆寮内部。屋内は暗く、1間の土間もある。北関東の冬は厳しく、かなり寒かったであろう。)

なお、歴史上の著名人や学者も多数訪れており、江戸時代以降の記録に残る有名どころだけでも、林羅山(儒学者)、吉田松陰(幕末志士)、高杉晋作(幕末志士)、東郷平八郎(海軍大将)、大隈重信(政治家)、渋沢栄一(実業家)、乃木希典(陸軍大将)、新渡戸稲造(教育家)などなど、いとまがない。

見学を終え、足利学校を後にしよう。敷地西側には、大正4年(1915年)に建てられた遺蹟(いせき)図書館も残る。現在も市立図書館のひとつとして機能しており、貴重な書籍や古文書など約1万点を継承し、管理保存している。


(市重要文化財に指定されている遺蹟図書館。大正期らしい和洋折衷の様式で、重厚なデザインの内装であった。※内部は撮影禁止のため、ご容赦願いたい。)

(つづく)

□□□

(※関東管領)
京都の室町幕府は、関東10国を治めるために鎌倉公方を任命し、鎌倉に鎌倉府を置いた。公方は尊氏の4男・足利基氏とその子孫が世襲し、その公方を補佐する役職になる。上杉家が世襲した。
(※儒教)
孔子(紀元前552〜479年生)に始まり、古代中国の政治・思想・道徳学。仁・義・礼・智や信を重んじ、中庸の教えを説く。代表書物は、「論語」・「孟子」など。漢の時代には保護され、国教になっている。

足利散策編は3話程度の連載予定です。
なお、健康管理と防疫に十分に留意し、慎重な取材体制で臨んでいます。

©2021 hmd
文章や画像の転載・複製・引用・リンク・二次利用(リライトを含む)や商業利用等は固くお断り致します。