近江線紀行(6)五箇荘金堂地区散策 前編

現代の中山道といえる国道5号線から北西に入り、五個荘小学校前の市立近江商人博物館前に到着した。この北側一帯に地区最大級の国重要伝統的建造物群保存地区の金堂地区がある。博物館前からは緑に遮られていて、本当にあるのかわからない感じであり、少し不安になってきた。

この先の小さな十字路交差点の角に一本松があり、海老塚(えびづか)と呼ばれる小さな塚がある。かつての村境であったとされ、道標や観光歴史案内板も設置されているので、間違いはない。北に延びる細道に入っていこう。


(海老塚。金堂地区に産土神を勧請した際、ここで休息を取った由縁らしい。かつては、天神塚と呼ばれていたが、なぜ、海老塚になったのかは諸説あり、よくわからないという。)

(塚から北に延びる路地を進む。)

道端の小さなお堂の前を過ぎると、とても驚いた。急に大きな通りになり、大屋敷が目の前に広がっているのある。まるで、桃源郷に入ったようなインパクトだ。この金堂地区は、湖東平野のほぼ中央に位置し、太古の大火山活動で形成された山塊が南北西に囲み、東に愛知川が流れる水田地帯の平地にある。南東1キロに旧中山道が通っているので、往来の喧騒から離れた静かな環境になっている。


(五箇荘金堂地区の馬場通り南側出入口付近。)

かつての条里制(※)を基本とし、7世紀後半創建の金堂寺(現在は廃寺)を中心とした古代神崎郡の中心地であったという。中世以降は、天皇家の御領や荘園が広がり、京とのつながりも強い。江戸時代になると、幕府領の飛び地であったことから陣屋が置かれ、江戸時代後期から多くの商人を輩出。近江八幡や日野と並ぶ「近江商人発祥の地」になった。現在では、湖東平野を代表する農村集落・商人町として、歴史的価値が非常に高いという。

1日目のハイライトとして、時間は十分に取ってある。じっくりと見て回ろう。金堂地区の馬場通り入口横には、大城(おおぎ)神社【鳥居マーカー】と呼ばれる大社がある。巨大な鳥居が建立され、これだけで近江商人の財力と信仰の厚さを感じる。また、通りを挟んだ向かいの小社には、巨大灯籠も鎮座している。大きければいいというわけではなかろうが、全国を股にかけた大商人の地であるので、郷土の神仏お礼の表れであろう。


(大城神社大鳥居。かつては、大宮神社と称した。明治以降に大城神社と改称している。)

(日若宮神社の巨大灯籠。自然の石の風合いを活かしており、野面灯籠・山灯籠・化け灯籠ともいう。大城神社の境内社のひとつという。)

この大城神社は、歴代の地元武将や町の人々からの信仰も厚く、五箇荘総本社になっている。大化の改新前の西暦621年に金堂寺の護法鎮守社として創建。なお、金堂寺は聖徳太子の建立とされるので、この古社も同様であろう。当時、女帝・推古天皇(すいこてんのう/元・額田部王/聖徳太子の叔母にあたる)の御代で、厩戸(うまやどの)皇子こと、聖徳太子が摂政であった。

日本神話に登場する最高神のひとつ、高皇産霊(たかみむすひ)を祀る。室町時代末に現在地に遷座した際に菅原道真公(天満宮)を合祀し、以来、この2柱を主祭神としている。道真公を合祀していることから、単純に「天満宮」とも地元で呼ばているらしい。例にもれず、戦国時代に尾張織田氏に攻められ、社殿・記録などがことごとく焼失したといわれるが、江戸時代に陣屋が設けられると、諸藩大名の代参や奉行参拝などが行われ、再興したという。明治時代には、郷社に列せられた。


(鳥居下からの境内全景。毎年4月の第2日曜日が例祭とのこと。近江商人の旅姿が披露されるという。)

杉の高木に囲まれた境内はとても広々としている。奥の手前にあるのは拝殿、奥の一段高くなった場所に本殿が鎮座し、拝殿と本殿を繋ぐ幣殿(へいでん)が無いのが特徴で、これが古来の形であろう。梢の下には、道真公像や御神牛(ごしんぎゅう)像も鎮座している。


(拝殿。大きな入母屋造りであるが、高床式倉庫のように柱は地面に直接建ち、古代風に見える。)

(三間社流造りの本殿。垣根が張り巡らせており、中には入れない。道真公由来の御神紋「梅鉢紋」が扉に刻まれている。)

(リアルな御神牛像。道真公が牛と特に由縁があることから、天満宮によく見られる。)

旅道中安全を祈願したら、町並みを見に行こう。この馬場通りは、かつては桜馬場と呼ばれ、200メートル程の桜並木が両脇あったという。しかし、江戸時代末期に神社例祭の山車「万延楼」を造るため伐採されたという。なお、町中の通りは南北軸でなく、北西・南西を軸に配し、ほぼ碁盤目状に町割りされている。

このまま進むと、道際に五輪塔が建つ安福寺【赤色マーカー】があり、入れ違いの小さな四つ角に到着する。ここが金堂地区の中心点で、建物が密集し、周辺には寺院が集まっている。安福寺は浄土宗の寺院で、創基は不詳であるが、金堂地区の発祥頃と大層古い。慈覚大師(じかくだいし/円仁)作と伝えられている阿弥陀如来を安置する。境内には自治会館も設けられ、この地区の公共場所になっているらしい。


(安福寺。境内は開放され、広場になっている。)

左手西側の寺前鯉通りに入ってみよう。水量の多い用水路越えに白壁の大寺がふたつ並ぶ。浄栄寺【黄色マーカー】と弘誓寺(ぐぜいじ)【青色マーカー】である。


(四つ角からの寺前鯉通り。手前が浄光寺、奥が弘誓寺になる。)

民家風のこぢんまりとした浄栄寺は、金堂地区の地名由来の寺院である。寺伝によると、太古の昔、聖徳太子がこの地に来訪した際、不動坊という僧が饗し、共に大きな金堂を建立。不動坊は不動明王(大日如来)の化身であったとされ、太子は不動院を後に建立したが、朽ち果ててしまった。しかし、鎌倉時代中期に浄栄法師が再興し、精光山不動院浄栄寺と号したという。現在の宗派は浄土宗になっている。


(浄栄寺。手入れがよく行き届いた美しい寺である。ここに金堂寺があったと思われる。)

西隣の石畠山弘誓寺はかなりの大寺で、国重要文化財に指定される本堂や豪勢な庫裏を擁す。那須与一(※)の孫といわれる高僧・愚咄坊(ぐとつぼう)が、鎌倉時代末期の正応3年(1290年)に近江本線沿いの豊郷付近に開基。戦国時代末期に現在地に移転したという。山門を潜った真正面の本堂は、御坊(※)級のものに匹敵し、いち農村の集落にあるに大変驚いた。江戸時代中期の宝暦14年(1764年)築とのことなので、五箇荘商人の全盛期と思われ、当時の商人達の厚い信仰と財力の凄さを感じさせる。現在の宗派は浄土真宗大谷派になっている。

なお、近江七弘誓寺のひとつとされており、いずれも、愚咄坊が開基・再興した浄土真宗(ひとつだけ浄土宗)の寺院という。なお、同名・同漢字の弘誓寺が6つあり、そのうちの山号も同じ寺がひとつあり、非常にややこしい。近隣では、いこいの森駅東の建部(たてべ)弘誓寺も有名である。この湖東エリアでは、浄土真宗が土徳し、阿弥陀信仰が盛んであった事がわかる。


(弘誓寺表門。鬼瓦に那須与一由来の扇の紋が入っている。江戸時代初期の元禄5年[1692年]建立。)

(国重要文化財の本堂。江戸時代は中本山と呼ばれ、末寺は25を数えた。本堂の大きさは、間口・奥行き共に5間[約25メートル]もあり、丸柱を多用するなど、当時の先進的な造りも見られるという。)

(本堂横の庫裏。見事な屋根構えと越屋根に圧倒される。江戸時代末期築という。)

多くの錦鯉が泳ぐ用水路は、前日の雨で濁っているのが残念であるが、落ち着いたひと時を感じさせる。通り西側からの写真【カメラマーカー】を収め、更に奥の方に行ってみよう。


(西側からの寺前鯉通り。)

(四つ角から奥の堂中通りを望む。)

(つづく)

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(※条里制/じょうりせい)
古代から中世にかけての土地区画制度。道や水路で1町(約109メートル)の正方形に区切る。
(※那須与一/なすのよいち)
平安時代末期の源氏武将。弓の名手で、平家物語の扇の的を射抜く逸話で有名。
(※御坊/ごぼう)
浄土真宗において、本山の住職が名誉住職を兼任する寺院。本山に次ぐ重要な地方寺院。別院ともいう。東京では、築地本願寺(築地御坊)や浅草寺(浅草御坊)が該当する。

【歴史参考資料】
現地観光歴史解説板
「近江商人のふるさと五箇荘散歩」(東近江市観光協会発行・発行年不明・現地で入手)

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