10数年来のかかりつけの医師が東京八丁堀に開院しており、時々、お世話になっている。その折、診察終了後に余裕があったので、散歩をして来た。東京駅に近いながら川・歴史的建築物・公園などの被写体が豊富な上、外国からの観光客も少なく、落ち着いた雰囲気の街並みである。カメラやレンズの試写もしやすいので、よくカメラ片手に繰り出す場所でもある。
八丁堀といえば、時代劇ファンにはおなじみの江戸町奉行の与力や同心(※)が暮らした町で知られている。明治時代から戦前にかけては倉庫や工場が集まり、戦後は商店街が栄えたという。現在は、高層マンション群が建ち並ぶ都心隣接のアーバンシティであるが、表通りから一歩路地を入ると、昭和の風景が残る面白い街だ。東京駅八重洲口から南東に約1キロ先・徒歩15分程度なので、東京駅から歩いても行けるが、地下鉄の東京メトロ日比谷線八丁堀駅が玄関駅になっている。JR東日本の京葉線も接続しているので、乗り換え客も多い。
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八丁堀駅近くの医院での診察後、さっそく撮り歩いてみよう。時刻は10時を回ったところである。正午前に行きつけのレストランでランチを取るのがいつものパターンで、ここをゴールにした。約2時間しかないが、範囲が狭いのでちょうど良いだろう。
医院の裏にある鈴らん通り【食事マーカー】に出る。隣町の築地と茅場町を結ぶ大通りから一本西側に並行する通りであるが、けたたましく車が行き交う6車線の大通りと違って、静かな下町の庶民的な雰囲気も感じる。地元住民の生活道路として、また、小洒落た飲食店や居酒屋、カフェ、コンビニエンスストアが集まり、表通りのオフィスビルに勤める人達の昼食場所になっている。今はまだ混んでいないが、正午頃は大変賑わうらしい。
(鈴らん通り。商店街は南北500m程ある。かつては、銭湯、映画館、芝居小屋、寄席やダンスホールも構えていた盛り場だったという。)
近代的な中規模オフィスビルやマンションが建ち並ぶ谷間に、取り残されたように昭和な建物があり、初めて訪れると驚く。この時代が混沌としている感じがたまらない。
(交差点角の昭和の商店群。角は神佛具屋、並びは閉店した寿司屋とリノベーションをした焼肉屋である。八丁堀でも、指折りのお気に入りの被写体である。)
(店前には手作りのお狐様と小仏が鎮座する。なお、シャッターが開いているのをほとんど見たことがないのは、残念なところだ。)
今になっては貴重な昭和看板建築を改築するのも、もったいない気もするが、くねくねと走る銀色の排煙パイプが古い建物とアンバランスでシュールだ。そっと中を覗くと、昼の開店の準備を忙しそうにしていた。
(焼肉屋。戦後と思われる看板商店建築であるが、元の商店の業種は不明。二階の明り取り窓が「田」形の大きいのが目を引く。)
この通りの南端出入り口には、京華スクエア【歴史的文化財マーカー】がある。昭和初期に建設された京華小学校校舎であるが、現在は中央区の複合公共施設として活用されている。関東大震災の被災後、昭和4年(1929年)に竣工した復興小学校で、太平洋戦争の空襲もくぐり抜けた大変丈夫な建築という。なお、この場所に与力同心の組屋敷があった。
(右手の鉄筋3階建てが京華スクエア。全体は「ロ」の形で校舎が囲み、中央に校庭がある。)
(大通り側からの京華スクエア。アール付きの玄関がシンプルながら特徴になっている。※この画像のみ2021年10月撮影。)
(通り沿いに和菓子司もあり、何かの具材を干していた。きのこご飯弁当も健康的で良さそうだ。)
引き返して路地を覗いてみよう。表通りと鈴らん通りの間にも、昭和な建物が所々残る。特にこの総銅板貼りの建築【青色マーカー】は、八丁堀界隈で私の知る限り2軒しか知らない。静岡県三島大社門前のムラカミ屋や埼玉県川越の旧・湯宮釣具店と同様の簡易防火の看板商店建築で、今は個人住宅として使われていると思われる。三島や川越のように国登録文化財に指定されていないが、それに匹敵する貴重なものと感じる。関東近県では、関東大震災時の大火災を教訓に多数建てられたので、川越と同様に震災後の竣工だろう。
(総銅板貼りの簡易防火の看板商店建築。緑色は緑青サビで、竣工当時は金色にまばゆく輝いていたのであろう。並びも古いが、飲食店が入っている。隣の家屋も最上部に銅板が残っているので、下部は剥がされたらしい。)
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この八丁堀界隈から南東に歩き、新川界隈に行ってみよう。八丁堀に隣接し、江戸時代はじめに川の中洲を埋め立てた場所で、亀島川・隅田川・日本橋川の三つの川に囲まれた島状になっている土地である。マンションが多く、八丁堀界隈よりも静かな地元住民の生活エリアになっている。かつては、江戸の湊としても栄えた水運の街であった。
隅田川に架かる有名橋「永代橋(えいたいばし)」方面に鍛冶橋通りを歩く。途中の路地に入ると、二階に上げられた今村幸稲荷神社【神社マーカー】がある。敷地の兼ね合いだとも思うが、下ではなく上なのは神様であるからであろう。しかし、本殿の真横が玄関の組み合わせも凄い。詳しい創基由緒は不明であるが、信者の今村氏が寄進した勧請神社らしい。マンション建設のため、昭和の高度成長期にここに遷宮したと伝えられている。
(八丁堀駅方面に振り返って見る鍛冶橋通り。交通量はとても多い。この通りの地下にJR京葉線が走る。この先は東京駅八重洲口近くに出る。)
(鍛冶橋通りからの路地にある今村幸稲荷神社。鳥居を潜らないと家に出入りできない。なお、「幸」が付くのは、幸福の意味ではなく、元町名が幸町であるため。)
八丁堀と新川を結ぶ高橋(たかばし)【カメラマーカー】まで来ると、亀島川と河岸に並ぶビルが一望できる。正午前後は南側は逆光になるため、うまく撮影できない場合もあるが、ここも撮影スポットである。下流方の南側には亀島川水門があり、普段の流れはあまりない。川面近くに下りられる遊歩道もあり、ベンチもあるので、天気の良い日の昼は弁当を食べている人達も多く見かける。対岸には係留所があり、レジャーボートが多数並ぶ。
(高橋から南を望む。ウォーターフロントと対岸の高層マンション群が見える。時間帯的にやや逆光なのはご容赦願いたい。)
北を望むと、同じくウォーターフロントのビル群と隣の亀島橋が見える。亀島橋は新川の北西角にある重要な橋で、東京駅方面の八重洲口に直結している。橋のほとりに名所があるので、ちょっと行ってみよう。
なお、右手(新川側)の河岸は、将監河岸(しょうげんかがん)と呼ばれ、江戸幕府水軍の御船手組屋敷が置かれていた。将監とは、大阪夏の陣(※)で水軍を引率し、戦果を上げた向井将監忠勝に由来する。向井家は代々御船手頭を世襲したという。明治時代中期の明治22年(1889年)になると、組屋敷跡に東京湾汽船株式会社の発着場が設けられ、房総半島・伊豆諸島・伊豆半島方面の船が昭和の初めまで行き交ったという。今は、ビルが建ち並び、その港町の活気のある様子もなく往年が忍ばれる。
(高橋から北側のウォーターフロントと将監河岸。向こうの橋が亀島橋。)
7〜8分で亀島橋のたもとに到着【石碑マーカー】。忠臣蔵で知られる赤穂浪士一の剣豪・堀部安兵衛の碑や芭蕉句碑が建立されている。堀部安兵衛、浮世絵師の写楽や日本地図を制作した伊能忠敬がこの付近に暮らしたという。
なお、八丁堀や茅場町一帯の組屋敷は広大であった。与力・同心一人ずつに、与力は300から500坪(約990から1,650平方メートル)、同心は100坪(約330平方メートル)の一戸建てが与えられた。余った家屋や部屋は、武士の身分に準じる医者、儒学者、国学者、俳人や画家に間貸し、副収入を得ていたという。彼らが住んでいたのも、こうした間貸しの慣習があったためだろう。
(堀部安兵衛武庸之碑。経歴と法名などが刻まれている。訪れる人は少ないが、小さな公園になっており、よく手入れがされていた。地元住民に親しまれていると感じる。)
(芭蕉句碑。江戸名所図会に「八丁堀にて」と紹介されたという。)
高橋先の新川二丁目交差点に戻ろう【C地点/十字マーカー】。ここの角の薬局は、出入口横に季節ごとに着せ替えられた犬の置物が名物になっている。なお、薬局名にもなっている越前堀とは、この島中央付近に福井藩の江戸屋敷があり、コの字型の堀であったのが由縁とのこと。今は埋め立てられ、児童公園になっている。
(越前堀薬局のアイドル犬。置物であるが、一応、名札には番犬とある。)
鍛冶橋通りを真っすぐに進むと永代橋を渡るが、そちらには行かず、新川二丁目交差点から南の月島方面に向かってみよう。
(つづく)
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(※与力・同心)
現代の刑事・巡査に当たる治安職。時代によるが、与力は約50人、同心は約200人いた。組屋敷は今でいう官舎であり、勤務先である呉服橋の北町奉行所や数寄屋橋の南町奉行所までは、徒歩20分で通勤できたという。
(※大阪夏の陣)
江戸時代初期1615年5月の江戸幕府と豊臣家の大阪城周辺での合戦。これにて豊臣家は滅亡した。
【参考資料】
現地歴史観光案内板
中央区ふれあい街歩きマップ5「茅場町・八丁堀・兜町」
(2016年発行・中央区商店街連合会/散策マップとして使用)
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