近江線紀行(7)五箇荘金堂地区散策 後編

しかしながら、ゴールデンウィーク真っ只中であるが、観光客はほとんど見かけない。金堂地区の南西外れには、車で来訪した観光客のための無料駐車場もあるに関わらず、車での来訪も少ないらしい。もちろん、近江鉄道最寄りの五箇荘(ごかしょう)駅からも相当離れており、ひとり旅ならともかく、家族やグループ旅ではしんどいであろう。個人的には、まったりと見ることができ、観光化され過ぎていないので好ましい。

金堂地区自体はさほど広くなく、安福寺前の交差点を起点【A地点】に、横道3本、縦道4本を配し、横幅約400メートル、縦幅250メートル程の範囲に旧家や寺院が密集する。大城神社前の馬場通りがアプローチ部の様に南東方向に突き出しており、漢字の「甲」に似ている形と言えば、わかるだろうか。「甲」の下の突き出た部分が南東に約45度傾き、周辺に整然とした条里制水田が広がっている。

一本奥の商人(あきんど)通り【カメラマーカー】に出る。丁度、真ん中の横道になる。物音はほとんどしない。人気もなく、しんと静まり返っていて、両隣に黒白の屋敷が建ち並ぶ様はまるで時代が逆戻りした雰囲気だ。ふたつ東の花筏(はないかだ)通り沿いには、金堂地区の代表的商家の中江準五郎邸【青色マーカー】と外村宇兵衛邸【黄色マーカー】がある。ちょっと行ってみよう。


(人気のない商人通り。家の中から物音だけが、かすかに聞こえていた。水路も張り巡らせられており、天保川と名付けられている。)

縦道の花筏(はないかだ)通りを覗いて見ると、舟板壁と白壁の土蔵が並び、とてもいい雰囲気である。なんだか懐かしく、美しい日本的情緒を感じる。そのまま南に歩き、外村宇兵衛邸【黄色マーカー】に入ろう。江戸時代後期の文化10年(1813年)に独立分家した呉服商の近江商人屋敷とのこと。東京・横浜・京都・福井などに支店を持ち、近江を代表する呉服商であった。明治期には、全国の長者番付に名を連ねるほどの豪商であったという。有料観光施設のため、管理人の中年男性係氏に入場料600円(3館共通券)を支払い、駅で入手できなかった観光パンフレットも貰う。


(花筏通りを覗く。)

(外村宇兵衛邸。荒れていた屋敷を旧五個荘町が譲り受け、町史跡として整備したという。)

明治時代中期最盛期の屋敷の延べ面積は、2,720平方メートル・約820坪の大豪邸で、主屋・書院・大蔵を中心に10数棟の建物と見事な庭園があったという。家業の衰退や老朽化のため、西後ろ半分の建物や庭が取り壊されたが、残された部分を最盛期の明治期の姿に復元・修繕された。現在は、当時の生活文化に触れられる、「てんびんの里伝統家屋博物館」になっている。

靴を脱ぎ、土間から座敷に上らせて貰おう。平成に入ってから町の史跡になり、平成6年(1994年)から一般公開しているという。主屋は江戸時代末期万延元年(1860年)築になり、この金堂地区の屋敷でも古い方に入るらしい。武家屋敷と違い、本間、客間や控えの間などの格違いの部屋はなく、吹き抜け天井の土間に面して、すぐに畳敷きの大座敷が広がる。多くの客人を迎い入れ、会合や接待などをしたのであろう。ちょうど、端午の節句であるので、鯉のぼりや武者人形も飾られている。

なお、近江商人屋敷の特徴は、敷地を板壁で囲み、主屋を中心に書院や土蔵などを廊下で繋ぎ、建物の周辺部に庭園を配す。間取りは、この湖東エリアの農家住宅に多い「整形四間取り」に居室を加えた大きのもので、2階は数奇屋風になっている。特に、塀や建物外壁下部に舟板を張り付けているのが特徴で、琵琶湖に浮かぶ舟の腐朽したものの再利用である。絶妙なコントラストが風情を増している。


(主屋の大座敷。商家らしい、合理的でシンプルな造りを感じる。)

正面に鎮座している武者人形飾りは、当家伝来のもの。明治時代の制作とされ、さほど古くはないが、なかなか味のある風情を醸し出している。上段中央に楠木正成公を配した陣内飾りで、下段に山中鹿介幸盛(やまうちしかのすけゆきもり※2)公と豊臣秀吉公を据える。右の馬人形は、張り子に細い生糸を植え付けた毛植え細工で、職人絶えた今では貴重なものという。左の隣部屋には、寄進された人形も飾られており、端午の節句由縁の桃太郎や金太郎もあって、可愛らしい。


(外村家伝来の武者人形飾り。)

(鯉と桃太郎。金太郎との組み合わせ「通称・こいきん」が一般的であるが、男児の立身出世や身体堅固を願うものとして同じであろう。)

(熊と相撲を取る金太郎。足踏みの岩の小花模様がアクセントだ。金太郎の生誕地は神奈川県足柄山が定説であるが、地元の旧坂田郡[現・長浜市]にも伝承がある。地元では、金太郎が描かれた金時鯉のぼりがあり、慕われているという。)

一番奥にある大きな蔵(旧文書蔵)は資料室として改装され、外村家伝来の品々や近江商人の歴史などを解説している。また、敷地の西後ろ半分は大きな空き地になっており、日本庭園も一部残っている。庭園の中央には一丈二尺(約3.6メートル)もある春日灯篭を建て、その奥に南北に細長い池と茶室を設ける。


(旧文書蔵の資料室。万治元年[1864年]築。外村家には、この様な大蔵が幾つも建て並んでいたという。)

(主屋南側の庭園と大灯篭。当時、「神崎郡一の庭」と評された程であった。)

また、空き地に面して、近江商人の立派な銅像も据え置かれていた。近江商人は地元に留まらず、「持ち下り商い」と呼ばれる行商で活躍した。やがて、手持ち資金を蓄えると、行商時に商売を見込んだ各地に店を構える「諸国産物廻し(産地廻し)」に発展したという。なお、持ち下り商いとは、畿内から地方へ行商に行き売りさばくと、今度はその土地の特産品を仕入れて戻り、それを売りさばく手法である。産物廻しは、それを店舗で大規模に仕入れし、よく売れる別の地方に廻して売りさばいた。この外村家では、たったの7年間で独立当初の資産を約15倍に増やしたというので、驚きである。もちろん、「不撓不屈(ふとうふくつ/困難に屈しない)・勤勉・倹約・正直・堅実」が近江商人のモットーであり、有名な「売り手によし・買い手によし・世間によし」の三方よしの精神(※3)の影響も大きいだろう。


(菅笠を被り、てんびん棒を担ぐ近江商人銅像。てんびん棒は「たった五両が千両になる」といわれ、近江商人必携の商売道具であったという。なお、消費者相手の小売行商ではなく、卸問屋を相手に行商をしていた。)

ゆっくりとぐるりと見学し、管理人氏にお礼を言って、そろそろお暇しよう。表門脇には、「入れ川戸(かわと)」と呼ばれる用水路も引き込まれている。普段は、野菜や鍋などの洗い場として利用した。また、淡水魚を飼ったり、防火用水も兼ねていたという。


(外村宇兵衛邸の入れ川戸。)

なお、この外村宇衛門邸の道を挟んだ西隣に外村繁邸【紫色マーカー】がある。こちらも近江呉服木綿商人の豪邸であり、昭和初期の著名小説家・外村繁の生家になる。宇右衛邸の分家にあたり、一般公開と文学館も併設している。

花筏通り北寄りに戻ると、中江準五郎邸【青色マーカー】がある。昭和初期の三中井(みなかい)百貨店を経営していた近江商人屋敷である。呉服商であったが、アメリカの百貨店を視察した初代が帰国後に百貨店事業を始めたという。現在のソウル(当時は京城)に本店を置き、昭和15年には、13店舗も構えていた。なお、江戸時代より、国内に留まらず、海外での商売をする近江商人も若干いたが、太平洋戦争の敗戦により、朝鮮・満州・中国での海外事業が主だった三中井百貨店の資産は没収され、事業も終了になった。その末裔は、現在も彦根で同名の洋菓子店を経営しているという。


(当時、「百貨店王」と呼ばれていた中村準五郎邸。)

狭い表門をくぐり、管理人の中年女性氏に挨拶して、見学させてもらおう。「どうぞ、ゆっくり見ていってください」とのこと。土間から座敷に上がると、たいそう立派な節句の飾り付けをしてあり、見入ってしまう。


(中江準五郎邸の端午の節句の飾り付け。当時は大変高価なもので、庶民は手が出なかったという。右手には、乗馬した旧帝国陸軍・乃木大将の人形もある。)

(地元に伝わる金太郎伝説にちなんだ金時鯉のぼり。)

中江準五郎邸は昭和時代に竣工したので、外村宇衛門邸よりも近代風になっている。屋敷の延べ面積は327坪・建坪は120坪とコンパクトで、内廊下がなく、5つの座敷を田の字状に繋げてあるのは、宇兵衛邸と同じである。主屋外れの外廊下西側に大きな蔵があり、郷土民芸品の小幡(おばた)人形の常設展示をしているので、見てみよう。これは面白そうである。


(小幡でこ常設展示。)

五個荘町小幡地区発祥の「小幡でこ」は、江戸時代中期の享保年間(約300年前)から始まったという。飛脚をしていた安兵衛と呼ばれる男が、道中で追い剥ぎや恐喝に度々会い、そのための賠償に困ったため、京都伏見人形を参考に転業したという。節句、神輿、信仰、縁起、十二支、武者、風俗など種類は500種もあるといわれ、中山道や御代参街道の旅人の土産として、また、地元の子供たちに親しまれたという。現在も、初代安兵衛直系の9代目当主が制作を続けている。

リアリティーには拘らず、デフォルメされた形とすっとんきょうな表情が面白い。なかなか愛嬌のある人形である。その中には、突飛なものもあり、驚き笑った。なお、「でこ」とは土偶のことで、土焼き人形のこと。彩色は原色を好んで使い、大きさは3センチから90センチ位まであるという。


(滋賀県郷土民芸品「近江小幡でこ」。県下では、唯一の土人形になっている。江戸時代中期の頃、全国各地で伏見人形を模した土人形が作られ始めていた。)

(どこか愛嬌があり、強面ではない武者でこ。小幡でこは、年賀切手の絵柄にも採用されたことがあるという。)

(表題はあの「ドラえもん」であるが、ちょっと違うと一番笑った。)

主屋の南側には、立派な庭園も広がる。高低差のある池泉回遊式で琵琶湖を模している。よく手入れがされており、緑が美しい。


(中江準五郎邸の庭園。)

「小幡でこ」で笑ったあとは、美しい庭園を眺めて一息つく。時刻は、もう13時半を過ぎている。いい雰囲気なので、もう少しゆっくりしたいところであるが、そろそろ駅に戻るとしよう。最後に安福寺境内先にある五輪塔を見る。市内最古のもので、700年前の正安3年(1300年)ものとされる。そのまま、大城神社の前を通り、時代ワープするように近江商人博物館前まで戻ると、鯉のぼりの大群が見送るようにたなびいていた。


(五輪塔。高さは197センチもあり、上から、「空・風・火・水・地」の輪[※4]と欠損なく完全な形で残っている。制作年の年号も刻印されている。)

(近江商人博物館前にたなびく鯉のぼり。)

(つづく)

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(※1 数奇屋風)
茶室風の建築様式のこと。京都の桂離宮などが代表例。
(※2 山内鹿介幸盛)
戦国時代の山陰地方の武将。当地の尼子氏に仕え、武勇に大変優れていたという。
(※3 三方よし)
当時の用語ではない。後世の研究者によって命名された。
(※4 空・風・火・水・地)
仏教では、この5つが世界の基を構成している考えから。日本では、平安時代後期から密教の仏塔として建立されたが、後に宗派を超えて建立された。

※五個荘町は市町村合併のため、現在、東近江市になっている。駅名は旧漢字の五箇荘になる。

【歴史参考資料】
現地観光歴史解説板
「近江商人のふるさと五箇荘散歩」(東近江市観光協会発行・発行年不明・現地で入手)

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