屋代線紀行(28)千曲川と岩野駅。

太古のロマンたっぷりの森将軍塚古墳の見学を終え、時刻は正午を過ぎた所である。屋代の有明山麓にある科野の里歴史公園から、松代に戻ろう。屋代線の車窓からは、千曲川(ちくまがわ)が全く見えないので、国道403号線の帰り道に堤防横に寄ってみる。丁度、雨宮駅から岩野駅間の北山隧道(トンネル)付近に、駐車が出来るスペースがあり、此処に車を駐めて、川を眺めてみよう。幅500m以上の広大な河川敷に莫大な水量が流れている。向かって右手の下流側では、のんびりと釣り糸を垂れている人が見える。
マピオン電子地図(千曲市雨宮付近・1/21,000)


(西の上流方。堤防の頂きから川面までは、かなりの高低差がある。)

(東の下流方。大きなコンクリートの水門があるので、支流の合流地点らしい。
向こうの白い橋は、篠ノ井駅方面に向かう岩野橋。)

下流の新潟県では、千曲川は信濃川に名称が変わり、全長367kmの日本で一番長い河川である。山梨県・埼玉県・長野県の三県境の長野県南佐久郡川上村・甲武信ヶ岳(こぶしがたけ・標高2,475m)直下が源流になっており、荒川や富士川の源流地でもある。
マピオン電子地図(甲武信ヶ岳・1/90万)

地図上で川の形を見ると、北国街道(ほっこくかいどう・現在の国道18号線)も沿い、平仮名の「つ」の字を、鏡文字にした様な川の経路になっており、小諸、上田、千曲(更埴/こうしょく)、長野と流れて行く。古くは、万葉集にも登場し、善光寺平の肥沃な土地は千曲川の恵みでもあるが、大河である故に水害も多い。

特に、江戸時代中期・寛保2年(1742年)8月の「戌(いぬ)の満水」と呼ばれる大洪水は、6日間雨が降り続いた為、千曲川と支流が大洪水になり、山崩れや土石流等が起きた。川面の高さは標高336mに達し、村落ごと流され、それは生き地獄の様であったと伝えられている。死者は約3,000人の千曲川史上最大の水害になり、藩財務も困窮し、その影響は明治時代まで続いたといわれる。

現在も、毎年8月1日の「戌の満水」の日は、流域周辺の学校や会社は休みになり、盆とは別に墓参りをする習慣がある。その後も、江戸時代から平成に至るまで40回以上の洪水が発生し、治水対策が不十分だった明治末期頃までは、大洪水が数回発生した。過去の教訓を活かす為、町中に「洪水痕跡水位標」も多数立てられている。

この旅では、屋代線の木造駅舎と木造待合室のある駅は、全駅訪問したが、それ以外の小さな棒線駅を訪問していないので、国道沿いの岩野駅に立ち寄ってみよう。

単式ホームと小さな待合室だけの無人駅である。河東鉄道河東線開通時の大正11年(1922年)6月開業の古い駅で、屋代駅から3駅目、5.0km地点、所要時間約7分、長野市松代町岩野字山裏の国道403号線谷街道沿いにある。荒れた空き地の奥にぽつんとあるので、一見すると、駅らしくない雰囲気である。駅舎に寄り添う電話ボックスの三角錐屋根は、除雪の手間を省く為であろう。南関東エリアでは見られないので、可愛らしい。


(岩野駅全景。)

谷街道を挟んだ向かいの川側に、岩野の住宅地が広がる。山際を走っていた線路が、川沿いの平地に出る場所に駅があり、元は有人駅であったが、昭和47年(1972年)2月に無人化している。近年、駅舎は建て替えられたらしく、トイレ設備付きのモルタル待合室になっている。待合室内は殺風景だが、木造の内装と木造ベンチがある。ふたりの中年男性鉄道ファンが訪れていた。


(建て直された待合室。)

(待合室内。)

ホームを見てみよう。極緩やかな勾配の途中あり、屋代方が緩くカーブしている。


(松代方からのホーム全景。)

(色褪せた駅名標と名所案内板。)

屋代方に第四種踏切があり、約600m先には、薬師山を潜る北山隧道(トンネル)があるので、5パーミルの長い上り勾配になっている。


(屋代方。)

松代方は、鉄骨フレームと木床のホーム延長部があり、他の棒線駅にも見られる。ホーム長が二両編成の長さぎりぎりの為、延長した部分であろう。


(松代方と延長部。)

この付近から松代方は、山裾の傍を線路が走っている区間で、独特な雰囲気がある。また、高所から屋代線を俯瞰する、鉄道写真の有名撮影地になっているという。車を駅前に置いて、松代方に少し歩いてみよう。線路は国道と並走し、線路は緩やかな下り勾配から水平になっている。山裾を回る急カーブとレトロな鉄骨トラス架線柱が連なり、良い雰囲気である。


(松代方に歩くと、山裾に沿って半径400mのカーブを曲がる。カーブの途中から、線路の勾配は水平になる。)

駅から350m程歩くと、お宮踏切(屋代起点5k346m地点)があり、踏切を渡った右手に大きな石碑と奥に神社がある。廃レールで造った踏切柵や手書きの注意標識も、ローカル線らしさを感じる。

踏切の名称由来になっているこの山は、妻女山(さいじょさん)と呼ばれ、千曲川の川中島を一望出来る事から、永禄4年(1561年)の川中島の戦いにおいて、上杉謙信が本陣を構えた山と伝えられている。お宮踏切奥の会津比売神社(あいづひめじんじゃ)には、謙信が馬の鞍を掛けた松の木や、槍で地面を突いたら泉が湧いた伝説がある。また、山麓沿いは、小古刹が点在する田園地帯になっている。
マピオン電子地図(長野市松代町 妻女山・会津比売神社 1/8,000)


(お宮踏切。)

(手書きの注意看板。)

松代方は真っ直ぐな線路が続き、線路脇の鉄骨トラス架線柱も、立派な構造である。近年は、安価で塗装の必要が無いコンクリート柱が多く、現役も少なくなっている。なお、屋代線のコンクリート製架線柱は少なく、鉄製トラスが連なる様を見る事が出来る。古い電車と良くマッチし、鉄道写真撮影時に最高の脇役になっている。


(お宮踏切から、松代方を撮影。)

(鉄製架線柱。)

架線柱に取り付けられたプレートを見ると、「河東線 雨 五九号 大14・12」とある。大凡の意味は、「河東線(屋代線)、雨宮保線区、架線柱管理番号59号、大正14年12月設置」であろう。大正15年(1926年/昭和元年と同じ)1月の河東線の電化直前に、設置された戦前の架線柱である。しかし、横書きが左からなので、プレートは戦後に作り直されたものらしい。


(架線柱プレート。)

駅前に停めた車に戻ろう。再び、国道403号線を走り、岩野駅から約4km・10分程で、松代に戻って来た。空腹になって来ているので、昼食にする。昨日、象山神社の近くに、良さげな蕎麦屋を発見したので、そのまま車で店に向かう。蕎麦専門では無いが、蕎麦料理と串揚げがメインの「和座季楽・象山亭」である。この時期は新蕎麦が出ており、「手打ちそば処」の幟もあるので、大いに期待できる。


(和座季楽・象山亭。)

テーブル席ではなく、足が伸ばせる座敷を希望した所、こたつに案内される。この2日間は大分歩いている為、ゆったり寛げて嬉しい。奮発して、ランチメニュー「長芋とろろそば」の大盛りを注文(税込1,050円、大盛り210円)、10分程で出てきた。


(長芋とろろそば。黄金比率配合の蕎麦と美味しい山水で作ったとのこと。)

麺つゆに、長芋とろろ、生卵、薬味セットが付いている。最初から、麺つゆに全てを入れてはいけないのである。「麺つゆだけ→とろろを入れる→卵を入れる→飲み干して、最後に麺つゆで締める」と、4段階・3種類の味を楽しむのがポイントで、大盛り注文もその為である。


(特製のとろろ。)

コシのある細目の手打ち新蕎麦が、やや辛口の切れの良い濃いつゆに絡む。トロロも十分なフワフワ感があり、合わさるとハーモニーが広がり、大変美味しい。なお、長芋は、地元松代産をたっぷり使っていると言う。日替わりの様に楽しむ事も出来、大満足である。そば湯と美味しい蕎麦茶を食後に頂き、もう少し一服しよう。

(つづく)


※グーグルマップの線路部分は、廃線の為に削除されている。

2020年3月21日 ブログから転載・文章修正・校正。

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