屋代線紀行(6)綿内駅 前編

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【停車駅】◇→列車交換可能駅
若穂0838========0840綿内◇
上り408列車・須坂行き(←3522+3532/長野電鉄3500系2両編成)
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上り408列車8時38分発・須坂行きに乗車し、隣駅の綿内駅駅(わたうち-)駅に行こう。乗客は10人程、須坂方の山裾を左に迂回して、線路が真っ直ぐになると、所要時間2分で直ぐに到着する。

駅舎のある1番線ホームに到着すると、自分だけが下車をして、2、3人が乗車し、電車は直ぐに発車して行く。なお、乗車した若穂駅からの駅間距離は、1.7kmになる。


(綿内駅を発車する須坂行き電車。)

この綿内駅は、旧街道の谷街道沿いの河東線開業当時からの古い駅である。大正11年(1922年)6月開業、起点の屋代駅から10駅目、18.9km地点、所要時間約28分、所在地は長野市若穂綿内字高野、標高339mの終日無人駅になっている。なお、須坂駅から三駅目と近く、須坂の経済圏にあると言える。
国土地理院国土電子web(綿内駅)


(色褪せた建て植え式駅名標。国鉄風ではなく、長野電鉄オリジナルデザインである。)

この綿内地区は、谷街道の旧宿場町ではないが、今は、信濃川田よりも大きな町になっていて、住宅も多い。国道沿いに商店や寺院も幾つかあり、駅の東側に新しい住宅地と小学校がある。また、古くは綿内村と呼ばれ、江戸時代から明治初期頃まで、綿花栽培が盛んな地区だったそうで、地名の由来になっているらしい。明治以降になると、タバコやレンコン栽培に変わったと言う。

ホームを見てみよう。北東・南西の向きに配されており、北西側に駅舎がある。屋代線と並走している国道403号線「谷街道」も、駅舎側に面している。また、立派な木造駅舎が今も残り、二面三線の相対式ホームがあるので、列車交換も可能である。構内には、保線詰所や電留線跡もあり、結構広い。


(構内踏切から、駅舎を望む。)

(構内踏切渡り板上から、屋代方を望む。)

屋代・松代方を望むと、1番線が直進方向の片開きポイントで纏まる。本線の東側には、一本の線路、工務課の保線詰所と資材置き場がある。駅舎並びには、大きな駐車場もあり、駅前スーパーマーケットがあったらしい。


(屋代方。)

須坂方は、東側に大きな空き地があり、引込線が一本だけ残っている。広さはかなりあり、一部は携帯電話の電波塔や通路になっているが、ここに電留線が何本もあったとの事。


(須坂方と電留線跡。)

階段・警報機・遮断機付きの構内踏切が須坂方にあり、貨物ホームと思われる切れ込みやスペースも残っているが、撤去されている。なお、貨物取り扱いは昭和48年(1973年)2月、手小荷物取り扱いは昭和58年(1983年)8月に廃止されており、この頃までは有人駅であったのであろう。駅舎隣接の1番線ホームは、近代化工事で嵩上げされており、2・3番線ホームの屋代・松代方面は、古い客車ホームの部分が一部残っている。東側の3番線は、レールが草や土砂に埋まり、現在は使われていない。


(2番線ホームからの駅舎。)

(土草に埋もれた3番線。)

(ホーム端の防護柵も、長い年月を感じさせる。)

屋代・松代方東側には、長野電鉄工務課の小さな保線詰所があり、使われなくなった継電箱や部品が無造作に置かれて、ローカル線らしい雰囲気を感じる。並びの倉庫には、除雪用具も見えるのが、雪国の鉄道らしい。なお、2番線から分岐した側線は詰所の前を通って、3番線に入線するが、空中の架線は詰所の前で終端になっている。


(保線詰所。)

(鉄道用品が無造作に置かれている。※2・3番線ホーム端から、望遠で撮影。)

今度は、駅舎と駅前を見てみよう。木造駅舎の外観は、先程の信濃川田駅とほぼ同じ規模とデザインで、切り妻母屋・縦腰下板・白漆喰壁・瓦棒トタン屋根になっている。この駅の駅舎外壁には、国鉄ローカル線主要駅と同じ様に、小さな木製ベンチがホーム側に据え付けられている。


(2番線から、駅舎近景。)

(据え付けの木造ベンチ。)

(つづく)


グーグルマップの線路部分は、廃線の為に削除されています。駅の所在地は正しいです。

2019年7月12日 ブログから転載・修正・校正。

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