屋代線紀行(16)松代めぐり その2

見事な庭園をたっぷりと楽しんだら、真田邸を後にしよう。外塀の水路に沿って行くと、突き当りに旧家の旧樋口家住宅【赤色マーカー】がある。内部は一般公開されており、表門を潜ると、主屋の玄関の黒兜が出迎えてくれる(市指定文化財、入場料無料、燻蒸期間は休み、9時から16時30分まで、撮影可。)


(真田邸外垣と水路に沿って、歩く。)

(樋口家住宅。)

(黒兜が迎えてくれる。)

樋口家は、幕末の松代藩上級武士であったそうで、藩の目付役(監査役)等を努めていた。幕末期の年間禄高は、230石(こく/報酬を米に換算したもの)、現在の貨幣価値で1,400万円位だった。古くは、甲斐武田家の家臣であったと、伝えられている。


(道路側の主屋玄関周辺。)

(屋敷内の土蔵。)

主屋や庭は、細やかな手入れがされており、昔の武家屋敷の様子が良く判る。茅葺きの主屋は、江戸時代末期・文久2年(1862年)に修理された記録があり、それ以前の建築と推定されている。意外とコンパクトで、床面積は約42坪との事。表門、土塀、主屋、土蔵、屋敷神、庭園、水路がある典型的な武家屋敷配置になっており、主屋南の庭園や林は、自給用の畑であった。主屋、土蔵、長屋の三つが、市指定の文化財になっており、表門は移築されたものである。


(南側の庭園からの主屋。)

樋口家を出て、真田邸の白壁に沿って西に歩き、枡形を越えると、国指定史跡の旧・松代藩文武学校【黄色マーカー】がある。かなり大きい藩校跡なので、見学してみよう(国指定史跡、入場料大人200円、無休、9時から16時30分まで、撮影可。)

江戸時代末期の安政2年(1855年)、九代藩主・真田幸教(ゆきのり)が開いた藩校で、大きな講堂や弓・槍・剣・柔の四つの専用武芸場が並ぶ。敷地の広さは約1,600坪、建物は九棟・延べ約490坪、小学校校舎として使われた事もある。


(旧・松代藩文武学校。)

(観光案内板。)

なお、当時は庶民の学校ではなく、松代藩士の師弟が学ぶ学校であった。8歳から14歳位までは文芸を中心に、15歳から35歳までは武芸を学んだ。それまで、藩校に必須だった儒教の授業と孔子廟を廃止し、最先端の西洋医学や西洋砲術の授業を取り入れていた。敷地の正面奥に文学所があり、巨大な平屋の木造建物と大きな部屋が並ぶ様は、なかなか圧巻で驚く。東側の文学所では、漢学の講義が行われ、西側は御役所であった。なお、建物は開校の二年前に完成したが、松代城の火災で開校が遅れたという。


(文学所。)

(講義に使われた東部屋前から西を望む。)

文学所の玄関付近以外の場所と西隣の槍術所(そうじゅつじょ)南側は、土壁に囲まれており、外からは見えなくなっている。


(土塀。)

文学所前の西序は、躾け方・漢方医学・西洋医学等の講義所となっている。東序が向かい側にあり、そちらは軍学(兵法)の講義所である。


(西序。)

文学所に隣接して、柔術所、剣術所(小屋組)、槍術所(そうじゅつじょ)、弓術所の武道場が、取り囲む様に別々にある。どれも立派な木造建物で、天井が高く、現代の学校体育館を小さくした感じである。


(敷地東側の剣術所。)

(敷地南側の柔術所出入り口。)

(敷地南西側の弓術所。)

弓術所では、中年女性が、ひとり静かに的を射ていた。この藩校も、明治維新後の明治2年(1869年)に、西洋兵法の士官学校になったが、明治4年(1871年)の廃藩置県後に松代小学校になり、これらの武芸場も教室として使われた。


(的を射ている中年女性。)

文武学校の門を出ると、直ぐ左手に、旧白井家表門【青色マーカー】がある(市指定文化財、入場無料、9時から17時まで、無休、撮影可)。平成12年(2000年)に、松代の表柴町から、保存移築された武家長屋門である。江戸時代後期・弘化3年(1846年)に建てられ、三間一戸形式、間口が9間(約16m)・門部二間三尺(約4.5m)・奥行き二間(約3.6m)になっている。完全に近い状態の武家長屋門として、現存するものは珍しいとの事。また、長い間口に対して、屋根が低いのが特徴になっている。門の左右の部分は、右手に八畳間がふたつ、左手に十畳間がひとつあり、部下で藩の下級役人である同心の部屋になっている。

松代藩中級武士の白井家は、藩の御金奉行(おかねぶぎょう/藩の金庫管理者)や御普請奉行(ごふしんぶぎょう/城の石垣・地形・縄張り等の管理者)を輩出した。現在は、観光客向けの無料お休み処として活用されており、地元観光ボランティアが、茶のもてなしや観光案内をしている。


(旧白井家表門。)

旧白井家表門の向かいには、真田勘解由邸(さなだかげゆてい)【緑色マーカー】がある(内部非公開、敷地内の主屋と鎮守社が国登録有形文化財)。真田家の分家として、代々、「勘解由(かげゆ)」を名乗り、四代藩主・真田信弘(のぶひろ)や重臣達を輩出した。主屋は、江戸時代末期、松代城にあった花の丸御殿の一部を移設したと伝えられている。

なお、勘解由は名前ではなく、名字(姓)になる。二代目松代藩主・真田信政(のぶまさ)の長男である信就(のぶなり)は、実母が真田家に入る事を遠慮した為に、この分家を立てたとの事。また、信就本人は藩主にはならず、子の信弘が藩主になっている。


(真田勘解由邸。)

真田勘解由邸の門を見学していると、年配の観光ボランティアに声をかけられ、旧白井家で美味しい緑茶をご馳走になる。小梅は庭園の梅の木から収穫したそうで、シンプルな味とカリコリと良い歯応えがする。


(旧白井家で緑茶と小梅をご馳走になる。)

明治になってから、真田本家は横浜に引越してしまったそうで、現在、松代町在住の真田家は、全てが分家になっているとのこと。明治に入ると、有力な武家は華族として大都市に出て、事業等を起こす例が多かったと話してくれた。

(つづく)


文武学校は撮影可(現地の受付で確認済み)。
文化財管理者の長野市教育委員会文化財課より、写真掲載承諾済み。

【歴史参考資料】
現地観光案内板、長野市教育委員会文化財PDF資料。

2019年9月21日 ブログから転載・文章修正・校正。

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