屋代線紀行(17)松代めぐり その3

緑茶と小梅を頂いたお礼をして、再び出発しよう。そのまま、道路を南下し、町中心部を貫く国道403号線「谷街道」を横断する。「松代史跡巡り遊歩道」と書いてある案内板に沿って、細い路地に入って行く。


(街道先の細い路地。)

暫く歩いて行くと、国登録有形文化財の馬場家住宅【赤色マーカー】(内部非公開)がある。江戸後期建築の白漆喰の武家長屋門で、7間半☓2間(13.6m☓3.6m)あり、茅葺き屋根であるが、トタンを被せてある。門の両側の部屋は、家臣の家になっている。馬場家は、御意見番役等として、藩の重役を務めた。


(馬場家住宅の武家長屋門。)

馬場家住宅から南に歩いて行くと、水の音が聞こえて来て、道が広くなる。幅広の浅い水路に、さらさらと水が流れ、木々が高く生い茂った場所が見えて来る。


(水路のある小路。)

この木々が生い茂った場所は何だろうと、回って見てみると、象山神社(ぞうざんじんじゃ)【鳥居マーカー】が鎮座する(国登録有形文化財、入場料無料、見学自由、無休、撮影可)。
象山神社公式HP

この松代の第一位の大神社であり、初詣はこの神社に行くとの事。本殿横のカエデが赤々と紅葉していて、とても綺麗である。


(象山神社。)

(社殿と御神木。)

この場所は、松代藩初代藩主である真田信之の重臣・鈴木家の屋敷跡だった。屋敷庭の樹齢230年のイロハカエデが、そのまま御神木となり、社殿右手前にある。この神社は、江戸時代幕末の松代藩の藩士・大先覚者であった佐久間象山を御祭神として祀っている。実在した近世の歴史的人物を祀る神社は、全国的にも大変珍しく、松代の人達の大きな尊敬の念を感じる。

佐久間象山は、藩主の相談や補佐役の他、優秀な教育者、政治家、科学者でもあり、開国圧力の荒波に揉まれていた幕末の大先覚者として、世界国家観や尊皇開国論等を論じ、明治政府の政策にも、大きく影響を与えたといわれている。また、昭和13年(1938年)の創祀と、非常に新しい神社である事から、他界してもなお、地元の厚い尊敬や当時の政局や世相が噛み合ったのであろう。


(拝殿。)

表の鳥居横には、立派な銅像が立てられており、あの吉田松陰、勝海舟や坂本龍馬も門下生であった。しかし、大政奉還の3年前の元治元年(1864年)、開国派論者であった象山は、攘夷派の刺客に訪問先の京都で襲われ、暗殺されてしまった。享年54歳であったとの事。銅像は細面で精悍な風貌に見え、「幕末の志士」と感じる。


(佐久間象山の騎乗銅像。先生と呼ばれているらしく、町民は親しみがあるのだろう。)

象山神社から、更に南下してみよう。右手に大きな山が迫ってくる。この山も象山と呼ばれ、その山際に山寺常山邸(やまでらじょうざんてい)【黄色マーカー】がある(国登録有形文化財、入場料無料、9時から16時30分まで、無休、撮影可)。松代町最大の長さ22mの長屋門と書院があり、無料休憩所や多目的施設になっている。長屋門は江戸時代後期から明治初期、書院は大正末期から昭和初期の建築といわれているが、主屋は大正時代に失われた。

佐久間象山と共に、八代藩主・真田幸貫(ゆきつら)の信望が厚かった山寺常山は、藩の寺社奉行(寺社の統括職)や郡奉行(こおりぶぎょう/代官を統括する民政の上級職)、兵法の教授、藩主の補佐役として活躍した。明治新政府にも招聘されたが、この長野に留まり、後進の育成に力を入れたという。


(山寺常山邸長屋門。)

敷地内に足を踏み入れると、どんどん水が流れ込んでいる大きな池があり、鯉が沢山悠々と泳いでいる。池の周囲は、休憩出来る様に綺麗に整備されている。この池は「泉水」といい、山際を流れる神田川から水を引き込み、池から延びる泉水路が各屋敷に水を供給していた。今は、山の静けさの中、水の流れ落ちる音のみが響いている。


(泉水。)

また、門の前には、水量が豊富な水路があり、鯉が沢山泳いでいる。水路脇を歩くと、餌が欲しいのか、群れを成して付いて来る。良く見ると、一匹だけ、白い鯉が居たりする。


(後を付いてくる鯉達。)

山寺常山邸から、更に、細くなる道を南に歩く。この象山の麓には、小さな神社や寺も点在する。この竹山随護稲荷神社【祈りマーカー】は、真田家由縁の小社で、懸け造り(かけづくり)様式の神社になっている(見学自由、無休、撮影可)。

元々は、真田江戸屋敷の鎮守であったが、松代城内に移し、その後、現在地の近くの恵明寺(えみょうじ)境内に移した。藩主の保護もあり、地元周辺でも名が知れて、江戸時代末期は参拝者が多かったという。明治政府の神仏分離により、現在の崖の場所に本堂を移転した。


(崖にある竹山随護稲荷神社。コンクリート橋を渡った対岸にある。)

(千本鳥居。石段を登ると、社殿にたどり着く。)

神社の南隣にある恵明寺(えみょうじ)【寺マーカー】は、三代藩主の真田幸道(ゆきみち)が、延宝5年(1677年)に建立した由緒ある小さな禅寺になっている。臨済宗と曹洞宗に継ぐ、黄檗宗(おうばくしゅう)と呼ばれる宗派である。緑のとても多い境内は、こぢんまりとした山寺の雰囲気を感じさせる。なお、開基当時の建物は山門のみで、災禍により、本堂等は江戸時代後期の再建との事(入場料無料、9時から16時まで、無休、撮影可)。


(恵明寺山門。)

(本堂。)

三代藩主である幸道の信仰も厚かったそうで、位牌も安置されている。境内には、幸道の夫人・豊姫の御霊屋(おたまや/墓所の事)もある。豊姫は「あんず姫」とも呼ばれ、実家より杏の鉢植えを持参して愛でた事から、この付近一帯で特産になっている杏栽培のきっかけを作っている。なんと、あの伊達政宗の孫娘にあたる。

(つづく)


文化財管理者の長野市教育委員会文化財課より、写真掲載承諾済み。

【歴史参考資料】
現地観光案内板、長野市教育委員会文化財PDF資料。

2019年9月21日 ブログから転載・文章修正・校正。

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