流山線&竜ヶ崎線紀行(8・流山線編)流山歴史散策 その1

流山線終点の流山駅から、地元古刹や名所を巡る歴史散策に出かけよう。時刻は10時半を過ぎた所である。江戸川沿いの東岸に位置する流山は、江戸時代から明治・大正時代にかけて、商業の中心地として大いに栄えたという。特に、江戸川を利用した水運業と白味醂(みりん)造りが有名であった。白味醂は、「万上(まんじょう)」のブランドでよく知られており、地元実業家の堀切家が江戸時代末期の文化11年(1814年)から造っていた。他に、秋元家の「天晴(あっぱれ)」も有名であった。現在、堀切家の醸造所はキッコーマンになっており、そのブランドを守って生産している。一方、秋元家は廃業してしまったが、こだわりの品を揃える地元の酒屋として残っている。醤油造りや豊富な水利からの米や麦作りも盛んで、当時の関東一円では、「醤油は野田、味醂は流山」と評された程である。

また、生活用品の集積地として、米穀商、呉服屋、金物屋、雑貨屋などが軒を連ね、30kmも離れた遠方からも、人々が買い物に来たという。昭和高度成長期以降、東京のベッドタウンに変容したが、中心地であった根郷地区周辺に往年の面影も残っている。

最初に駅周辺の寺社や名所を見ていこう。観光地としては、かなりマイナーなので、週末でも観光客が少ない感じである。実は、この流山は、江戸幕府末期の動乱期に活躍した新撰組の隊長・近藤勇(いさみ)と副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)が離別した地である。その新撰組が本陣を構えた跡【赤色マーカー】が、駅の近くにある。万上線跡から、県道5号線流山街道を横断し、住宅地の路地を北に少し進むと、古い蔵が建っている。


(街道から住宅地の路地に入る。)

(新撰組本陣跡。当時、この蔵はなく、ここにあった母屋が本陣であったという。慶応4年[1868年]4月初めのことであった。)

新撰組については、歴史が好きな人ならば、その時代背景や経緯などはよく知られているので、詳しくは割愛したい。江戸幕府の命により、幕府直轄領(天領)出会った甲州(現・山梨県甲府市)に進撃し、薩摩長州藩を中心とする新政府軍(西軍)に大敗した新撰組は、この流山に逃げ帰り、再起を図ろうとした。しかし、新政府軍偵察隊に見つかり、包囲されてしまった。流山の町や町民を戦火に巻き込むことになると、危惧した近藤は自ら出頭し、捕らえられたという。

現在は、元・醸造家の秋元家の敷地に蔵が建っているが、元は永岡家という醸造家があった。記念碑や歴史解説板も整備され、この流山の代表的な名所になっている。なお、近藤は新政府軍が本陣を置いていた板橋に護送され、首をはねられた。一方、土方や残った隊士達は江戸川を渡り、逃げ延びた。この後、宇都宮・会津・仙台を経由し、函館へ。あの五稜郭で最後の戦いをしたのである。ちなみに、流山の陣立てから函館の終焉の時まで、約1年の歳月しかかっていない。

本陣跡の南側には、白味醂「天晴」を造っていた秋元家の酒店がある。奥の敷地は広く、工場があった頃のままであるらしい。出入口横には、陣立ての際、近藤と土方が戦勝祈願をしたという、秋元稲荷神社がある。


(秋元酒店。今風の洒落た造りの酒屋である。流山の名産品も扱っている。)

(秋元稲荷神社。秋元家の私設神社らしく、江戸時代後期の享和2年[1802年]に、京都伏見稲荷から勧請したとある。)

更に奥に向かって歩こう。本陣跡の西隣には、閻魔堂(えんまどう)【黄色マーカー】がある。共同墓地の一角に、伝統的な寺院建築ではなく、昭和の民家風建物の中に江戸時代作と伝えられる閻魔様を祀っている。サッシ窓から覗いてみると、奥の押入れのような場所に坐像が安置され、どこか愛嬌があり、あまり怖くない感じである。また、出入口近くの墓地には、当時の義賊として有名であった、金子市之丞(いちのじょう)の墓がある。「金市様」と呼ばれ、歌舞伎の有名演目の主人公になっているので、ご存知の人も多いだろう。


(閻魔堂。出入口にあるポンプ式井戸も懐かしい。境内には、六地蔵や祠も並ぶ。)

(木造の閻魔様。江戸時代中期の安永5年[1778年]に安置された。200年以上も前である。)

このまま、この路地を突き当たると、1.5車線の少し広い道路に出る。本町通りと呼ばれ、現在の県道5号線流山街道が昭和30年後半に開通する以前のメインストリート(表通り)である。江戸川の堤防に沿って、南北に延び、寺社や古い商家もいくつか残っている。今は、疎らに商店がある住宅地になっているが、戦前には大きな商店街があり、60軒以上の商店がびっしりと建ち並んでいたという。

この突き当たりを左に曲がると、二軒の国登録有形文化財の商家が向き合っている。堤防側の清水屋本店【菓子マーカー】は明治時代中期の創業(明治35年/1902年)で、今も営業している流山の老舗和菓子屋である。木造の二階建て日本家屋に大きな白モルタルの看板を掲げ、堂々とした店構えが素晴らしい。もちろん、創業当時の建物である。

先ほどの本陣跡の蔵を形どった「陣屋もなか(税込157円)」が名物であるが、あいにく、開店前である。北海道小豆を丁寧にかまどで薪炊きした逸品らしい。今度、食べてみたい。

【清水屋本店】
定休日・土日、営業時間・12時から19時まで。駐車場なし。流山市流山2-26。


(和菓子司の清水屋。戦前、左隣には、千葉銀行の支店があったらしい。自然堤防の上に建てられたが、昭和8年[1933年]頃に表通りの掘り下げ工事があり、一部改修されている。後ろの母屋よりも店舗部分が低く、床の段差があるという。)

向かいには、旧・寺田屋茶舗(現・万華鏡ギャラリー見世蔵)【青色マーカー】がある。明治時代中期の明治22年(1889年)に建てられた木造二階建て店舗兼住宅で、茶、干し魚や塩魚を扱っていた。戦後の昭和38年(1963年)まで営業し、その後は倉庫として使われたていたという。平成23年(2011年)に登録有形文化財に指定されている。流山本町の観光案内所でもあるので、立ち寄ってみよう。頭がぶつかりそうな低い引き戸をカラカラと開けると、中年女性のガイドさんが、ニコニコと対応してくれた。この流山の外せない見所を教えて貰い、パンフレットや資料も頂く。

【万華鏡ギャラリー 寺田屋茶舗 見世蔵】
定休日・月曜日と火曜日(祝日は開館)、営業時間・10時から19時まで。
入場無料。駐車場なし。観光案内所と市民ギャラリーを併設。


(旧・寺田屋茶舗。間口は7m「4間」しかないが、奥行きは150mもある。なお、寺田屋は流山街道沿いの商工会議所前に移転し、今も営業している。)

ギャラリーも併設しており、流山在住の世界的な万華鏡作家・中里保子氏の作品を多数常設展示している。ステンドガラスの絵付けの傍ら、万華鏡作りを始め、今や国内やアメリカでの賞を多数受賞。全国各地での個展や愛知万博のワークショップも開催しているという。

万華鏡というと、手で持てる筒型のものを思い浮かべるが、ライトボックスを兼ねた箱型の大きなもので、上から覗き込むと、非常に美しい模様が見える。繊細な和の雰囲気を十分に感じる作風は、特に海外での評価が高く、ステンドガラスの光の技術を活かした趣である。


(中里保子氏制作の万華鏡。どちらも受賞作品である。※外観は撮影可。内部は不可。撮影公開許可済み。)

(中里保子氏と作品内部の模様を紹介した雑誌。)

観光案内と撮影のお礼をいい、出発する。本町通りを折り返し、そのまま北に向かおう。突き当たりを過ぎた先に常与寺(じょうよじ)【寺マーカー】がある。鎌倉時代末期の嘉暦(かりゃく)元年(1326年)に創建された日蓮宗の古寺である。明治時代初期、この流山には印旛県(いんばけん/廃県。現在の千葉県の前身)の県庁が置かれていたことから、県内最初の学校「流山学校(現・流山小学校)」と師範学校(教員養成学校。現・千葉大学教育学部)が、この寺に置かれたという。境内には、千葉師範学校発祥の大きな石碑が建立されている。


(常与寺。山号は梅木山「ばいほんざん」、松本坊日念上人「しょうほんぼうにちねんじょうにん」が開山したと伝えられている。)

(千葉師範学校発祥の碑。当時は、印旛官員共立学舎と呼ばれていた。)

その先には、流山本町の地鎮である流山浅間神社(せんげんじんじゃ)【鳥居マーカー】がある。江戸時代初期に江戸川が開削(※)、街並みが出来上がり始めた頃に勧請され、正保元年(1644年)創建と伝えられている。

本来の信仰対象は富士山そのものであるが、美しい女神である木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)が御祭神であり、浅間大神の化身とされている。なお、この姫の曽孫が、初代天皇の神武天皇である。主な御利益は、女神由縁らしく、安産、子育て、縁結び、家内安全、夫婦円満、火除けとのこと。


(流山浅間神社。例祭は毎年7月に行われている。)

(社殿。よく手入れがされている神社である。)

また、流山周辺は富士山信仰(富士講)が盛んであったらしく、この神社裏に巨大な富士塚があ理、その大きさと急峻さに驚く。富士が「不死」に通じることから、健康長寿や極楽浄土の信仰を集めたという。高さは7mほどあり、二階建ての住宅の屋根相当で、これだけ大きなものは、県内でも屈指という。折角なので、登ってみよう。最近では、流山のパワースポットとして、人気が出てきているらしい。


(神社裏の富士塚。)

江戸時代中期築のもので、当時は、少しずつお金を出し合って、富士山へ順に登頂参拝するのが盛んであった。しかし、年齢や体力などで登山参拝できない人達のため、本物に似せたこの富士塚を造った。頂上の浅間大神の石宮に参拝すれば、同じ御利益が得られるとされる。本物の富士山頂から運んだ土を盛り、江戸川水運で運んだ溶岩(黒ボクという)を張り付け、登山道や合目の石柱も据えてあるのが面白い。水運と味醂で大いに栄えた流山の人達が力を合わせ、心を込めて築き上げたものは、町の誇りであったと思う。


(中腹には、色々な神様の石宮や花木が植えられている。なお、登山道は片靴分の幅しかなく、溶岩も尖っているので、登り難い。)

(明治19年に建立された頂上の石宮と8合目と9合目の石柱。)

大したことはないと思ったが、結構きつい。歳のせいか、息切れもする。やっと、頂上の石宮に参拝し、思わず万歳をしてしまった。周りを見渡すと、一戸建て住宅の屋根が見えるだけであるが、本物の富士山が見えたという。そして、じわじわと達成感を不思議に感じる。それが御利益であろう。


(頂上から、本殿を見下ろす。隣接する三階建て住宅の三階部分と同じ高さなので、少し怖い。)

(つづく)


(※江戸川)
氾濫を繰り返す利根川の分水路として、江戸時代に開削された巨大な人工川である。野田市北部の関宿付近から分流し、東京湾に注ぐ一級河川である。

【参考資料】
現地観光案内板・歴史解説板
流山本町江戸回廊(流山市観光協会・2016年/観光散策マップ)
総武流山電鉄の話「町民鉄道の60年」(北野道彦・1978年・崙書房)

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