流山線&竜ヶ崎線紀行(9・流山線編)流山歴史散策 その2

この流山浅間神社(せんげんじんじゃ)から、表通りを北に進んでみよう。この通りの所々には、古い商家が幾つか残っている。神社の真向かいには、古い建物【赤色マーカー】がふたつ並んでおり、左は伝統的な和風建築の商家、右は大正昭和風の和洋折衷の建物になっている。


(流山浅間神社向かいの古い建物。今は、中規模マンションも通り沿いに建ち並び、住宅地化が著しい。※追加取材時に撮影。)

左の黒壁の商家は、大正12年(1923年)築で、イタリア料理の飲食店がテナントとして入り、保存状態も大変よい。流山市の古民家再生プロジェクト第一号として、元々の意匠を生かして、補修や改修したものである。外装のみではなく、内装や土間もそのまま生かしているという。また、国登録有形文化財に指定されている。和の雰囲気たっぷりの中でのイタリアンも、かつてない組み合わせで、楽しめるだろう。なお、屋号の丁字屋は、元々の足袋屋(たびや/日本の伝統的な靴下)であった屋号を、そのまま使っているとのこと。

丁字屋栄 公式ホームページ


(丁字屋栄。)

右の和洋折衷の建築は、築年は不明であるが、古い医院を改装したという。戦後の昭和30年代頃のものかもしれない。天然酵母を使った和風ベーカリーカフェが入っていたが、残念ながら、閉店している。


(レトロな旧医院。玄関や軒下外壁などに小粋なデザインが見られる。派手なピンク色も、本来の色であろう。テナントの開店時に建物全体が補修されたらしく、とても綺麗である。)

この丁字屋のすぐ先には、国登録有形文化財の呉服新川屋【黄色マーカー】がある。江戸時代末期の弘化3年(1846年)創業、明治23年(1890年)竣工の築130年近い商家は、一階が店舗、二階が住居になっている当時の一般的な商家造りで、現役の店舗であるのが凄い。妻面の厚い土蔵壁は、防火のためで、この建物の重厚さを増している。鬼瓦には、縁起担ぎの恵比寿天(北側/商売繁盛の神様)と大黒天(南側/財宝の神様)があしらわれているのも、特徴になっている。

なお、この付近は広小路と呼ばれ、新川屋と同じ意匠の商家が、建ち並んでいたという。昭和の高度成長期の昭和30年代から40年代にかけて、建て替えや廃業などにより、急速に姿を消してしまった。


(呉服新川屋店舗。流山市初の有形文化財である。平成17年に文化財として、保存修理がされている。)

新川屋前の路地を入ると、笹屋土蔵【青色マーカー】がある。明治31年(1898年)築の白漆喰壁土蔵造り二階建てで、元は寝具店であった。取引先の蔵を解体移築したもので、補強工事の跡も見られるという。現在は、蔵カフェ兼ギャラリー「灯環(とわ)」が、テナントとして入る。道路側の窓とドアは、近年に取り付けられたものとのこと。なお、笹屋自体も表通りに面した新店舗があり、寝具店として、現在も営業している。日本橋越後屋、現在の三越の仕立屋をルーツとし、流山市内でも屈指の老舗とのこと。

【蔵カフェ+ギャラリー 灯環(とわ)】
定休日・火曜日と水曜日(祝日は翌日振り替えの場合あり)、
営業時間・10時30分から17時30分まで。専用駐車場あり、予約可。

蔵カフェ+ギャラリー灯環 公式ホームページ


(笹屋土蔵も、国登録有形文化財に指定されている。※追加取材時に撮影。)

新川屋先に通称・広小路三叉路という交差点があり、道なりに進まず、旧道を更に北に向かって歩く。この先も昭和時代の店が並んでいるが、廃業している店が多い。三叉路近くには、呉服ましや(増屋)の店舗と土蔵【緑色マーカー】がある。店舗は新川屋と同じような出桁造りの和風商家であったが、関東大震災(大正12年/1923年)後に、流行していた看板建築風に大改築したという。一見、元の商家の意匠は、全くわからない感じである。


(広小路三叉路付近からの本町通り北方向。車や人通りは大変少なく、静かである。)

(広小路地区にある古い牛乳販売店。明治乳業のマークが懐かしい。店は閉まっているが、トラックや牛乳箱は新しいので、戸口配達だけ行っているらしい。また、右隣の元・秋元の酒倉庫も古く、大きな屋根通風器が乗っている。※追加取材時に撮影。)

(ましや店舗。大震災後の防火や延焼防止の道路拡張のため、関東全域で多数改築されたという。)

ましや店舗の左横には、土蔵が連なっている。この流山本町周辺で最も古いといわれ、墨の棟書きには、明治3年(1870年)8月竣工とある。なお、店舗と土蔵共に、流山市の指定有形文化財になっている。


(明治3年築のましや土蔵。)

ますやの先にも、もうひとつの伝統的和風商家があり、和紙ランプなどを制作販売する「流山あかり館彩(いろどり)」【紫色マーカー】が入る。実は、長良川鉄道編の美濃市観光で紹介した「あかり館彩」の東京直営店であり、どこかで聞いたような店名であるので、とても驚いた。正確な築年は不明であるが、築80年の乾物屋を改装したという。手頃で、おしゃれな和紙小物も多数扱っているので、女性にもお勧めしたい。

流山あかり館彩 公式ホームページ


(流山あかり館彩。外装も手入れがされ、古道具がディスプレイされてるが、元の意匠を壊さないようにしている。)

その向かいには、ひと町に一店という感じであろうか。高山せんべい店【菓子マーカー】がある。鰭ヶ崎(ひれがさき)の流山せんべい店と同様にご当地名物である。明治初期創業、伝統の炭火手焼きを守っているそうで、追加取材時の昼過ぎに立ち寄ったが、店番をしている年配のお母さん曰く、「全て売り切れたよ」とのこと。とても人気があるらしい。


(高山せんべい店。流山のせんべいは、埼玉の草加せんべいと異なり、薄焼きが基本である。)

旧流山街道を離れ、江戸川河岸に行ってみよう。あかり館横の路地を入る。この付近の字(あざな)は、「加(か)」の一文字で珍しい。流山一丁目などもあるが、流山駅の西側から南方の平和台駅にかけてのエリアで、新しく付けられた字であろう。元々は、「加岸」であったらしく、他に、加台、根郷(浅間神社付近の中心部)や宿などがあり、現在の流山本町地区が該当する。


(あかり館横の路地に入る。加六丁目付近、向かいの段差が堤防。)

富士橋という小さな橋を渡り、急階段を上ると、堤防道路【カメラマーカー】に接続している。江戸川は利根川の治水(分水路)と水運のため、江戸時代初期に開削された人工河川であるが、とても川幅が広い。利根川河岸の関宿付近から分流後、真南に流れ、鉄道駅の松戸、金町(共にJR常磐線)や市川(JR総武本線)の近くを通って、東京湾に注いでいる。この付近には、渡しの跡も幾つかあり、シーズンには、桜や菜の花も楽しめる。

この場所には、矢河原「やっから」の渡しがあったという。明治時代に設置された渡しで、昭和35年(1960年)頃まで存続した。なお、この渡しで、新撰組の土方歳三(ひじかたとしぞう)と隊士達が流山を去ったとの通説があるが、史実と異なる。


(江戸川上流方を望む。流れはとても穏やかで、遠くの白塔は清掃工場である。天気のいい日には、東京スカイツリーや富士山も見えるという。)

このまま、堤防道路を南に歩く。左手には、流山の町並みが見下ろせる。途中、キッコーマンの工場【工場マーカー】が見えたので、近くまで行ってみよう。元々は、地元実業家・堀切家の醸造工場であった。今も、流山発祥の白味醂「万上(まんじょう)」を生産している。工場内の見学はできないが、外壁に白味醂の歴史や昔の写真が多数展示されており、当時の貴重な写真も多い。


(堤防道路から流山の町並みを眺める。)

(流山キッコーマン酒造部工場の流山まちなかミュージアム。白味醂誕生200周年として、歴史的資料を展示している。写真中心なので、歩きながら、気軽に見学できる。)

この外壁の先に凹んだ場所があり、何だろうと見てみると、江戸時代中期建立の庚申塔(※)二基【祈りマーカー】が並んで鎮座している。庚申塔自体は各地でよく見られるので珍しくはないが、「庚申様」と呼ばれ、特に大切にされているらしい。左側は祠付きの元文5年(1740年)、右側は祠なしの文化15年(1818年)のものである。流山市内でも唯一、庚申信仰の祭祀を今も行っているそうで、歴史民俗遺産として、大変貴重とのこと。祭祀関係の道具や資料も100点以上現存するのも、珍しいという。また、左の庚申塔は駒形になっており、初めて見て驚いた。


(流山三丁目の庚申様。平成23年に流山市指定の有形民俗文化財になっており、手厚く保護されている。※追加取材時に撮影。)

(つづく)


【参考資料】
現地観光案内板・歴史解説板
流山本町江戸回廊(流山市観光協会・2016年/観光散策マップ)
総武流山電鉄の話「町民鉄道の60年」(北野道彦・1978年・崙書房)

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