流山線&竜ヶ崎線紀行(7・流山線編)流山駅と延伸計画

鰭ヶ崎(ひれがさき)駅に戻るとしよう。時刻は10時前である。この後は、終点の流山駅に再び行き、適時に昼食を取ってから、流山の歴史散策をしてみたい。鰭ヶ崎発10時08分の下り電車に乗り、4分足らずで、終点流山駅に降り立つ。

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鰭ヶ崎1008======1012流山
列車番号33・下り・流山行き
流鉄5000形「あかぎ号」(ワンマン運転)
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先に、1日フリー切符を改札係氏に見せ、駅撮影の許可を貰っておこう。

この流山駅は開通当初からの終着駅として、大正5年(1916年)3月14日に開業、起点駅の馬橋から5駅目、5.7km地点、千葉県流山市一丁目、海抜10mの社員配置有人駅で、本社もここに置かれている。駅の場所は変わらず、何回かの改修もされているが、築100年超える開業当時の木造駅舎は当時の面影を残している。また、第二回関東の駅百選に選定されている。ちなみに、流山の地名の由来は、太古の昔、群馬県中央部にある赤城山(あかぎやま)の土砂が、大洪水により流れ着いた伝説による。


(電光式吊り下げ駅名標。小金城趾駅と同じようなオリジナルタイプである。)

江戸川の河岸から400m東の市街平坦地にあり、3両編成程度の長さの島式ホーム1面2線を南北に配し、北側奥に車両検修区(点検修理工場)がある。ホーム東側に電留線を兼ねた側線2本と、西側に短い引込み線1本がある。なお、ホーム東側向かいに巨大なコンクリート壁が聳えているが、元々は、雑木林の高台であった。現在は、木々は切り倒され、市役所と公園になっている。


(2番線ホーム南端からの全景。西側の2番線はホームの延長部がある。)

ホームと旅客上家は近代化されており、Y字スレート屋根(※)であることから、昭和中頃に建て替えられたらしい。国鉄風の広告付きプラスチックベンチも、背合わせで佇んでいる。


(ホームの中程から東側。この駅では、駅舎側が2番線になっている。ベンチには、手作り座布団が置かれている。)

(車両検修区。1番線の延長部も検修区へそのまま繋がる。)

馬橋方を望むと、真っ直ぐに住宅地の中に線路が延びる。600m先には平和台駅がある。


(馬橋方を望む。流山駅を発車する「あかぎ号」。駅上の跨線人道橋から撮影。※翌日の追加取材時に撮影。)

今日は同時運行本数の少ない土曜日なので、休車している「なの花号」と「若葉号」が側線に留置されている。現在の流鉄の車両形式は、5000形の一形式5編成しかなく、全て西武鉄道新101系電車の譲渡車をワンマン化したものである。5色のイメージカラーと車体側面の大きなNラインが印象的で、平成22年(2010年)から順次導入された。なお、流山線は平坦線であるが、全車M車(モーター付きの動力車/M+M”)であり、クモハ5000形とクモハ5100形の背合わせの山線並みの強力な動力性能であるのが面白い。また、譲渡先として、西武鉄道との資本関係が無いのも珍しい。

【流鉄5000形/元・西武鉄道新101系の主な諸元】
20m鋼製車体、3ドア通勤形、最高速度・時速105km、自重40.0トン(クモハ)、
定員144名(クモハ5000)、中空軸平行カルダン駆動、
直流直巻モーター150kW×4、抵抗制御方式、電磁直通空気式ブレーキ、
抑速ブレーキ付き発電ブレーキ。


(流鉄100周年ヘッドマークを掲げた「流馬号」。5編成の中では、最初に導入された第一編成になり、流山線の代表編成である。※追加取材時に撮影。)

(「あかぎ号」(手前赤色)、「なの花号」(奥左黄色)、「若葉号」(奥右緑色)。あと、橙色の「流星号」がある。愛称も、2代目のあかぎ号以外は、全て3代目になる。また、文字だけであるが、ヘッドマークも装備する。※追加取材時に撮影。)

駅舎と改札口はホーム北寄り一段下にあり、幅はあるが、鉄パイプのみの簡素なラッチになっている。民営鉄道の起点終着駅によく見られる頭端式のホームではない。


(改札口。立て看板は、タイアップしている若者向けアニメーションの流鉄100周年記念看板。)

改札口を通ると、広い待合スペースがあるが、風防などの設備はなく、待合用のベンチも殆ど無い。平日の日中は約15分毎に発車し、ホームに電車が待機している場合が多いので、必要が無いのだろう。改札口の並びには、自動券売機2台と有人の出札口がある。勿論、硬券の入場券や一部の区間乗車券、JR連絡用の補充券も扱っているので、流鉄線訪問記念に良いだろう。上に掲げられた運賃表も、どこかしら国鉄風である。なお、SuicaやPASMOなどのIC乗車券は、首都圏の鉄道でありながら、導入する予定がないという。


(自動券売機と出札口。)

(訪問記念に購入した、流山駅の普通硬券入場券。)

駅前に出てみよう。駅舎は西に面し、小さなロータリーと広い駅前スペースがある。駅舎横には、流鉄が経営していたタクシーの営業所があったが、今は廃屋になっている。なお、流鉄タクシーは鉄道事業の兼業として、昭和37年(1962年)11月から、たったの2台で始めたが、平成14年(2004年)に他のタクシー会社に事業譲渡されている。他にも、不動産業、スナック、自動車整備業や駅直営売店などの兼業を行なっていた。現在は、不動産業以外は廃業している。


(駅舎全景。戦前の昭和12年に駅舎の大改修を行なっている。また、縞模様のテント下に構内売店があったが、閉店してしまった。)

(流鉄タクシー営業所跡。うっすらとペンキ跡が残る。経営譲渡後も、名称はそのまま使われており、駅構内に客待ちしている。)

向かい側には、流鉄開業100周年の記念カラー案内板が建てられている。昭和30年代の流山駅の様子や昭和15年(1940年)頃のタンク式蒸気機関車、歴代の電車の写真もあり、興味深い。


(駅前にある流鉄開業100周年記念カラー案内板。)

流鉄の本社は構内南側にあり、運転指令所や乗務員の宿泊所、保線員の詰所がある。西側の引込み線は本社敷地に面しており、譲渡車両の搬入なども行われている。また、ここから、近くのキッコーマンの酒造工場(当時は野田醤油流山工場※/地元実業家の堀切家の経営)に延びる引き込み線があり、原料の搬入や製品が出荷されていた。昭和4年(1929年)から昭和44年(1969年)までの約40年間使われていたという。現在は市道化してしまったが、その面影が残っている。


(引き込み線の大カーブ跡。製品ブランド名から、通称・万上線「まんじょうせん」と呼ばれていた。※追加取材時に撮影。)

(当時の空撮写真と工場の貨物ホーム。長さは300m程で、現在の県道5号線を横切っていた。※追加取材時に観光案内板を撮影。)

ここで、流山線の路線延長計画について見てみよう。

馬橋から流山までのたった5.7kmの鉄道は、小資本・短期間で開業できたが、中長期的に見ると、経営上のマイナスも大きく、歴代の経営陣は延伸問題に悩んでいたという。路線が短ければ、乗客も貨物もそれに応じて限られてくるのである。また、日清戦争後から大正時代末期までは、民営鉄道の開業や時代の先端的事業であった鉄道への投資が全国的に盛んであった。次々に開業する周辺のライバルの鉄道会社に、利用客や貨物を取られる恐れもあった。

【黒線】開業から現在までの流山線(馬橋から流山間)
【赤線】馬橋から中山まで(現・総武本線下総中山駅)
【緑線】馬橋から州崎まで(現・東京メトロ東西線東陽町駅付近/松戸・市川・行徳・砂町経由)
【青線】流山から野田、関宿まで(現・野田市北部)
【青線+紫線】流山から野田、関宿、小山まで
【黄線】流山から江戸川(現・東武江戸川台駅)
※線はイメージで、正確なルートを示したものではない。

なんと、会社設立の1ヶ月後、開通前の大正2年(1913年)12月には、路線延長が申請されている。常磐線(当時は日本鉄道土浦線)と総武本線の連絡線として、馬橋から中山(現・総武本線下総中山駅)までの約12km・狭軌1,067mm、野田方面・利根川南岸を結ぶ路線として、流山から関宿(現在は野田市北部の利根川南岸の町)までの約32km・狭軌1,067mmであった。しかし、船橋鉄道(総武本線の船橋から常磐線の柏まで/未成線)や県営鉄道野田線(現・東武野田線)と競合し、利根川方面は舟運で事足りることや、当時の千葉県知事が反対したため、翌年に却下されている。

その10年後、流山・野田・関宿を結ぶ約28kmの北行き路線を再申請したが、北総鉄道(東武野田線の前身/現在の北総鉄道とは異なる)と競合することや、野田以北は人口や産業に乏しいと判断されたため、却下されている。

それでも、大正15年(1926年)10月には、馬橋から東京深川の州崎(現・東京メトロ東西線東陽町駅付近/松戸・市川・行徳・砂町経由)までの約51km、狭軌1,067mm、1,200V電化の大きな計画を申請。昭和3年(1928年)に馬橋から中山間の約12kmを再申請したが、全て却下されている。この頃、流鉄は赤字経営に転落し、実現は難しいと判断されていたらしい。また、大正14年(1925年)6月には、陸軍の糧秣廠(りょうまつしょう/兵士や軍用馬の食料を保管・供給する施設)が平和台駅近くに建設され、軍需品を運ぶ軍用鉄道になり、戦時下でありながら、利用客数・貨物取扱量が共に増加した。社会情勢や経営状況が大きく変化したため、早急な延伸の必要性が無くなったらしく、これ以降の申請は行われなかった。

戦後になると、高度経済成長に応じて、昭和35年(1960年)に流山・野田・関宿・小山への最大規模の北行き路線延伸・約57kmを申請。開業した際には、東日本電鉄に社名を変更する大計画であった。しかし、流鉄側が取り下げ、再度、流山から江戸川(東武江戸川駅)間の約4kmを申請したが、都心へのショートカットになると危惧した東武鉄道の反対にあったらしく、頓挫している。

その後は、沿線の急速なベッドタウン化により、爆発的に利用客が増加した。延伸計画よりも、朝夕の通勤ラッシュの緩和が緊急課題になった。馬橋駅の拡張と駅ビル化、複線化が真剣に検討されたという。しかし、費用対効果の面で見通しが悪いため、列車の長編成化、小金城趾駅の列車交換設備新設や頻発ダイヤ化で対応した。

もし実現していたら、どうのようになっていたのか、考えるも面白い。しかし、鉄道を取り巻く環境は激変し、首都圏近郊の長大ローカル線は経営が厳しい。戦前の軍需品輸送と戦後のベッドタウン化に二度助けられたといえ、これで良かったかもしれない。

この流山は東京至近でありながら、歴史のある古い町で、古刹や名所も多い。早速、散策にしてみよう。入手した観光パンフレットを見て検討する。この流山駅周辺にいくつかの主な古刹や名所があり、そのまま、江戸川の堤防を歩いて西に向かうと、隣の平和台駅にゴールできる感じである。このオリジナルコースで行ってみようと思う。気温も大分上がり、天気も上々で、気持ちがいい。


(流山駅から出発する。)

(つづく)


(※スレート屋根)
セメントと石綿(アスベスト)を混ぜて固め、着色したもので、高耐久、手入れ不要、高遮音性、不燃性、重量も価格も瓦の半分だった。昭和の頃まで、良く使われていた。
(※野田醤油流山工場)
流山でなく、野田の会社名であるのは、野田醤油株式会社を合併したため。

【参考資料】
総武流山電鉄の話「町民鉄道の60年」(北野道彦・1978年・崙書房)

2024年9月10日 文章修正・校正・一部加筆

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