真壁めぐり その3

さて、この真壁の地名の由来は何であろうかと考えたが、よくある地勢由来ではない感じはしていた。実は、大化の改新以前の5世紀後半に在位したとされる、第22代天皇・清寧(せいねい)天皇に由来するという。

当時、真壁周辺は新治国(にいはりのくに)の一部で、京の天皇家の直轄領(名代部/なしろべ)であった。清寧天皇は生まれながらに白髮であったと伝えられ、皇太子時代は白髮(しらか)皇子と呼ばれており、不幸にも即位後数年で崩御。その名を残す御名代(みなしろ)として、「白髪部(しらがべ)」と名付けられた。その後の大化の改新(645年)時に、常陸国(ひたちのくに/現・茨城県)が設けられると、「白髪部」を二文字にし、「白壁(郡)」にした。後の奈良時代の延暦4年(745年)、第50代天皇・桓武(かんむ)天皇は、父の光仁天皇の諱(いみな※)に触れることから、「白壁(郡)」を「真壁(郡)」に改称し、現在に至っている。真壁の地名は、元の白髪部から約1,500年、真壁に改称されてから約1,300年もの歴史を持つことになる。

鶴屋こと、潮田家住宅前【A地点】から東に歩いて行こう。この東西の通りは、旧市街の現在のメインストリートになっている。商店街も残るが、昭和風の古い店舗が多く、営業している店は少ない。町の南西の県道バイパスに大型スーパーマーケットができたため、客足が奪われたのであろう。


(下宿通り。広い道幅も城下町時代のままで、当時の町の活気を感じる。)

潮田家住宅の東向かいには、高久家住宅【赤星マーカー】が建つ。増改築もされた大きな商家で、典型的な関東風であるという。明治時代の建築と推測され、16代前に関西から移り住んだと伝えられているが、その時期や家業は不明になっている。戦前は肥料商を営み、戦後は住居として使われていた。現在は、町のイベント時などに開放されている。


(高久家住宅。各部が真新しいため、東日本大震災後に全面補修されてるらしい。今日は、イベント「まかべ日和」のため、準備をしていた。)

今朝降りた下宿バス停と伊勢屋旅館の前を過ぎ、その先の下宿十字路の横には、村井醸造【酒マーカー】ある。江戸時代初期の延宝年間(1673年から1680年の間)に、関東に最も早くやって来た近江商人の出店(でみせ/支店のこと)といわれ、現在も銘酒「公明」で知られる造り酒屋になっている。敷地南側に当時からの蔵が建ち並び、高さ22mあるコンクリート製煙突は町一番の高さという。また、通りの向かいにある大正時代築の石蔵も、村井醸造の所有になっており、大谷石でできている。なお、江戸時代の真壁は醸造業も盛んで、当時は造り酒屋が20軒もあり、月に12回も開かれる木綿市と共に栄えた(※)。


(大屋根が見事な村井醸造。見学や試飲もできる。密弘寺と同じ水脈の名水を使っている。元々は、味噌や醤油の製造販売から始まり、出身地の近江日野町にも記録が残る。※完全逆光のため、ご容赦願いたい。)

(大正時代築の石蔵。現在は、テナントの染織サロン「蔵布都(くらふと)」が入る。東日本大震災では、被害が特に大きかったが、完全に補修されている。)

近くには、真壁で最も古い根本医院の高麗門【黄星マーカー】がある。江戸時代後期の文政期(1818年から1831年/真壁の天保大火前)のものとされ、解体修理時には、言い伝え通りに文政期の墨書きも出てきたという。その隣には、真壁では珍しい昭和看板建築の高浜商店も並ぶ。


(根本医院高麗門。約200年前の文政11年[1828年]築とされている。)

(米穀・燃料販売店の高浜商店。「薪(まき)」の看板文字も今や珍しい。「浜」の漢字も、旧字体「濱」の旧字体である。)

下宿十字路より東は上宿となり、この通り沿いでも一番の屋敷構えと思われる塚本家住宅【青星マーカー】がある。明治末期から大正時代に建てられた土蔵造りの建物が、通りに面してどんと構えている。


(塚本家住宅。手前の見世蔵は大正時代、門と土蔵は明治末期築になる。)

なお、上宿地区には、石材業の作業所や展示場も多い。筑波山と北側の筑波山塊(加波山・足尾山)の麓に巨大な花崗岩塊が横たわっている。鎌倉時代から石材業が興っていたが、特に江戸時代以降に盛んになり、良質な真壁産花崗岩は日本三大御影石として、墓石、灯籠や建築資材に重宝されている。一般的には、真壁石、常磐小御影石(ときわこみかげいし)などと呼ばれ、青味がかかるほど高級とされる。現在は、やや衰退したが、真壁石灯籠の高度な石材加工技術は、国の伝統工芸品に指定され、真壁町内に約300軒の石屋があったという。


(真壁石灯籠と三重塔。真壁石は、迎賓館赤坂離宮、皇居前広場の楠木正成公像台座、つくばセンタービルなどに使われている。)

この先の旧真壁城寄りに駅跡【電車マーカー】が残っているので、行ってみよう。町の東の城側、中心部から外れた場所にある。実は、真壁は鉄道が失われた町である。かつて、常磐線土浦駅から水戸線岩瀬駅までを結ぶ路線長40.1kmの筑波鉄道が走っていた。大正7年(1918年)4月に全線開業し、この真壁にも駅が設置されている。昭和中期には関東鉄道の一路線になったが、再び筑波鉄道に分離。沿線のモータリゼーション化により、国鉄分割民営化と同日の昭和62年(1987年)4月1日に全線廃止になっている。

新生JR誕生の騒ぎを横目にひっそりと廃止になり、30年の歳月が過ぎている。駅舎は既にないが、島式ホームが残り、開業時に駅長が手植した4本の桜だけが、その歴史を今も刻んでいる。また、線路跡は「りんりんロード」と呼ばれるサイクリング専用道路に再活用されており、駅跡の何箇所かは休憩所として整備され、この旧真壁駅にも休憩施設や公衆トイレなどがある。

なお、開通時、駅を町のどこに設置するのか、問題になった。当初の計画では、町の西側の現・真壁高校の西辺りにする計画であった。しかし、住民からの反対があり、東側の人家の少なかったこの場所に造られた。筑波方面から真壁に入る手前で、線路が東に大きく迂回していたのは、このためである。なお、当時の鉄道開通時の反対意見の中には、「排煙の火の粉で火事が起きる」と問題になり、それは実際にあったが、「伝染病が町にやって来る」、「稲の生育が悪くなる」、「鶏が卵を産まなくなる」などの迷信的なものもあった。


(旧真壁駅跡と老桜。開通後、町はより活気を呈し、小さい客車をゴトンゴトンと引っ張って走るので、「マッチ箱汽車」と親しまれたという。)

(線路跡のサイクリングロード。単線分の道幅と真っ直ぐ平坦な道路に鉄道の面影を感じる。)

旧真壁駅構内では、飲食品販売、マッサージ、真壁高校の校外活動など、多くの出店が並んでいる。尋ねると、下宿のイベント「まかべ日和」関連ではなく、桜川市独自の観光イベントとのこと。丁度、お昼を過ぎたので、ここで昼食を調達しよう。味噌すいとん(税込み300円)とホットコーヒー(税込み200円)を購入。植栽の縁石に座って、食べる。

真壁の郷土料理は昔ながらの「すいとん」とのこと。農家や庶民の食事として、北関東一帯でよく食べられていた。小麦を練って、団子状に引きちぎり、出汁と野菜などと一緒に煮込んだものである。今日はとても寒いので、体もよく温まってきた。


(味噌すいとん。うどんの変形版ともいえる。)

食後のコーヒーで一息ついたら、スタート地点の真壁伝承館に戻ろう。途中、陣屋北側の通りにある、町を代表する和菓子店・黄金屋【菓子マーカー】に立ち寄ってみる。「食べると出世する」との触れ込みの看板商品「平四郎最中」をふたつ購入。店頭のベンチで試食してみた。


(黄金屋。全面ブリキの看板建築は、どこか宇宙っぽい。)

とても大きな最中である。厚さは3cm近くもあり、普通の倍以上あるのに驚いた。皮は薄く、パリパリとし、粒あんがぎっしりで美味い。原材料は小豆・砂糖・餅米の3つだけ、甘さも控えめになっており、全て自家製とのこと。昭和59年(1984年)の全国菓子博覧会で金賞を受賞していいる。


(平四郎最中。最中の皮にも、同じイラストがエンボスされている。草履取りの逸話といえば、太閤まで登り詰めた「猿」こと、豊臣秀吉もいるので、その類似点も面白い。)

この平四郎は、俗名・平四郎、法名・法身(ほっしん)国師という。筑西市出身の禅宗の高僧で、戦国時代の真壁城主に仕えた後に出家し、京都建仁寺から中国(当時は宋)に留学。帰国後は鎌倉幕府第五代執権・北条時頼の依頼により、東北仙台の松島に出向き、有名な瑞巌寺(ずいこうじ)の礎を築いている。なお、下駄が描かれている理由は、平四郎が真壁城主に仕えていた頃、冬の寒い日に宴が開かれ、城主の下駄を懐で温めていた。しかし、尻に敷いていたと城主に誤解され、下駄で額をかち割られたため、発奮して出家。80歳直前に真壁に戻り、城主に再会すると、城主はかつての非礼を侘び、伝承寺を建て与えたという。地元では、「どっこい真壁の伝承寺」と呼ばれ、親しまれている。

また、町内には、老舗和菓子店が数軒あり、店ごとの個性的な看板商品が美味しいとのこと。和菓子屋めぐり目当ても楽しそうである。この平四郎最中も、とても美味しかったので、土産に小さな菓子折りを購入しておこう。

時刻は14時前である。とても短く感じたが、5時間近くも散策した。最後に、観光パンフレットに載っている雨引(あまびき)観音に立ち寄って帰ろう。先程の旧真壁駅で、出店の中年男性に尋ねてみたところ、「なかなか、お勧めですよ」と推薦された。

次の帰りのバスは、14時10分発桜川市岩瀬庁舎行きになり、上手い具合に雨引観音経由になる。観音から駅までは、タクシー利用と思ったが、それもまた上手い具合に1時間35分後にバスがあるので、時間的にも丁度良いだろう。ちなみに、筑波鉄道が走っていた頃には、雨引駅が麓にあった。

伊勢屋旅館前の下宿バス停から乗車。乗客は5人程度である。町中から東に抜け、二車線の県道41号線バイパスに出て、北に向かって快走する。「雨引観音を経由します」と案内放送が流れると、県道から右折して路地に入り、狭い山道を登り始める。車がすれ違いできない場所もあり、一般車を先行させつつ登り切ると、山の中腹にある平坦な広い駐車場に到着。ここで自分ひとりだけが降り、「(寺の)社務所に持参して」と運転手から小さなカードを貰った。

この雨引観音は、正式には雨引山楽法寺といい、筑波山の北側に続く筑波山塊の最北端にある古刹になっている。安産子育てや厄除けの寺として、とても人気があるという。

バス停のある駐車場から境内への近道もあるが、初参拝であるので、山門前から正しく参ることにしよう。坂を少し下ると、小さな山門があり、長い石段が続いている。この山門は黒門と呼ばれ、江戸時代以前の真壁城の大手門であったと伝えられている。門を潜り、145段ある「厄除けの石段」を登り切ると、彫刻が見事な仁王門がそびえ立つ。


(参道入口の黒門。形式は薬医門で、安土桃山時代のもの。元々は、寺の権威を象徴する表門であった。桜川市の指定文化財になっている。)

(厄除け石段。正式には、「磴道(とうどう)」と呼ぶ。一段登る毎に「南無観世音菩薩」と唱えると、145段目に厄が落ちるといわれている。初夏には、10種3000株の紫陽花が両側に咲き乱れる。)

後嵯峨天皇の第一皇子・宗尊(むねたか)親王が下向し、鎌倉幕府の将軍職に就くと、この雨引観音に厚く信仰を寄せ、建長6年(1254年)に建立したという。鎌倉時代の名仏師が彫刻した仁王像を収め、現在の仁王門は江戸時代初期の再建になっている。なお、宗尊親王は、三重塔・客殿・鐘楼堂なども寄進している。


(重層入母屋造りの仁王門。春は、見事な桜に囲まれる桜の門でもある。)

仁王門後ろの近代的なコンクリート階段を少し登ると、直ぐに境内に入る。山中のこぢんまりとした山寺であるが、あまりもの参拝者の多さに驚いた。やはり、赤ん坊や小さな子供を連れた家族連れが多い。


(境内の様子。中腹の山寺であるので、奥行きは狭く、長方形の境内になっている。)

由緒は、用明天皇2年(587年)に中国僧(出身は梁国)の法輪独守居士が開基。請来した延命観世音菩薩を御本尊とし、坂東(ばんどう)観音霊場第24番札所として、よく知られている。また、推古天皇、聖武天皇、嵯峨天皇の勅願寺になっており、足利尊氏や真壁氏、江戸徳川幕府からも厚く庇護されていた。現在の宗派は、真言宗豊山派になっている。

安産祈願寺としては、奈良時代の740年頃、聖武天皇と光明皇后が法華経を奉経し、安産祈願をしたところ、霊験あらたかだったことから、地元周辺の人々から信仰を集めたのが始まりという。明治から昭和初期にかけては、「1に安産、2に子育てよ、3に桜の薬法寺」と歌われるほどであった。また、嵯峨天皇が雨乞いの奉経をした際、国中が3日間の大雨になり、水不足が解決したことから、現在の山号と寺名を賜った。

春は約3,000本の桜、初夏は紫陽花、秋は紅葉の名所としても有名で、駐車場を見下ろす崖の大きな紅葉が見事である。周辺の山並みも、紅葉のグラデーションになっており、秋の風情満点である。


(駐車場を見下ろす崖の大紅葉。)

境内右手に朱が映える本堂「観音堂」が構え、すぐ横には多宝塔が聳えている。共に江戸時代の再建とされ、多宝塔はとても大きいので驚く。なお、御本尊の延命観世音菩薩は、5年毎に開帳される秘仏になっている。また、鬼神が馬に乗り、厄除け石段を駆け上がる、日本二大鬼祭のマダラ鬼神祭も有名である。

創建当初の本堂は不詳であるが、鎌倉時代と江戸時代に再建された記録がある。江戸時代中期の再建時には、笠間藩からの資金援助は無しに、信者からの浄財だけで再建したという。平成10年[1998年]秋に一部修復し、屋根葺き替えと塗り替えをしている。


(江戸時代再建の本堂「観音堂」。どこか中華風なのも、開基が中国僧であった影響であろう。)

(観音堂前。内陣では、子育て安産の祈祷が盛んに行われていた。)

外壁の周りには、老子の教えの彫り物が19面も掲げられている。江戸時代の人無関堂円哲の作とのこと。円哲は日光東照宮の大工棟梁として知られている。


(本堂正面左側の老子の彫り物。)

江戸時代末期築の多宝塔は、右隣の本堂とそう変わらない大きさである。当初は、三重塔を再建する計画であったが、途中で多宝塔に変更した。なお、初代の三重塔は、奈良時代の聖武天皇の光明皇后が寄進し、宗尊親王の三重塔も含めると、三代目の仏塔になるらしい。


(多宝塔。法華経に由来する仏塔で、仏の教えを説法する釈迦を多宝如来が賛嘆したことによる。内部には、多宝如来と釈迦が並んで鎮座している。なお、二重塔に見えるが、上段は装飾と雨避けの裳階[もこし]で、単層の塔である。)

境内西側に弁財天(銭洗い弁天)と小池があり、造りは真新しいが、良い雰囲気である。他の観光参拝者も集まり、しきりに撮影している。なお、この奥に庫裏(くり)や書院などを配置し、本堂に連絡する回廊が山側に設置されている。


(弁財天と小池。開山当時から祀られていると伝わる。)

社務所(御供所)に寄ってみよう。楼閣造りの風情のあるもので、江戸時代末期の安政年間築とされる。先ずは、参拝記念に集めている御守りを購入。バスの運転手から貰った券を中年女性の係員氏に差し出すと、小さな粗品を貰った。何であろうと、封を開けてみると、寺名入りの高級ボールペンであった。桜川市の観光キャンペーンの一環らしい。


(御守と参拝記念ボールペン。記念品は、土日祝日に桜川市バスを利用した乗客限定とのこと。)

御守と記念品をベンチで撮影していると、好奇心からか、聖なる鳥とされる孔雀(クジャク)が間近に寄ってきた。かなり人馴れしており、時々、小さな子供に追いかけられている。動物園以外での飼育は今や珍しく、何十年ぶりに間近で見た。なお、参道の厄除け石段下の小池には、ガチョウ達もおり、「鳥の寺」でもあるのが面白い。


(放し飼いのクジャク。)

冬の斜陽は早い。参拝者も徐々に疎らになり、車が次々に坂を下るのが見える。社務所横の名古屋城を凌ぐといわれる大石垣上から、霊峰・筑波山のシルエットを拝み、この旅を終えるにしよう。帰路は、下館と守谷を経由し、関東鉄道常総線とつくばエクスプレスで帰る予定である。


(筑波山を望む。野焼きの煙も上がっている。筑波山の懐にある真壁の町並みも見える。)


(You Tube 雨引山楽法寺公式「雨引観音の四季(4K映像)」。※音量注意。再生時間4分30秒。)

(おわり/真壁散策編)

桜川市観光協会公式ホームページ
雨引山楽法寺公式ホームページ

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(※諱/いみな)
天皇の実名(本名)。口にしたり、記したりするのははばかれた。
(※真壁の木綿市)
大阪、奈良や岡崎から木綿を仕入れ、会津や米沢などの東北商人に販売した。

【取材日】
2019年11月30日

【カメラ】
RICOH GRIII

【参考資料】
現地観光歴史案内板
真壁めぐり −重伝建に選定された町並み−
(散策マップ/桜川市観光協会発行・発行年不明)
真壁伝承館・歴史資料館来館者向けパンフレット(歴史資料/発行者・発行年不明)
雨引山楽法寺参拝者向けパンフレット(雨引山楽法寺発行・発行年不明)

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