真壁めぐり その2

この真壁も、北関東の町の特徴にもれず、人口に対して大きな町並みになっている。縦方向よりも横方向に広がるほうが、人間的にも、コスト的にも適切であると思うが、人口密集地に住んでいる者にとっては、徒歩での水平移動は意外に大変に感じる。日頃の運動不足も少し解消するだろうと、納得してみる。

真壁の町並みを南から眺めると、西に桜川が南北に流れ、東に筑波山塊の加波山(かばさん/標高708.8m)や足尾山(標高627.3m)が平行して南北に連なっている。真壁城はこの山々の麓にあり、城を中心とした同心円状ではなく、城下西側から桜川河畔までのエリアに、城下町が四角く広がっている。また、南側に大きな筑波山の北麓があり、逆L字の筑波山塊の懐に町がある感じで、日光連山が冠雪する頃には、日光おろしと筑波おろしが町中を吹き荒れるという。今日は、たまたま、風がない日らしい。

この旧真壁郵便局前【郵便マーカー】の南北に伸びる通りは、御陣屋前通りと呼ばれる主要道である。江戸時代に置かれた真壁陣屋は、その跡地の現・真壁伝承館の敷地よりも遥かに大きく、現在の大和町全域に広がっていた。周辺の道路には、警備用の木戸も設けられていたという。


(御陣屋前通りの様子。北から南を撮影。真壁藩初代藩主の浅野長政が陣屋を設け、この通りに西面していた。)

旧郵便局北並びの商家【カメラマーカー】も古く、文化財に指定されていないが、きれいに修繕されている。普段は営業していない様子で、イベント時に使われているらしい。撮影をしていると、向かいの町書店の女将が開店準備で出てきたので、挨拶をする。「どっから来たの」と尋ねられ、「東京からです」と答えると驚いた様子で、団体観光客はたびたび見かけるが、個人観光客は珍しいらしい。車ではなく、電車とバスで来たと言うと、更に驚かれる具合である。


(旧真壁郵便局並びの古い商家。)

話を伺うと、「この通りは、かつては町一番の商店街だったのよ」と、少し寂しげに話してくれた。過疎化や少子化が進み、商店も次々に廃業してしまったと言う。今は、この通りの南で交差するバス通りの方が、メインになっているとのこと。

この川島書店はかなり大きな町書店【赤星マーカー】で、昭和の懐かしい雰囲気が充満している。車出入口を挟んだ北側には、国登録有形文化財に指定された立派な見世蔵もある。漢方薬などに使う生薬(しょうやく)を扱う店舗として、川島家の初代が江戸時代末期に建設したと伝えられ、保存状態も大変良い。4代目から書店に転業し、今は書店の一部として展示されている。一階の大部分が土間で、二階に座敷があり、かつてあった主屋との接続部には、漆喰塗りの防火引き戸が残っている。


(川島書店見世蔵。江戸風の見世蔵の特徴がよく残り、築170年相当になるだろう。真壁町内でも、最古級と思われる。)

女将にお礼をし、この御陣屋前通りを南に歩いて行こう。旧真壁郵便局の交差点を過ぎると、古い商家が点在している。通りの中程に間口がとても広い立派な見世蔵と、一部崩れかかった土蔵がある。

木村家住宅【黄星マーカー】は、江戸時代末期・天保8年(1837年)の大火後(※)に初めて建てられた見世蔵で、江戸時代後期の典型的な見世蔵であるという。二階の白漆喰外壁の右側だけに小窓を設けているのも、大火後の防火対策であろう。町の名家のひとつであった木村家は、ここで酒屋を営んでいたが、明治に入ると真壁郵便局長に任ぜられ、近年まで4代に渡って郵便局長を務めた。先程の旧真壁郵便局も、この木村家が五十銀行から買い取り、局舎にしている。また、穀物や生糸の取引も行い、地元資本の真壁銀行の設立に関わった。


(木村家住宅。見世蔵には、生花店がテナントで入っていたが、今は廃業しているらしい。)

斜め反対側の東側、昭和風の洋品店の向かいに塚本茶舗の脇蔵【青星マーカー】がある。明治中期に建てられた二階建て土蔵造りで、小さめであるが、装飾も簡素な上、切妻がスリムで美しい。ここに屋敷を構えていた塚本家は塩卸商であったが、戦後になって、茶店を新たに開業したという。


(塚本茶舗脇蔵。元々は、文書蔵として建てられた。)

もう少し南に歩いていくと、バス通りである下宿通りとの交差点【B地点】に到着。この交差点の脇に、町を代表する町家建築の潮田家住宅【紫星マーカー】がある。この真壁では、最初に国登録有形文化財に指定されている。今日は、「まかべ日和」というイベントが午前10時から開催されるので、その準備をしており、見学開放されている。

御陣屋前通りと下宿通りが交差する町の一等地にあり、「鶴屋」と呼ばれる屋号の呉服商を営んでいた。この見世蔵は明治43年(1910年)築、北隣の袖蔵は明治45年(1912年)築になる。中を見学させて貰うと、通り側に広く面した帳場は開放感があり、奥に座敷を設けてある。なお、敷地奥には、同じく明治時代に建てられた離れ(別荘)と脇蔵もある。離れは造りもよく、明治時代に皇族の宿泊所として、使われたこともあるという。


(潮田家住宅「鶴屋」見世蔵と袖蔵。「田舎の三越」と呼ばれる程の豪商であった。電柱の横に、真壁の道路元標がある。)

実は、この呉服商鶴屋から南に30m行くと、同じ屋号の荒物屋鶴屋が構えていた。この荒物屋も大変繁盛したそうで、町の人々は、呉服屋を「上の鶴屋」、荒物屋を「下の鶴屋」と呼んでいた。なお、上の鶴屋は昭和初期に廃業し、今はタバコ屋になっている。下の鶴屋は現存していない。

この御陣屋前通りから、町西側の主な町家を見てみたい。旧真壁郵便局の交差点まで戻り、高上町通りを西の方に歩くと、藤屋履物店こと、三輪家住宅【赤星マーカー】がある。大正初期の建築で、二階に出桁造りに軒蛇腹、箱棟と影盛を備え、当時の流行がよくわかる近代商家になっている。戸袋の大きな家紋は、他の真壁の商家では見られないが、文化財として補修された際に描かれたものらしい。奥の主屋は、真壁では珍しい書院造りという。


(藤屋履物店こと、三輪家住宅見世蔵と門。三代前から続く、現役の履物専門店である。)

町の南西部には、長屋門が多く残る場所があるそうなので、反時計回りにぐるっと散策しながら行ってみよう。通り沿いには、大小の古い商家が点在している。川越のように一直線に並んでいれば壮観であるが、町並み保存活動も平成に入ってから本格化しており、致し方なかろう。現代なのか、昭和なのか、それ以前であるのか、時代がミックスしたような不思議な景観が、この真壁の魅力でもある。


(星野家住宅見世蔵【紫星マーカー】。明治初期築とされるが、関東大震災で被災し、改修したと伝えられている。笠間藩時代の御用商人として、乾物店「諸川屋」を営んでいたという。)

町営観光駐車場である高上町駐車場【駐車場マーカー】を過ぎると、黒光りする見事な土蔵が建っている。この土屋家土蔵【黄星マーカー】は、江戸時代末期・天保4年(1833年)の台風災害後のお助け普請(ふしん)であったという。普請とは、不景気、飢饉や大災害後の経済復興事業のことである。経済的に困窮した町民を救済するため、町の有力者・豪商や藩などが事業を起こし、町民達を雇って助けた。真壁の現存土蔵の中でも、とても豪華な造りになっており、厚い破風板(はふいた)、腰の高いなまこ壁、二連の防火観音扉など、重厚で迫力がある。


(土屋家土蔵。昔、名水を販売していたという。)

そのまま、通りは突き当りになり、入れ違いの辻【カメラマーカー】に出る。手前の古い薬局もいい感じで、奥行きのある懐かしい風情にジンとなる。もちろん、この辻や周辺の道路配置も、400年前の戦国時代から変わっていない。


(大和屋薬局前の枡形。奥に商家が見えるのも、いい感じである。)

ここを左に曲がって、しばらく行くと、細谷家の長屋門【青星マーカー】がある。江戸時代の豪農の雰囲気を残す明治末期の建物は、電車1両分に近い長さ約18mもあるので、その巨大さに驚く。江戸時代の長屋門とは少し異なり、小壁にガラス窓を入れるなど、当時の真壁周辺の近代民家の造りの影響も見られる。

また、明治維新の思想に大きな影響を与えた長州藩士・吉田松陰(しょういん)が、22歳の頃に全国を旅した際、この真壁を通り、「西町(現・真壁町飯塚)長屋門宅で小憩」と日記に記されている。地主で寄合衆の世話役であった、この細谷家に立ち寄ったのではないかと、推測されている。


(細谷家長屋門。主屋も国登録有形文化財に指定されている。)

そのまま、南に歩いて行く。下宿通りを渡り、T字路を左折すると、飯塚通りに入る【カメラマーカー】。この通りは、町の中でも門が多く残っている。真壁は町家建築の多いことで、近年有名になっているが、他の町の民家にあまり見られない薬医門、長屋門や高麗門などの貴重な門や土塀も多く現存しており、町家と合わせると300を超えるというので、驚きである。

それも、ひとつ、ふたつではなく、群れをなすように通り沿いに並ぶさまは壮観で、真壁陣屋周辺の商家は木綿取引で財を成した豪商が建てたが、こちらは豪農が建てたものであろう。その中でも、市塚政一家住宅の明治初期築の長屋門【赤星マーカー】が見事である。農家であるので、倉庫の役目も兼ねており、正面右側は穀物倉庫、左側は農機具などをしまう納屋になっている。なお、市塚家は、昭和初期に穀物改良受検組合の組合長も長年務め、真壁周辺の農家の中心的指導役であったという。


(飯塚通りの門群。長屋門が多いが、腕木門や薬医門も見られる。)

(市塚政一家住宅の長屋門出入口。横幅は9間、約16mあり、町内でも最大級である。軒下に小さな俵が吊り下がるのも、農家らしい。※敷地内の主屋が写らないように撮影。)

突き当りの愛宕神社前を左折すると、潮田家「鶴屋」住宅前【黄星マーカー】に戻ってきた。西並びには、地元古刹の密弘寺(みっこうじ)【寺マーカー】があり、大ケヤキと江戸時代後期竣工の不動堂が残っている。地元では、「名水不動」とも呼ばれ、境内から良質の水が湧き出ていたことから、酒造りに利用されたという。

大ケヤキは幹周り約8mもあり、樹勢がやや衰えているように見える。樹齢は不詳であるが、町の言い伝えでは、750年といわれており、鎌倉時代末期頃からになる。その奥の不動堂は、真壁大火後の再建であるという。


(真言宗熊野山密弘寺。町中の小さな寺である。)

(大ケヤキと不動堂。ケヤキの後ろに、新しい感じの本堂がある。)

寺前のカフェ【カフェマーカー】には、何故か、タイの三輪タクシー・トゥクトゥクが置かれていた。ナンバーも後ろに付いているので、公道もそのまま走れるらしい。


(密弘寺前から、下宿通り東方を望む。)

(旅人カフェ「トイボックス」前のトゥクトゥク。)

なお、いくつかの町家や門を眺めていると、経年の割に新しい感じもする。実は、先年の東日本大震災では、本震の震度6弱、余震は震度5の激しい揺れに見舞われた。特に歴史的建造物群は、瓦が滑り落ちたり、屋根の大棟や土蔵が崩れたりして、被害甚大であったという。震災後、町を挙げての復原が行われ、多くの建物は元の姿に戻っている。真壁の人達の郷土愛と尽力に敬服したい。

今度は、御陣屋前通りの東側を歩いてみよう。

(つづく)

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(※真壁大火)
江戸時代に二度の大火の記録がある。二度目の天保の大火では、真壁陣屋周辺の300棟を焼く被害があったという。この大火以降、火災に強い見世蔵や土蔵が建てられた。

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