上高地線紀行(1)松本へ

残暑厳しい8月の末。まだ、秋の気配は感じない。今年は特に暑いらしく、都会はうだるような日々が続いている。そんな暑さから逃避行するように、涼しい場所に旅してみたい。今旅は、長野県の松本を起点とする地方民営ローカル線のアルピコ交通上高地線に訪問しよう。会社組織の変更・合併でカタカナの鉄道会社名になっており、どうもしっくりしないが、松本電気鉄道(松本電鉄)のことである。大正9年(1920年)に開業した古い地方鉄道会社で、バスやタクシーなども広く多角経営し、松本近隣の地方公共交通を一手に担っている。

若い頃は自家用車で頻繁に信州に訪れていたが、最近は御無沙汰になっている。信州・長野県下のローカル線ルポルタージュとしては、長野電鉄屋代線、上田電鉄に続く三度目の取材になる。都内から鉄道で行く場合、JR中央本線(東線/東京から塩尻間)でそのまま西進・北上するか、北陸新幹線で長野まで行き、JR篠ノ井線で南下するルートがある。ここはやはり、システマティックな新幹線よりも、旅の雰囲気が楽しめる中央本線経由で行こう。もちろん、在来線の中央本線経由のほうが、運賃や料金は安い。

なお、東京西部の実家から出発すると、時間的な余裕ができるので、帰省を兼ねて前泊。翌朝、中央線八王子駅からのスタートになる。朝の7時前に八王子に到着。一度、改札口を出て、切符を手配する。松本まで各駅停車で行こうと思ったが、時間節約と取材体力確保のため、特急あずさ号で行く。各駅停車の場合は2、3回の乗り継ぎが必要になり、所要時間は約4時間かかる。あずさ号は乗り継ぎなしの約2時間と半分である。なお、北陸新幹線の長野経由と、時間的にあまり変わらない。

しかし、自動券売機上の電光式列車案内板を確認すると、急な決定と観光ハイシーズンのため、指定席は既に満席になっている。2時間程度なので、最悪の場合、立ち席でも大丈夫であろう。自由席特急券(八王子から2,160円)を購入する。

改札内コンコースで朝食と飲料の手配をし、中央線下り4番線ホームに向う。しばらくすると、スーパーあずさ1号(12両編成)松本行きが入線。さすがに、この時期の朝一番の下り速達特急になるので、自由席はすでに満席、立ち席も多い。仕方なく、新宿寄り最後尾・12号車指定席の乗務員室前のデッキに陣取る。同じようなデッキマンは、自分を含めて3人いる。

八王子を定刻の7時29分に発車。車掌の検札を済ませ、車内放送によると、終点の松本到着は9時39分の予定とのこと。この先の途中停車駅は、大月、石和(いさわ)温泉、甲府、韮崎(にらさき)、小淵沢、茅野(ちの)、上諏訪、岡谷、塩尻である。なお、塩山(えんざん)と下諏訪には停まらず、岡谷からは短絡新線のみどり湖経由になる。

東京からの通勤路線としての中央快速線の終点・高尾を過ぎると、列車は山の中に吸い込まれていく。ここからが、中央「本線」としての風格が出てくる。中央本線は歴史も古く、関東平野から甲府盆地間の長い山岳地帯を難工事の末、明治後期の官営鉄道時代に開通している。特にこの区間は、国内でも数少ない本線(幹線)級の山岳路線になっており、明治後期の矮小トンネルが現役で、カーブも多く、最大25パーミルの急勾配がある。

甲府盆地東の塩山付近までは山の中であり、大月先の新桂川橋梁(通称・鳥沢鉄橋/鳥沢から猿橋間)の展望以外は、車窓から線路際の山々や緑が見えるばかりである。中央本線最大の難所・笹子トンネルを抜けると、大盆地を見下ろしながら甲府に下る。日本三大車窓ではないが、中央本線一の展望になっており、暗闇に明かりが星の様に点在する夜景も美しい。しかし、トンネル付け替えのため、以前より見づらくなっているのが残念である。


(朝靄の新桂川橋梁を渡る。下流では、相模川に名を変える。※以前の普通列車乗車時に撮影。高細密画像処理済み。)

(塩山付近の急勾配を高速で下る。周りを山に囲まれた甲府の町並みが見える。※以前の普通列車乗車時に撮影。高細密画像処理済み。)

デッキから車内を眺めると、山行き格好の年配者が多い。若い女性添乗員に引率された団体客約20人が、「甲斐の熱海」とも言える石和温泉で下車。8時30分に甲府に到着すると、発車する気配がない。5号車で急病人が発生したとのことで、若い車掌氏が全力で走っていった。救急搬送後、7分遅れで甲府を発車。ここからは、南北を山と高原に挟まれた地溝帯を走るので、線形や勾配も緩やかになり、長い上り勾配をかなりの速度で飛ばす。空も雲が大分取れ、素晴らしい晴天になっている。

進行方向右手の名峰・八ヶ岳は上方に雲が厚くかかり、頂は拝めなかったが、その巨大な裾野に圧倒される。しかし、立ち席根性はいいが、歳のせいか、足の踏ん張りが利かなくなってきた。団体客も下車し、空席も目立ってきている。検札に出た若い車掌氏を呼び止め、「終点の松本まで乗車するので、指定席券を発券してくれないか」と交渉する。厳密には、座席の指定はされないが、指定席車両のため必要である。「空いている席に座って下さい。もし、指定席券を持ってきた人が来たら、席を替わって下さい」と快諾してもらい、自由席料金との差額の720円を支払うと、車内補充券代わりのレシートを渡された。空席のほとんどが団体客であったので、多分、終点まで乗ってこないとのこと。

韮崎からは座席を確保でき、かなり楽になった。このスーパーあずさ号のJR東日本E351系特急電車は、俗に「振り子車両」と呼ばれる高性能電車である。コンピューター制御により、カーブに合わせて車体を内側に傾斜し、高速でカーブを通過できる。カーブに突入すると、ワンテンポ遅れて傾斜し、同じように復帰する不自然さがあるので、気分が悪くなる人もいるらしいが、座るとその制御動作がよくわかる。特にカーブの多い中央本線では、その効果は絶大で、大幅な所要時間短縮になっている。なお、JR東海管轄の中央本線名古屋口(西線/名古屋から塩尻間)の特急しなの号も、同じ制御振り子車両のJR東海383系電車が投入されている。

左の車窓には、南アルプスの山々が連なるのが見える。次の小淵沢では50人程度下車し、その殆どが小海線へ乗り換えてく様である。茅野や上諏訪でも、リュックを背負った山行き格好の乗客がどっと下車。車内は大分空いてきた。上諏訪先の市街地内単線区間から諏訪湖を少しだけ覗き、下諏訪で客扱いなしの信号停車と普通列車交換、岡谷に9分遅れで到着。上り特急あずさ号新宿行きと列車交換になる。


(Wikipedia共有承諾画像。製作者・Nard.tech氏。)

この先、短絡新線のみどり湖経由に回る。岡谷から塩尻へは難所の塩尻峠があり、本来の中央本線はV字を描いて辰野(たつの)に迂回している程である。国道では結構な勾配の長坂があるが、鉄道はあまり感じさせず、スルスルと長い塩嶺トンネル内の複線の直線勾配を下る。片勾配のトンネルを抜け、少し黄色く色づいた稲穂を見やると、JR東海が管轄する中央本線名古屋方(西線)との境界である塩尻に到着。ここから篠ノ井線に入り、松本までもう少しである。そして、定刻から10分遅れの9時49分に終点・松本駅の3番線に到着。デッキからホームに降りると、一瞬にして清々しい高原の空気が頬をかすめた。


(松本駅3番線に到着した特急スーパーあずさ1号。)

平たく、「まつもとぉー、まつもとぉー、まつもとぉー」と、国鉄時代から変わらないイントネーションの自動到着アナウンスが、ホームに響き渡る。鉄道ファンであるならば、内心で少しニヤリとし、何故か信州に来たという実感が湧く。いつからかわからないが、かつての上野駅も同様の放送があり、「上野おばさん」と呼ばれていた声優・沢田敏子氏の録音が始まりとのこと。なお、松本駅が終点の場合は3回、他の行き先の場合は2回コールされる。


(国宝松本城を背景にした観光駅名標。)

この松本駅は、長野県中部の経済中心都市の松本市中心部にあり、県庁所在地の長野駅と並び、同県を代表する駅になっている。かつては、この松本が県庁所在地であったため、ダブルトップになっているのは、群馬県の前橋と高崎に似ている。JR篠ノ井線の中核駅でもあり、明治35年(1902年)6月15日に開業。後にJR大糸線の前身の信濃鉄道(現在のしなの鉄道とは無関係)、松本電気鉄道(現在のアルピコ交通上高地線)の前身である筑摩鉄道島々線が接続し、現在も2社3線が乗り入れる。なお、JR東日本管轄の駅であるが、上高地線も構内に直接乗り入れている。


(塩尻方の構内を望む。ホーム西側に車両基地の松本車両センターもある。)

(改札口周辺。橋上化しており、近代標準的なJR東日本の駅になっている。また、Suicaが使える東京最遠の駅でもある。)

現在の駅舎は4代目として、やまびこ国体の開催に合わせ、国鉄時代の昭和53年(1978年)に建てられた。改築も多く、近年では平成19年(2007年)に改築されており、駅ビルMIDORIに直結されている。なお、終戦まで木造2階建ての駅舎が残っていたが、昭和22年(1947年)2月の漏電火災で、全焼したという。お城口階段下に、漏電火災後に再建された3代目駅舎の駅名標(表札)が掲げられているのも、名物になっている。地元南安曇(みなみあずみ)在住した俳人・篆刻(てんこく※)家の故人、曽山環翠(かんすい)氏の竣工記念制作とのこと。


(市街中心部への玄関口のお城口。反対側には、アルプス口と呼ばれる西口がある。)

(3代目駅舎の駅名標。由来板によると、昭和60年[1985年]7月に市民の要望により、掲出されたとある。)

改札口横には、松本のシンボルである国宝松本城の模型とミニ庭園が展示されていた。7月から9月末まで、「信州デスティネーションキャンペーン」と呼ばれる大型観光キャンペーンを行っている。JRグループが主催、長野県や地元自治体などと連携し、列車増発やイベントなどが開催される。長野県では7年ぶり、5回目になるとのこと。鉄道ファン向けには、SL列車などの特別列車の運行企画が組まれることがある。なお、背後のキャラクターは長野県公式PRキャラクラーの「アルクマ」で、JR東日本の駅長用制服の特別バージョンになっている。リュックを背負った旅行好きなクマで、信州をクマなく歩き回り、信州の魅力をクマなく広めるのが生きがいという。


(信州デスティネーションキャンペーンコーナー。駅員達の手作りであろう。外国人観光客にも、わかりやすい演出と思う。)

(つづく)

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(※篆刻/てんこく)
印鑑の文字を彫ること。中国を起源とし、日本に伝わった。

2020年4月25日 加筆

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