上高地線紀行(7)波田駅と新村駅

河岸段丘からの急坂を下り、渕東(えんどう)駅に戻ろう。ホーム待合所の隣にレトロな装飾付きの看板があり、歌が掲げられていたらしいが、肝心の歌詞がない。仁王門より西に1キロメートルの場所に、大きなカタクリの自生地があり、その地元保存団体の案内看板らしい。花の咲く4月には、約3万株のカタクリや山野草の花々が鑑賞でき、カタクリ祭りも催されている。


(上海渡[かみがいと]カタクリ園・十六区カタクリ園遊会の観光案内看板。作詞者や歌手名などは掲示されている。後日、調べてみると、演歌歌手・末木ひろこのシングルB面曲「カタクリの駅」の歌詞であったらしい。歌詞・曲共に詳細は不明。)

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淵東1209===波田==下島==森口==三溝==1222新村
列車番号22・上り松本行き(ワンマン運転)
3000形2両編成・第4編成(←3008+3007)
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12時09分発の上り松本行き電車に乗車。美しい田園風景が広がる淵東駅を後にし、河岸段丘中段を横切るダウンアップを越えると、直ぐに波田(はた)駅に到着する。今は、島式ホーム1面2線だけのこぢんまりとした列車交換可能駅であるが、第二次開通区間の終着駅でもあったため、かつては、大きな構内を配していた。近代化と合理化により、貨物ホームや側線などは撤去され、かなり縮小されたらしい。駅前には、駅舎に不釣り合いなほどの広いスペースがある。


(現在の波田駅。駅舎はリニューアルされ、スーパーマーケットなどの商業施設「はたはたランド」が東側にある。※追加取材時に撮影。)

この波田は大きな町で、松本市との市町村合併前(※)までは、町役場が置かれた行政中心地であり、学校や図書館などの公共文教施設も建ち並ぶ。現在も、松本市の波田支所が置かれ、中心地であり続けている。駅のホームは河岸段丘の縁にあり、大きな木立に遮られて町並みは見えないが、駅からの急坂を下った場所には、洋風木造建築の旧波田町役場や赤松林が残る。

ホーム下の新庁舎の奥には、旧庁舎が保存されている。大正14年(1925年)築の木造2階建て洋風建築は、なんと、平成4年(1992年)に新庁舎ができるまで、使われていたという。残念ながら、国の文化財に指定されていないが、町の人達に大切にされている。一階は庁舎(現在は公民館として利用)、二階は議場(同・資料展示室)になっており、外観は洋風であるが、内部は和室もある和洋折衷の様式とのこと。なお、保存のため、この場所に曳屋で引っ張って、移築した。


(築100年近い旧波田町役場。現在、国登録有形文化財に登録申請しているとのこと。バルコニー付きの建物の角が玄関になる、珍しい構造になっている。丁度、駅ホームの斜め真下にあるが、屋根しか見えない。※追加取材時に撮影。)

向かいの波田小学校には、大きな赤松林があり、江戸時代の松本藩御用林(後に波田官林)の名残である。学校敷地内に450本、中には樹齢200年を越える大松も見られ、あまりもの高さに驚く。毎年2月のこも巻き(※)取りの際には、焼き芋大会も開かれ、町の風物詩になっているという。


(波田小学校の正門と赤松林。※追加取材時に撮影。)

(国道に面した大赤松。町中にある、これほど大きな松も、今では珍しいと思う。)

また、この波田にある梓川頭首工(取水口)や上流の稲核(いなこき)ダムから、農業用水路が南に伸ばされ、波田周辺とその南部の山形村・朝日村・塩尻市の一帯は、一大農産地になっている。米の他、キャベツ、レタス、白菜、長芋、りんご、ぶどうなどが栽培され、この波田周辺では、スイカがよく栽培されている。日本一との触れ込みになっており、「スイカの名産地」とのこと。かつては「下原(しもはら)スイカ」、現在は「松本ハイランドすいか」のブランドで関東などに出荷されている。かつては、波田駅の貨物ホームから、たくさんの野菜が出荷されたのであろう。昭和40年代の頃、座席シートを外したモハ10形電車を貨車代わりにし、りんご箱を大量に積み込んで、波田駅から運んだ逸話もある。

波田駅での列車交換はなく、数人の乗客が乗り込み、定刻に発車。長い下り勾配を軽快に走る。国道158号線「野麦街道」に寄り添い始めると、下島・森口・三溝(さみぞ)の3駅に停車する。列車交換設備と線内唯一の対向式ホームを持つ森口駅は、開業当初の木造駅舎が残っていたが、激しい老朽化のため、平成27年(2015年)取り壊された。なお、森口の地名の由来も、松本藩御用林の入口の意味で、この付近から淵東まで大きな森になっていた。


(森口駅。現在は、新駅舎が建てられている。一時期は、隣に旧駅舎が並んでいたという。※往路の新島々行き列車最後尾から、松本方を撮影。)

大きな右カーブで国道と別れ、返しの左カーブ後、左窓に水田から転用された一面の蕎麦畑と北アルプスの山々を見る。信州らしい清々しい景色に、はっとする。そして、住宅地に入ると、淵東駅から11分程で沿線主要駅のひとつである新村(にいむら)駅に到着。ここで下車してみよう。


(一面の蕎麦畑と北アルプスの山々。※新村駅付近の車窓から。)

「赤電」の下り新島々行き電車と列車交換になり、数人の乗降がある。上り電車が先発し、下り電車も発車。下車した人々が駅からほうぼうに散ると、静かなローカル線の駅に戻った。最後に改札口に向かい、中年駅員氏にフリー切符を見せ、見学撮影の許可を取っておく。


(新村駅で下車し、松本に向けて発車する電車を見送る。)

この新村は、発起人兼初代社長の上條信(かみじょうしん)の地元であり、上高地線の発祥の地である。また、第一次開通区間(松本から新村間)として、初開通時の終着駅であった。駅開業は、上高地線初開通時の大正10年(1921年)10月2日、起点の松本駅から7駅目(開業当初は5駅目)、6.2キロメートル地点、所要時間約14分、松本市新村、標高623メートル、社員勤務の直営駅になっている。なお、初開通から半年の間は終着駅になっており、翌年の大正11年(1922年)5月に波田まで延伸開通している。


(真新しいホームの建て植え式駅名標。)

また、広い構内を有し、車両を検査修理する新村車両所や車庫、乗務員詰所、全線の架線に直流1,500ボルトの電力を供給する変電所も置かれている。新村は波田のように大きな町並みではなく、駅周辺に民家が集まる他は、田畑が広がり、小さな鉄道町の趣がある。なお、新村の地名は、その通りの「あたらしの郷」の意で、開墾によって開かれた土地であるが、今から1,000年前の平安時代の開墾と大変古い。周辺に条里制の跡や、それ以前の古墳なども多数あるという。


(ホームから新村車両所を望む。営業車両は4編成しかないので、大変小さな車両区である。)

(車両所北寄りの木造長屋。各地の国鉄機関区でもよく見られ、事務所、乗務員詰所や物置として使われた。)

ホームは東西に配された島式1面2線のシンプルなもので、新島々方の構内踏切で駅舎本屋に結ばれている。2両編成程度の有効長とバリアフリー化がされており、ホームから改札口へ片幅の緩やかなスロープが設置されている。また、旧ホーム自体は30メートル程度しかなく、嵩上げした下の擁壁の石組みもかなり低いため、開業当時のホームであると思われる。昭和高度成長期の3両編成運行時は、最後尾の1両をドアカットしたという。また、かつては、松本寄りのホーム上に一本松があり、駅のシンボルであった。


(改札口前からの島式ホーム全景。向こう側が松本方になる。)

(ホーム上の旅客上屋。シンプルで可愛らしい。開業当初の写真には、同じデザインの旅客上屋が写っているが、金属の一本柱ではないため、戦後に建て替えられたと思われる。設置年は不詳。)

駅舎はホームの南側にあり、東並びには、側線が撤去された貨物ホーム跡がある。今は、レールなどの保線資材置き場になっている。


(貨物ホーム跡。)

下りの新島々方は、スプリングポイントと踏切を越えると、ややきつい16.7パーミルの長い上り勾配が続いている。また、ポイント脇の2階建ての小屋は、新村駅制御塔と呼ばれ、上高地線全線の運行管理する運転指令所になる。2階にあるのは、駅構内の入換作業などの目視確認も兼ねているためであろう。


(新島々方と制御塔。)

上りの松本方にも、ホームの延長部がある。ポイントの先に水路を越える19.8パーミル勾配の小ピークがあり、それを越えると、11.4パーミルの下り勾配が続く。なお、非常に短いピーク距離であるが、森口駅の前後に続く、線内3番目の急勾配らしい。


(松本方。水路交差部の盛り上がりが、目視ではっきりとわかる。)

駅舎を見てみよう。新島々方のスロープを下り、警報機のみの構内踏切を渡ると、改札口に直結している。改札柵やボックスはなく、ガラスの引き戸があるだけなので、現代的な民家風である。この新村駅にも開業当初の木造駅舎があったが、激しい老朽化により、平成29年(2017年)に解体されてしまった。なお、この新駅舎は新駅舎が平成23年(2011年)に竣工・供用開始しているので、約5年間は新旧の駅舎が並列していたという。


(ホームから改札口に向かう。隣の旧駅舎跡は駐車場になっている。)

(駅舎内。下見板張りの温かな雰囲気になっており、飛び出した出札口もレトロである。左手奥には、コの字型木造ベンチ付きの小さな待合所もある。)

そのまま、駅前に出てみよう。綺麗に整備されており、コミュニティバスのバス停やタクシー乗り場の案内はあるが、常駐はしていない。特徴のない現代的な平屋建ての駅舎であるが、出入口の車寄せの箱型デザインは、旧駅舎のオマージュである。旧駅舎の車寄せには、上高地線前身の筑摩(ちくま)電気鉄道の社章と稲妻が掲げられていた。現駅舎横に保存展示されており、なぜ、稲妻なのかは正式な記録がないが、当時大変珍しかった電気鉄道を表しているのであろう。


(駅舎外観。旧駅舎は左隣にあったという。)

(保存されている筑摩電気鉄道の社章、大稲妻オブジェと鬼瓦。)

最後に、上高地線とこの新村に関連の深い上條家について、簡単に述べてみたい。元々は、甲斐武田の一門をルーツとし、旧・南新村(※)が本拠地である。江戸時代は、代々の眼医者で、松本藩の藩医(御典医/ごてんい)も務めていた。また、県下でも5指に入る大資産家であり、地元では「芝澤のお殿様」とも呼ばれていた。しかし、名家・資産家なれど、奢ったり、蓄財に精を出さず、上條信、その父と祖父の3代は、この筑摩の発展に全財産を投じ、次々に事業を起こしたという。その功績は大きく、今も厚く慕われている。

祖父・上條四郎五郎は他家からの婿養子で、医者ではないが、庄屋として地域を治めていた。県会議員兼初代副議長として活躍し、松本の国立十四銀行の発起人になっている。他、学校設置を推進したり、出版社を興したりした。なお、お殿様と称されたのは、この祖父からである。

父・上條謹一郎は初代新村村長である。後に県会議員と衆議院議員も務めた。新村銀行や新聞社などを設立。災害時は多額の義援金などを出し、献身的な活動をした。

信は大正2年(1913年)の29歳の時に、若くして新村村長になり、大正8年(1919年)に最少年で県会議員になっている。交通事業に関心が強かったらしく、この若い頃の15年間は、積極的に投資活動をした。最初に取り掛かった電灯事業を興した際、「芝澤のアニは、世の中を明るくするはいいが、芝澤が暗くなる」とも比喩されるほどで、本人の耳にも入っていたが、一向に気にせず、地元発展・公益事業に勤しんだという。他、小学校の改築、町道の工事、交番の設置、電話の整備なども行っている。

企業活動としては、この上高地線の前身の筑摩電気鉄道の他、バス・タクシーの自動車事業(筑摩自動車)、通運・運送倉庫業(筑摩商事・通運事業は日通に譲渡)、電灯事業(東筑電気・現在の中部電力の一部)、酒造業(筑摩酒造)、温泉事業(飯治洞温泉、後の東山温泉ホテル・現在は廃業)、新聞業(志奈野新聞・昭和初期に廃刊)などに関わっている。昭和3年(1928年)の初めての普通選挙で、衆議院議員に当選し、中央政界に進出。特に地方自治政策に貢献した。

終戦後、新村村長に再任されたが、体調を崩し、任期途中で全ての公職を辞職。昭和25年(1950年)10月に心臓病のため他界。有志や縁故者により、銅レリーフ付きの頌徳(しょうとく)碑が建てられ、この新村の住宅地内にある。今も、彼が携わった多くの企業が存続し、松本と筑摩一帯の発展を担っている。あの暗い戦争の始まる前、活気に満ちた大正ロマンを具現した人物と思う。

(つづく)

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(※旧波田町)
明治7年(1874年)に、上波多村・下波多村・三溝村の合併で波多村ができた。昭和8年(1933年)に波田村に改称。昭和48年(1973年)に波田町になり、平成22年(2010年)に松本市と合併した。
(※こも巻き)
松を枯らす害虫「マツカレハ」の幼虫を駆除するため、冬季に幹に巻く腹巻き状のわら帯。
(※南新村と芝沢)
明治7年(1874年)に、安曇野群筑摩郡の南新村・東新村・上新村・下新村の4村が合併し、新村になった。なお、昭和29年(1954年)に松本市に編入された。なお、芝沢集落は、新村駅から南東に500メートル付近にある。

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