上高地線紀行(6)波多神社と田村堂

この渕東(えんどう)駅の周辺には、青々とした水田と新しい感じの民家が多少あるだけで、平凡なローカル線の無人駅に過ぎない。しかし、今の風景からは全く想像できないが、江戸時代までは、「信州の日光(信濃日光)」と喩えられる程の古刹があったという。その遺構が少し残っているらしいので、駅ホーム南向かいに見える山上の集落に行ってみよう。


(ホーム向かいの河岸段丘。集落は全く見えないため、普通の山林に見える。)

ホーム脇の小さな踏切を渡り、雑木林になっている河岸段丘の中段から上段への坂を登る。振り返ると、上高地線と美しい田園風景が見渡せる【カメラマーカー】。結構な急勾配であり、標高差もかなりあることから、太古の梓川は相当な暴れ川であったらしい。10分程歩くと、平たく開けた場所に出て、上波田(かみはた)地区【B地点】と呼ばれる古い集落に到着。観光整備された石畳の道路が、集落の東西に貫いている。なお、現在の国道158号線「野麦街道」はバイパスであり、この石畳道が本来の野麦道(※)である。ここは、集落の西端の出入口にあたり、中心部に大きな枡形も備え、東西の長さは約650メートルもある。


(坂の途中から振り返る淵東駅周辺。左手の高い頂きは、標高1,625メートルの金松寺山[きんしょうじやま]。)

(河岸段丘の急坂を登る。小さな観光案内の道標もある。)

(上波田の旧・野麦道の石畳。)

坂を上りきった場所に観光歴史案内板と公衆トイレがあるが、他に誰ひとり観光客はおらず、静まり返っている。なお、現在の「波田」の旧表記は「波多」(※)で、古くは、「畠(はた/同音)」と記した。元々は、京都からこの地に赴任した、朝鮮渡来系の秦氏(はたうじ※)に由来すると考えられる。

室町時代になると、信濃守護の小笠原氏が後背地にそびえる波多山に城を築き、その城下町として、旧・野麦道沿いに整然とした町割りがされた。江戸時代になると、里寺の若澤寺(にゃくたくじ)を中心に栄え、その景観や壮大さは、「信濃日光」と称された程であった。しかし、明治政府の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、ことごとく打ち壊されたという。当時、長野の善光寺と並ぶ程の大寺であったと思われるが、「日光」と称されたことからも、旧幕府の徳川家繋がりの象徴的な寺院とみなされたのであろう。当時の松本藩(廃藩置県前のため)の廃仏毀釈方針も厳しかった。かろうじて、いくつかの仏像や寺宝、堂宇(どうう)は、廃仏毀釈を免れた近隣の寺院に譲渡されている。今は、階段状の石垣と礎石のみが残る。


(若澤寺一山之略絵図。七堂伽藍が完成した、江戸時代後期の文化年間頃の様子といわれる。※松本市公式ホームページから借用。)

先ずは、向かいにある村社の波多神社(はたじんじゃ)【鳥居マーカー】に向かおう。石造りの鳥居を潜る。高杉が生い茂る小森の中に、横幅の広い境内があり、奥に社殿がちょこんと構えている。外柵の由縁案内板によると、平安時代末期の康治2年(1143年)に紀伊国(現・和歌山県)の熊野権現を勧請。この時、既にこの神社はあり、他の5柱の神々と合祀したらしい。よって、神社自体の歴史は更に古く、言い伝えによると8世紀頃の創基とされ、波多山城内の守護社から、現在地に遷宮したという。鎌倉街道由縁の旧・野麦道沿いであることも考えると、長らく、旅道中の安全祈願も盛んに行われたと思う。なお、この波多神社は、東日本ではここにしか無く、京都と奈良にいくつかある。やはり、秦氏の関わりを感じる。


(波多神社。)

極彩華美な装飾を廃し、質素な造りであるが、力強い潔さと古の風格が漂う。棟札には、「永正(えいじょう)十七年庚辰(かのえたつ)年弥生生二八日辰刻」と記されており、室町時代後期(戦国時代)の永正17年(1520年)に現社殿が建立され、その後に何度か改修されてきたといわれている。戦乱、火災や老朽化などにより、江戸時代中期以降の再建の郷社や村社が多いことを考えると、築500年に及ぶものは珍しい。


(拝殿。平屋民家風格子窓の拝殿も、関東ではあまり見られない様式であり、興味深い。)

御祭神は、古来から祀られていたスサノオノミコト、アマテラスオオミカミ他3柱と、勧請した熊野権現こと、イザナギノミコト(女神。正式名称は、熊野牟須美御神/くまのむすみのおおかみ)の合計6柱。古典的な国造りの神々を祀るのも、歴史を感じさせる。また、境内南側のコナラの木は御神木であり、長野県の天然記念物であった。今は、波田町の文化財になっている。境内には、末社も数多く祀られていた。

波多神社の南隣にもうひとつ古刹があるので、行ってみよう。広場の奥に小ぶりな仁王門とふたつの小堂がある。栄華を極めた若澤寺【万字マーカー】や塔頭(たっちゅう※)であった西光寺(さいこうじ※)の遺構といわれ、今も上波田の人々によって、大切に保存されている。

若澤寺は、里寺がルーツとされているが、高名な行基(ぎょうき)が奈良時代に開基したといわれる。背後にそびえる白山(標高1,387メートル)【山マーカー】が地元山岳信仰の対象になっており、真言密教の山林道場として、当初は山頂下にあった。室町時代の長禄2年(1458年)に山頂下から、水澤川の沢沿いに下りた【万字マーカー】。なお、道場は戦国末期まで使われていた。江戸時代に入ると、寛永12年(1635年)に新義真言宗に改宗。江戸徳川将軍より10石(年間米収穫量約1.5トン)の寺領(御朱印)を賜り、階段状の石垣上に7つの伽藍が建立された。その後、江戸時代の口絵付き娯楽本の絵草紙(えぞうし)に紹介され、一躍、名所になった。


(凡例/祈りマーカー→仁王門、城→波多山城址、万字→若澤寺跡、山→白山山頂と旧寺場。)

この朱塗りの仁王門は、元々は西光寺のもので、後に若澤寺の所有になったという。寺の表門であり、ここをスタート地点として、18丁(約2キロメートル)の長い参道を登った。両翼には、高さ約2.6メートルの阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の仁王像が対い立つ。長い年月を経たため、彩色は剥がれ落ちているが、保存状態は良い。胎内には、鎌倉時代末期の元亨2年(1322年)の墨書きがあり、仏師の名も判明している。

また、昔から、仁王像の股くぐりが名物になっている。乳児に潜らせると、麻疹(はしか)が軽く済み、丈夫に育つと伝えられているという。江戸時代の古文書にも記述があり、今も、毎年4月中旬に「股くぐり祭」が行われている。


(長野県宝の若澤寺仁王門。総茅葺きの屋根であるが、トタンをそのまま被せてある。)

(股くぐりの右側の阿形像。股下の寸法は、高さ25センチ、幅30センチとのこと。)

(街道時代を思い起こさせる大草鞋が、奉納されていた。)

この仁王門を潜ると、少し荒れ果てた墓地が広がるが、奥の方に大小の堂が建っている。小道の右横に入った所の小さな堂は、田村堂と呼ばれ、平安時代の武人・征夷大将軍である坂上田村麻呂を祀った祠が納められている。なんと、若澤寺の最上段石垣に鎮座していたという、重要な祠であった。なお、若澤寺と坂上田村麻呂の関係は、朝廷に敵対する豪族の征伐のため、田村将軍が水沢山(若澤寺付近)に陣を敷いた。この戦いに勝利したことで、堂宇を建立寄進した寺伝による。


(上波田阿弥陀堂境内。)

(国重要文化財の若澤寺田村堂。廃仏毀釈の際、それを見かねた、住職や上波田の人々がここに移した。)

厳重に扉が閉められているが、格子ガラス張りで、外観は見学できる。そっと、覗いてみると、小さいながらも、寄せ木の精巧さや立体感に息を呑む。重厚で美しいこの祠は、室町時代後期に御本尊・水澤観音の厨子として造られた。江戸時代になると、新たに造られた金亀多宝塔(きんきたほうとう※)に御本尊は移され、田村将軍の坐像を代わりに納めたと伝えられている。


(当初は、光り眩い、金箔の厨子であった。当時の若澤寺を知る、第一級の文化財である。今も、田村将軍の像を納めている。※賽銭投入口から撮影。)

一番奥には、阿弥陀堂と呼ばれる大きな堂がある。一見、茅葺きを葺き替えた民家風であるが、元々は西光寺のもので、廃寺になったため、仁王門と共に江戸時代の元禄17年(1704年)にここに移設された。


(上波田阿弥陀堂。近代風であるので、改築修繕されたらしい。)

内部には座敷があり、奥の一段高い場所に大きな阿弥陀如来坐像が安置されている。江戸時代中期に上波田村の麻田二良兵衛が発願し、多くの寄付を集めて、造立したという。どこかしら、庶民的な顔立ちは、太平な世の中になった江戸時代の素朴で厚い信仰心を表しているようにも見える。


(御本尊の阿弥陀如来坐像。西光寺の仏像であったといわれ、高さは96センチあり、檜の寄木造りになっている。※賽銭投入口から撮影。)

境内には、若沢寺の参道にあった丁石や供養碑、庚申塔などの古い石碑も多数保存されている。しかし、かなり風化が進んでおり、刻印はかすれがちになっている。

丁石は参道の109メートル毎に置かれた標石である。阿弥陀三尊の梵字が刻まれ、これを拝みながら参道を登った。江戸時代初期、上波田の村人達や近隣村落からの寄進により一斉に設置された。計17基の内、5基が阿弥陀堂境内に移設保存され、4基が参道に残っている。また、仁王門脇には、天正3年(1575年)建立の若澤道供養碑も保存されている。紀州(現・和歌山県)からやって来た、高圓という巡礼僧が建てたと刻まれている。この付近では、現存する最古級の石碑とされる。


(多数保存されている古い石碑。中央の石像は、庚申信仰の主神・青面金剛像である。)

(若澤寺第15丁目丁石。)

(仁王門脇の若澤道供養碑。)

最後に阿弥陀堂横の地蔵尊に参拝し、駅に戻ろう。境内で一番新しく、苔むした古めかしいものが多い中、妙に浮いた感じがするのが面白い。地元高齢者クラブが寄進したものなので、若返り地蔵尊となっているが、案内板を読むと、何でも願って良いらしい。道中の安全を願い、ほっこりとした気分になった。今、若澤寺があるばらば、創基1,000年を誇る、信州有数の古刹になっていたと思う。時代の非情さを感じ、残念でならない。


(若返り地蔵尊。平成19年[2007年]秋に安置されたらしい。傍らには、地元の黒川の銘水も若返りの水として引水し、試飲できる。)

(つづく)

□□□

(※野麦道)
高山と松本を結ぶ脇往還。野麦街道と野麦道については、前々回を参照。
(※波多・波田)
昭和8年[1933年]に、波多村から波田村に改称した。
(※秦氏/はたうじ)
朝鮮の百済(くだら)国から渡来帰化した古代氏族。元々は、古代中国王朝の秦(しん)国をルーツとする。白山西麓で朝廷直営の牧場を経営し、梓川に堰を造ったという。この上波田付近が本境地であったらしい。なお、秦氏の帰化については、日本書紀にもその記述がある。
(※塔頭/たっちゅう)
有力な仏寺配下の脇寺のこと。
(※西光寺)
鎌倉時代の創建。天台宗から真言宗に改宗。上波田集落内にあり、有力豪族の波多氏の菩提寺であったが、江戸時代中期頃に一族の没落と共に廃寺になった。至近に波多神社があり、若澤寺配下の別当寺(べっとうじ/神社を管理する寺。江戸時代以前の神仏習合時代は、神社や神主よりも、仏寺の別当[住職]の方が上位であった。)、及び、塔頭(たっちゅう)と考えられている。
(※金亀多宝塔)
高さ1.5メートルの厨子。黄金色の亀に乗ったミニチュア多宝塔、四天王像、海原の波間と台座からなる。同じ波田の盛泉寺に譲渡され、現存している。享保2年(1717年)頃に製作・遷座。

【参考資料】
現地観光歴史案内板
若澤寺跡案内パンフレット(若澤寺史跡保存会発行・2014年)

※波多神社と田村堂は追加取材。取材時間は約1時間程度。

©2020 hmd
文章や画像の転載・複製・引用・リンク・二次利用(リライトを含む)や商業利用等は固くお断り致します。

This site is protected by wp-copyrightpro.com