上信線紀行(16)上州七日市駅と七日市藩邸跡

上州の一ノ宮である貫前神社(いちのみやぬきさき-)から、上州一ノ宮駅に戻る。時刻は15時半前。冬の斜陽は早く、黄昏れて来ているが、あと1時間は大丈夫であろう。隣駅の上州七日市駅(じょうしゅうなのかいち-)に向かうとする。

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上州一ノ宮1526======1528上州七日市
上り普通(普)42列車・高崎行き(7000形2両編成)
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上州一ノ宮駅高崎方面の1番線ホームに、最新形の7000形がやってくる。お世話になった女性駅員氏に見送られながら、直ぐに発車となる。右カーブ先の住宅が横に並ぶ川崖沿いを走り、大きい左カーブ途中の国道踏切を通過して、小盛り土の直線の線路をそのまま下って行くと、2分程で上州七日市駅に到着する。

上州七日市駅は、富岡市街地最西端にあり、単式ホーム一面一線の小さな駅である。明治45年(1912年)4月に、地元請願により追加設置された駅で、七日市駅の駅名であったが、電化改軌による国鉄貨車直通化の為、大正10年(1921年)12月に「上州」の名を冠している。起点の高崎駅から21.8km地点、15駅目、所在地は富岡市七日市、標高172mあり、曜日時間限定の業務委託駅になっている。なお、七日市の地名の由来は、市が七の日に立ったのではなく、勅使の車を駐める為に七日間、市の如く人が集まった事が由来である。


(建て植え式駅名標。)

先に、改札にいる女性駅長氏に、1日フリー乗車券を見せて、見学と撮影の許可を貰おう。上信線は地方ローカル民線でありながら、他の路線と違って、有人駅の割合がとても高い。無理に無人化をせず、本来の鉄道サービスを維持する姿勢の現れと感じる。

上り北東・下り南西にホームが配されており、駅舎は南東側に建っている。比較的幅の広い単式ホームで、列車交換ができない駅としては大きな駅舎を擁しており、駅周辺に住宅地が広がっている。


(下仁田寄りから、ホーム全景。)

下仁田方は、緩やかな勾配が続いており、その先のカーブの途中で、市街地経由の国道254号線と平面交差をする。なお、富岡バイパスは、市街地を避ける為に北側の山寄りに寄っており、上信線と交差しない。

高崎方は、富岡市の中心部に向かうので、住宅が建て込んでくる。近くに小学校あり、ホームの直ぐ先には、線路の下を潜る通学用地下道が通っている。ホーム端には、波形トタン平屋根の旅客上屋があり、駅員不在時は列車最前方の乗降扉のみ開閉するので、その為に設置されたものらしい。


(高崎方と平屋根の旅客上屋。※下仁田方は完全逆光の為、撮影困難。ご容赦願いたい。)

改札口を通ってみよう。天井は高く、待合室も広い。駅出入口が、二箇所あるのも、ローカル線の小駅では珍しい。なお、近代化工事事業により、昭和57年(1982年)3月に、駅舎の改良が行われている。南蛇井駅や上州一ノ宮とは異なるデザインで、国鉄ローカル線風であり、出札口周りも横一列ではなく、三面のボックス形になっている。

また、業務委託駅であるので、駅員の配置時間が限られている。平日と第一・三・五土曜日は、6時02分から9時52分と14時22分から20時07分まで配置しており、休日と第二・四土曜日は配置無しである。自動券売機は無く、駅員勤務時は硬券切符も入手できる。


(ホーム側改札口。)

(改札口と出札口。左手が、駅正面出入口になる。)

小さい駅ながら、待合室はとても広く、窓の面取りも大きい。向こう側には、第二の出入口があり、駅舎の妻面に設置されている。天井も、羽目板を横に並べたものではなく、新建材の大きなパネルになっている。


(駅正面出入口付近から待合室内。破損した窓ガラスには、磨りガラスが入る。)

南側の平入りに、正面出入口があり、東側の妻入りにも、小さな出入口がある。こちら側は、民家とホームの間を通るので、車や自転車は通れず、通用路の様である。


(妻入りの東出入口。)

正面の平入りの出入口は、南にある国道に通じている。住宅地の中に駅があり、ホームの高さに合わせて、駅舎を建ててある為、コンクリート階段がある。駅名標が無いと、まるで民家の様な雰囲気になっている。また、階段左に玄関があり、駅員が住み込みで勤務していた頃の名残である。


(平入りの正面駅出入口。)

(駅出入口から南を望む。)

この七日市は、江戸時代まで、七日市藩の陣屋が置かれた村であった。石高1万3,000石の小藩で、あの加賀百万石の前田利家(としいえ)の五男・前田利孝(としたか)が、江戸初期の元和2年(1616年)に立藩し、上州では唯一の外様藩であった。初代藩主の前田利孝の少年期は、江戸幕府の人質として、「まつ」こと利家正室の芳春院(ほうしゅんいん)と江戸で過ごし(※)、慶長20年(1615年)の大阪夏の陣で武功を挙げ、この甘楽十八ヵ村に所領を得た。駅の近くに、藩邸が保存されているそうなので、行ってみよう。

駅の正面出入口から、真っ直ぐに南に歩いて行く。新興住宅地の中に、立派な門構えの旧家が構えている。七日市藩の家老を務めた、保阪家の長屋門【赤色マーカー】である。立藩時、本家の加賀藩から、引き連れて来たらしい。


(保阪家の長屋門。今は、町医院を経営している。)

長屋門の前を過ぎ、国道254号線の交差点に出ると、向かい側に玉石積みの古い高石垣があって、群馬県立富岡高等学校となっている。この高校は、陣屋跡に建てられており、校内の一角に藩邸と門が保存されている。


(群馬県立富岡高校正門。群馬県の古い高校は男女別学で、男子校である。)

正門の左手を見ると、木々が生い茂った場所があり、そこに藩邸が保存されている。見事な日本庭園は、ここが高校である事を忘れる程で、池には悠々と鯉が泳いでいる。なお、一度焼失した為、江戸時代末期の天保14年(1843年)に再建された。鬼瓦や軒丸瓦に刻まれた家紋は、梅花を象った加賀藩と同じ梅鉢紋であるが、本家の加賀藩は花芯に短剣の装飾があり、七日市藩は装飾無しになっている。

藩邸は御殿とも言われ、廃藩置県の際に鏑川学校(かぶらがわ-)として使う為、360坪程あった内、その2/3の約210坪は取り壊されてしまった。現在は、正面玄関と書院付近の一部が保存されており、昭和初期に東向きであった御殿を北向きにし、戦後に移築している。かつては、北東隅の通称・御殿山と呼ばれる小高い場所には、櫓台(やぐらだい)もあった。


(七日市藩邸跡と大名庭園。)

藩邸東側の道路に面した場所には、中門も残っている。黒門とも言われ、本家加賀藩の赤門(現・東京大学赤門)と対になっており、火災除けの願を掛けたと伝わる。他の三つの門も現存しており、富岡市と下仁田町の民家に、移築保存されている。


(七日市藩邸黒門。)

七日市藩の前田家は外様大名であったが、家康ゆかりの駿府城や大阪城の守護役を歴代務め、移封や改易も無く、明治4年(1871年)の廃藩置県までの255年間・十二代続いた。しかし、小藩であるが故に藩財政は厳しく、本家加賀藩の援助でやっと凌いでいたと言う。なお、藩財政は苦しかったが、他の上州の諸藩と比べて、年貢の無理な取り立てしなかった。また、基金を設立運用して、妊婦、乳児、多子の者や生活困窮者に手当金を支給する等、領民に優しい藩主であったらしい。

実は、敷地の北側の一角の空き地に、「陸軍中野学校終焉之地」の小さな石碑もある。諜報機関教育機関(スパイ養成学校)の帝国陸軍中野学校が、終戦直前の昭和20年(1945年)3月の東京大空襲後、ここに移転してきたのである。戦争末期は、本土決戦に備えて、ゲリラ戦の訓練をしていた。意外に知られていない、富岡の戦争遺産である。

駅への帰り、長屋門の並びに、大きな顕彰碑【記念碑マーカー】があるのを見つけた。稲部市五郎種昌(いなべいちごろうたねまさ)と言う人物の顕彰碑である。江戸時代後期のシーボルト事件(※)に関連し、オランダ人医師シーボルトと幕府天文方・高橋景保(かげやす)の通訳をした事から、幕府に捕えられ、後に七日市藩預かりになった。

永牢の罪であったが、身分も高い事から、七日市藩は新牢をここに設けて、厚遇した。稲部市五郎種昌は、藩医であった畑鉄鶏(はたてっけい)に西洋医学を伝授し、藩の医療に大きく貢献している。その後、病気で牢死してしまったが、藩主は手厚く葬ったそうで、明治元年(1868年・1869年/太陰暦と太陽暦切り替えによるずれ)に、恩赦された。この顕彰碑は、シーボルト事件の関係者でありながら、地元医療発展に貢献した事を讃え、地元医師会が昭和の初めに建立したものらしい。


(稲部市五郎種昌顕彰碑。)

【七日市藩邸跡・黒門】
群馬県立富岡高等学校敷地内東側にあり、正門の開門中は自由に見学可(夜間は不可)、
見学無料。富岡市七日市1425-1番地・上州七日市駅から徒歩3分、高校の駐車場を利用可。

幕府直轄 前田家の
藩邸あとに いまも立つ
富岡高校 ゆかりある
蛇宮(じゃぐう)の森よ 七日市

上信電鉄新鉄道唱歌16番より/鈴木比呂志作詞・昭和56年。


(※利孝と芳春院)
利孝の実母は芳春院ではなく、側室の明運院。江戸に出る際に利孝を連れていき、養育した。
(※シーボルト事件)
文政11年(1828年)、オランダ人医師のシーボルトが、世界地図と引き換えに、日本地図を国外に持ち出そうとした事件。当時は、国外持ち出し禁制品(国禁)であった。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
「七日市黒川地区地域まちづくり計画」(七日市黒川地区地域づくり協議会)
「第13回富岡市内文化財めぐり」(富岡市教育委員会・2006年)
「上信電鉄沿線見どころガイド」(上信電鉄沿線市町村連絡協議会発行)
「上信電鉄百年史-グループ企業と共に-」(上信電鉄発行・1995年)
「ぐんまの鉄道-上信・上電・わ鐵のあゆみ-」(群馬県立歴史博物館発行・2004年)

七日市藩邸跡は、同年秋の追加取材。
カメラ機種が違う為、若干色調が異なる。ご容赦願いたい。

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