上信線紀行(15)一之宮貫前神社

このまま途中下車をし、一之宮貫前神社(いちのみやぬきさき-)まで、行ってみよう。中年の女性駅長氏に尋ねると、徒歩で15分位らしい。

古くからの門前町であり、下仁田道の宿場町でもあった一ノ宮は、上野鉄道(こうずけ-)開通時の人口は3,000人程で、商業も盛んであった。今は、その面影も久しく、静かな町になっている。

群馬県内では、最も古い国幣社(こくへいしゃ※)である一之宮貫前神社は、知名度も高く、かつては多くの参拝者で賑わっていた。貫前(ぬきさき)の名は、平安時代中期の百科辞典である和名抄(わみょうしょう)に記載されており、現在の神社名は、明治以降の改称である。古い書物には、抜鉾神社(ぬきほこ-)や抜鉾大明神と記述されており、貫前との関連性は解明されていない。


(待合室に掲げれた上州かるたにも、貫前神社が詠まれている。)

町の中心地は、駅より北に見える山際の県道沿いになっていて、駅周辺はやや疎らである。駅から真っ直ぐ歩き、国道の富岡バイパスを横断して、県道に突き当たったら、左に曲がる。二車線の狭い道路であるが、両側に民家や商店が建ち並び、意外に交通量が多い。かつての下仁田道であり、格子のある家が並び、とても賑やかであった。

南西に300m程、歩いて行くと、参道の入口があり、「国幣中社貫前神社」の石碑【石碑マーカー】が建っている。地元では、蓬ヶ丘(よもぎがおか)と呼ばれている丘陵で、参道は桜の名所になっている。


(国幣中社碑と参道入口。)

(蓬ヶ丘を登る参道。もの凄い急坂で、県道209号線になっている。)

ここから、一気に上がる凄い急坂であるが、頑張って登る事にしよう。このローカル線の旅では、古社もよく参拝するが、こんなに真っ直ぐな急勾配の参道も珍しい。

日頃から運動不足でもあり、少し息を切らしながら、登って行く。坂の途中に踊り場の様な広い平坦地があり、その先の45度もありそうな急階段の上に、赤い大鳥居【赤色マーカー】が聳え立っている。この大鳥居は、昭和4年(1929年)に、献金によって建てられた鉄筋コンクリート製である。翌年に作られた、上信電鉄の鉄道唱歌にも、詠われている。


(大石段と大鳥居。西側には、車が通れる迂回路がある。)

西側に坂道もあるが、大鳥居を潜るのが正しい参拝である。もうひと頑張りして、急な石段を登り切ると、平坦な幅の広い石畳参道となり、少し安心する。なお、たったの水平距離170mで、30mも登る急勾配になっており、まるで山登りである。鉄道勾配の表記であるならば、176パーミルになる。

70m程北に歩くと、菊の御紋の帳を下げた、総門【青色マーカー】の前に到着する。高さ約4mもある唐銅製燈籠(からがねせいとうろう)が左右一対あり、江戸時時代末期の慶応元年(1865年)に、地元養蚕農家や生糸・製糸業者の献金により、建立された。芸術的価値も高い事から、太平洋戦争中の金属供出も免除された。なお、この燈籠建立の7年後に、富岡製糸場が開業している。

また、総門の右手には、「蛙の木」と言われる霊木がある。太平洋戦争の戦況が悪化していた昭和18年(1943年)、蛙の形をしたサルノコシカケが生えた。主祭神由来の勝ち蛙「戦争に勝って、郷里に帰る」と言う縁起木として、地元出征兵士やその家族の参拝が多かったらしい。今は、交通安全の縁起木に変わっている。


(総門と唐銅製燈籠。蛙の木は、楠の仲間のタブの木である。)

この総門を潜れば、拝殿や本殿【鳥居マーカー】に着くと思いきや、何と、今度は下りの急階段であり、とても驚く。

鳥居や門よりも、本殿が低い位置にある神社は大変珍しく、下り宮と呼ばれている。通常は、家の中に祀られる神棚と同じ様に、高御座(たかみくら)で祀る。島根の出雲大社が有名であるが、草部吉見神社(くさかべよしみ-/熊本県阿蘇郡高森町)と鵜戸神宮(うど-/宮崎県日南市)も下り宮になっており、出雲大社は別格として、この貫前神社と併せ、「日本三大下り宮」になっている。なお、下り宮であるのは、草部吉見神社は池の底、鵜戸神社は海岸の洞窟にある為で、貫前神社はよく解っていないらしいが、元々、北側に参道があり、南側に後の下仁田街道となる道筋ができた為、参道を付け替えた説がある。


(総門からの下り石段。客席に見立てた、石段コンサートと言う催しもある。)

登り参道とは対照的な、日陰のしっとりとした石段を降りて行くと、「ここは神域である」と言う霊気をとても感じる。この谷は、菖蒲谷(別字・綾女谷/あやめがだに)と呼ばれ、煩悩の数と同じ108段の石段であったが、今は付け足されている。

石段の最下段到着すると、真正面に楼門がある。門前は大変狭く、手水舎や社務所が隣接して建っているので、とても窮屈である。門下に賽銭箱が置いてあり、一般参拝者は、ここで参拝する事になっている。なお、この楼門は、入母屋造りの銅板葺きで、左右に回廊を擁す。昭和4年(1929年)に、杮板葺きから現在の銅葺き替えられた。


(楼門。)

参拝後、左右の木戸から楼門を通り抜けると、拝殿の前まで行く事が出来る。拝殿は、軒下に極彩色の装飾が施された見事なもので、その美しさに魅入ってしまう。

楼門、拝殿と本殿は、徳川三代将軍の徳川家光の命により、寛永12年(1635年)に造られ、元禄11年(1698年)に五代将軍綱吉によって、大修理と漆塗り極彩色の装飾が施された。江戸時代初期の豪華な寺社建築様式であり、あの日光東照宮にも、通じるものであろう。なお、この三つの建物は、国指定重要文化財になっている。


(拝殿と本殿。平成の大修理を行ったので、状態はとても良い。)

(拝殿正面出入口。入母屋造り、平入、檜皮葺き、唐破風二重重縁である。)

(拝殿の極彩色装飾。本殿にも、同様の装飾が施されている。※トリミング拡大。)

拝殿の後ろには、内垣に囲まれた本殿があり、入母屋造り、妻入り、檜皮葺き屋根になっている。一階建てに見えるが、内部は二階建てになっており、「貫前造り」と言う独自の様式である。

また、本殿の後ろに、樹齢1,200年と伝わる巨杉(きょさん)「藤太杉(とうたすぎ)」がある。天慶2年(939年)の平将門討伐(※)に出征した藤原秀郷(ひでさと)が、戦勝祈願として、年齢と同じ36本の杉を奉納したうちの1本とされる。


(本殿。軒下に雷神小窓と言う装飾窓があり、眷属の雷神が出入りすると言われる。)

この貫前神社の創祀は大変古く、今から1,500年前、鷺宮(さぎのみや/現・安中市)で、物部姓磯部氏が氏神を祀ったのが始まりである。この菖蒲谷には、飛鳥時代の直前の西暦531年に、建立されたと伝わっている。御祭神は、日本書紀にも記されている建国の男神で、物部氏の氏神である経津主神(ふつぬしのかみ)と、当地の守護神・養蚕機織りの女神である姫大神(比売大神/ひめおおかみ)の二柱である。養蚕機織りの技術は、仏教伝来と共に伝えられ、その姫大神を祀る事から、大陸渡来系の神社の説がある。なお、屋根上の千木(ちぎ※)は、地面と水平になっている内削ぎの女神を示す事から、本来の主神は姫大神との説もある。しかし、奇数五本の鰹木(かつおぎ※)は、男神を示しており、千木と一致していない。この二柱の神の関連性は、よく解っておらず、二神二社、二神一社、一神一社の諸説がある。

飛鳥時代後期の天武天皇の頃には、貫前神社の名が京まで知られていた。平安時代の神社一覧である「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」にも、記載(※)され、貴族や後世の有力武家からも、厚い信仰が寄せられていたらしい。戦国時代では、国境を越えて、越後国上杉家、甲斐国武田氏や相模国北条氏も庇護した。明治以降は、国幣中社(こくへいちゅうしゃ※)に指定され、経津主神が武勇に大変優れる事から、戦地に赴く兵士やその家族からの信仰も厚かった。

また、伊勢神宮と同様に式年遷宮を行っている。飛鳥時代後期の天武天皇の頃に始まり、平安時代には、伊勢神宮の様に社殿を建て直していた。古くは、30年周期であったが、独特な谷地形もあって老朽化が早く、その後に7年周期になり、安土桃山時代の天正年間に12年周期に改められている。安土桃山時代以降は、小さな仮社殿を境内に建て、申年の12月に仮社殿に遷座し、三ヶ月後の翌酉年の3月に本殿遷座祭を執り行う、ごく短期間の遷宮になっている。また、古社である事から、鹿の骨を使う占い等の古式特殊神事の祭儀も多く、祭儀中に一言でも口をきいてしまうと、死ぬと伝わる恐ろしい神事もある。

なお、上州の有名神社としては、赤城神社もあり、こちらの方が県外によく知られている。しかし、この貫前神社が、「一ノ宮」となっている。絹機織りをしていた赤城神社の神が、生糸が足りなくなり、貫前神社の神に借りに行った。その御礼に、一ノ宮の地位を譲り、赤城神社は二ノ宮になったユニークな伝説がある。

楼門の東側には、広場があり、神楽殿や宝物館(見学有料)がある。神楽殿は、江戸時代中期の元禄年間のものと言われており、こちらは質素な造りである。また、本殿西の高台には、末社と遷宮時の仮殿敷地がある。

なお、この神楽殿の東には、神宮寺(別当寺/べっとうじ※)や三重塔等もあった。明治維新直後の廃仏毀釈・神仏分離により、徹底的に破壊され、廃寺となっている。


(神楽殿。)

石段の下段西側には、末社の月譚神社(つきよみ-)が鎮座している。寛永12年(1635年)に旧本社拝殿を移築し、牛王堂(※)として使っていたもので、明治政府の神仏分離政策により、月讀神社に改称したらしい。また、近隣の氏神を合祀し、主祭神の月夜見命(つくよみのみこと)の他、十七柱も祀っている。

なお、月夜見命は女性的なイメージがあるが、一般的に男神とされており、天照大御神(あまてらすおおみかみ/女神である)の弟神と言われている。農耕の神であり、人の心の裏側を読むと言われる。


(月讀神社。月讀神社の数は、全国的に大変少なく、珍しい。)

駆け足気味であったが、石段を再び登って、駅に帰る事にしよう。まるで、世俗世界に戻る様に大鳥居まで引き返すと、斜陽に照らされる甘楽(かんら)の町並みと、御荷鉾(みかぼ)の山々が一望できる。この上り下りの参拝の褒美と感じ、とても清々しい気持ちになった。


(石段下から見上げる楼門。)

(大鳥居からの大展望。)

一之宮貫前神社公式HP

(つづく)


(※国幣社・国幣中社)
7世紀後半から10世紀頃までの律令制下において、朝廷や国司から公認され、援助を受けた神社。明治時代以降も再編され、政府(国)からの援助を受けた。軍国主義的な為、太平洋戦争後に解体された。
(※延喜式神名帳)
律令の細則を定めた延喜式の九・十巻には、朝廷が公認した神社(官社)を記載している。反朝廷、神仏合祀や独自勢力の強い神社は認められなかった。
(※平将門討伐/平将門の乱)
承平5年(935年)から天慶3年(940年)に、関東の豪族であった平将門が起こした反乱。平将門は相続問題から、叔父の国香を殺害し、関東の国司達も次々に追放した。後に関東八国を掌握し、新皇(しんのう)を名乗り、当時は朝廷に敵対する大事件であった。国香の子である平貞盛や下野国の武将である藤原秀郷が、将門を討ち取っている。
(※千木・鰹木)
本殿の大棟の両端に長い木を交差してある装飾が千木で、先端の切断面が、地面と水平の場合は女神、垂直の場合は男神を表す。また、大棟上の等間隔に配された丸太状の装飾を鰹木と言い、奇数は男神、偶数は女神を表す。
(※別当寺・神宮寺)
江戸時代以前の神仏習合時代の神社を管理する仏寺。当時、「神=仏」の考えがあり、別当寺の住職(別当)の方が、宮司よりも上位であった。
(※牛王堂)
疫病を払う習合神・牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていたと考えられる。京都八坂神社(祇園社)の祭神として有名であるが、明治政府の神仏分離が厳しかった。

【参考資料】
現地観光案内板
一之宮貫前神社公式HP
「伝説/神道集・巻第七・36話・上野国一之宮事」(赤城神社公式HP)
「一之宮貫前神社観光パンフレット」(一之宮貫前神社社務所発行)

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