別所線紀行(2)下之郷へ

時刻は、朝の8時を過ぎた所である。上田電鉄別所線の上田駅は、近代的な橋上駅であるが、商業施設は併設されていない。お城口(北口)の駅前ロータリー向かいに、駅前ビル、飲食店やビジネスホテル等が集まっている。なお、別所線は、長野新幹線(北陸新幹線)開業翌年の平成10年(1998年)に、地上駅から高架化されたとの事。かつては、車両基地もあったが、途中駅の下之郷駅(しものごう-)に統合された。

上田電鉄では、1日乗り放題の「1日まるまるフリーきっぷ」(大人1,180円)が発売されており、自動券売機で発券する事が出来るので、早速、購入しよう。駅時刻表を見ると、毎時二本の運転ダイヤで、地方ローカル線としては本数が多く、終電も遅い。また、路線キロが約12kmしかないミニローカル線である為、終点までの所要時間も30分位である。


(駅時刻表。殆どが、終点の別所温泉行きである。終電は23時台である。)

先ずは、8駅先の途中主要駅である、下之郷駅(しものごう-)に行ってみよう。自動改札機は無く、改札の若い駅員氏に赤い日付スタンプを押して貰い、ホームに向かう。

上田駅のホームは、今風のコンクリート製単式ホームで、広々とした造りになっている。線路向かいの壁には、電光式観光看板や丸い外窓が並んでいる。この丸窓は、昭和3年(1928年)に導入された、川西線(現・別所線)用のデナ200形電車の戸袋が丸窓であり、「丸窓電車」として長年親しまれた事から、上田電鉄のアイデンティティになっている。なお、デナ200形は、昭和25年(1950年)にモハ5250形に改番され、昭和61年(1986年)まで、約60年間も活躍した。

別所線は直流1,500Vの全線電化路線であり、東京急行電鉄から譲渡された2両編成の電車を、ワンマン化して運行している。なお、信州エリアの民鉄線は、開業時や大正期に早々と電化した路線が多い。初期設備投資が多額になるが、信州は水力発電所が多く、早くから電力事情が良い事や、無煙で急勾配に強い電車は山がちな信州に適しており、運転取り扱いが楽であった。ちなみに、信越本線は、明治45年(1912年)に横川駅-軽井沢駅間が直流600V電化され、国内初の幹線電化であったが、軽井沢駅から長野駅まで電化されたのは、戦後の昭和38年(1963年)とかなり遅い。これは、戦前の軍部が、鉄道の電化に消極的であった方針の影響が大きい。敵軍の空襲で変電所が破壊されると、鉄道輸送が全面的にストップしてしまうからである。


(上田駅ホーム。地上駅時代は、古いホームと木造旅客上屋があった。)

(観光案内板と上田電鉄アイデンティティの丸窓。新幹線を覗けるのが、面白い。)

また、発着ベルは、シンガーソングライター・山下達郎氏の映画主題歌が使われており、この駅の名物となっている。漫画風の大きなイラストボードが、線路転落防止柵に掲げられている。

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【停車駅】〓→主な鉄橋、◇→列車交換可能駅。
上田820=〓=城下◇==三好町==赤坂上==上田原◇
==寺下==神畑==大学前==835下之郷◇
下り普通・別所温泉行き(1000系1003編成・2両編成)
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懐かしい3人掛け仕切りのあるロングシートに座っていると、朝のラッシュを過ぎ、空いていると思いきや、大勢の大学生達が乗車して来る。2両編成の電車は、たちまち満員になり、100人は居る。沿線に大学前駅があり、そこまで通学しているらしい。

定刻の8時20分に発車となる。上田駅は駅ビルの二階にある為、33パーミルの急勾配を左カーブをしながら、地上にそろそろと降りると、直ぐに千曲川の赤い鉄橋を渡る。別所線前身の上田温泉電軌こと、通称「温電」が開通した大正10年(1921年)当時は、千曲川に架かる橋が木造であった為、路面電車の通行が困難であった。3年後に丈夫な鉄道専用鉄橋が架けられ、上田駅まで乗り入れている。

勿論、この千曲川橋梁は、約90年前の当時の鉄橋である。大正13年(1924年)架橋、五連プラットトラス橋で、長さ224.5m・幅4.5mあり、KS荷重制限(蒸気機関車荷重)が、動輪軸重制限10tまでのKS10規格(※)と小さかった為、柱はとても細い。現在の電車の軸重に耐えられる様、昭和40年(1965年)に、溶接補強とリベット交換を行っている。


(千曲川橋梁。※上り上田行き列車最後尾から撮影。)

千曲川(ちくまがわ)を渡ると、そのまま下り勾配になり、直ぐに城下駅に到着する。温電開業当時、この城下駅北側付近が、起点駅の旧・三好町駅(現駅とは別)であった。なお、この千曲川南岸も、市街化が進んでおり、人口が多い。

城下駅を発車すると、大きく右にカーブする。三駅先の上田原駅まで、松本街道(県道77号線・国道143号線)の南側を少し離れて、並行する。沿線は住宅が多く、駅間距離は700-900mで、小さなアップダウンが多く、カーブも多い。なお、城下駅付近から上田原駅までの区間が、松本街道との併用軌道から専用軌道化した線路になる。

戦時中に陸軍飛行場のあった三好町駅、国道と県道の接続地点近くの赤坂上駅と、単式ホーム無人駅に停車して行く。そして、上田駅から約3km・7分程度で、上田原駅に到着。かつては、松本街道方面の青木村に行く青木本線と、別所温泉へ行く川西線の分岐駅であった。温電時代から、電車区(車庫)、車両検修区(整備工場)、変電所や乗務員の鉄道宿舎が置かれ、昭和61年(1986年)の下之郷駅移転時まで、ここに置かれていた。

なお、青木村は、東西に細長い川谷にあり、奥に沓掛温泉(くつかけ-)がある。その先の峠を越えた西側に松本や安曇野があり、戦後、青木線を復活し、上田から松本まで鉄道を結ぶ計画もあった。実際、松本電気鉄道(現・アルピコ交通)と共同出資をして、上田松本電鉄を設立し、敷設認可も取得出来たが、トンネル工事の困難さから着工出来ず、夢と消えた。
グーグルマップ・上田温泉電軌青木駅跡(青木村役場東側付近)

上田原駅からは、一度右にカーブした後、大きく左に曲がる。温電時代の駅は道路上にあり、現在の駅は南に移転している為、不自然なカーブになっている。カーブ右側の大きな建物は、車両検修区や電留線があった場所らしい。

真南に進路を変えると、丘陵状の低山である、小牧山の西麓をかすめる様に走る。戦時中の昭和10年代から20年代まで、亜炭を産する炭鉱山があった。また、上田原付近からは、徐々に田畑が多くなってくる。降水量が少ない地域なので、川沿いと山際に集落が連なっているのが特徴で、溜池も多い。


(大学前駅から下之郷駅間。右窓に気持ちの良い初夏の田園風景が広がる。)

比較的真っ直ぐな線路であるが、最高時速45km制限になっているのは、駅間距離が1km未満と短い為で、路面電車時代の名残と言える。無人の単式ホーム駅が続き、寺下駅、難読駅名の神畑駅(かばたけ-)と順に停車し、私立長野大学や女子短期大学がある大学前駅に停車すると、大学生達が一斉に下車。残り10人位の乗客になった。

そして、起点の上田駅から約15分で、下之郷駅に到着する。下之郷は、縦楕円の大きな集落になっており、地元の大神社を中心とした集落である。この乗車をしてきた電車は、諏訪市出身の有名画家・デザイナーである原田泰治氏デザインした、ラッピング電車「自然と友達号」になっている。1002編成が1号、1003編成が2号となっており、デザインが若干違うとの事。


(下之郷駅下りホームに到着。この駅には、番線が振られていない。)

この下之郷駅は、上田温泉電軌開通時の大正10年(1921年)6月開業、起点の上田駅から8駅目、6.1km地点、所要時間約15分、所在地は上田市大字下之郷、標高465mの社員配置有人駅である。別所線の中間地点にあり、電車区、車両検修区や変電所が設置され、登記上の上田電鉄本社所在地になっている。

列車から一歩降りると、信州の清々しい青空と空気が心地良い。標高は400-500mであるが、1,200m級の山々に囲まれた盆地状の平坦地で、この一帯は塩田平(しおだだいら)と呼ばれている。なお、太古の昔、上田一帯は巨大な湖で、北西の山体に切れ目が出来て湖水が全て流れ、千曲川やその支流の河岸段丘や堆積によって、この広大な平坦地が造られたとの事。

ホームは、ほぼ南北に配された島式一面二線の細長いホームで、上田方の先端は狭まっている。


(国鉄風建て植え式駅名標。)

上田方は、住宅地の中を曲がりながら、駅に進入する。また、駅自体が、大きく90度カーブするアールの部分にある感じになっている。線路脇に、錆びた保線用トロッコが置いてあったりするのも、良い雰囲気である。


(上田方。左端の線路は電車区・検修区へ、右端の線路は洗車線・留置線へ行く。)

別所温泉方は、大きく右にカーブしながら、線路は西に向きを変える。正面には、塩田平の霊峰・独鈷山(とっこさん)が見える。左の線路の奥は、両側に足場があるので、洗車線兼留置線であろう。右の大きな建物は、車両検修区である。


(別所温泉方。)

ホームの北側並びには、小さな電車区と車両検修区があり、東急赤帯のままの上田電鉄1000系電車1001編成が留置されている。平成20年(2008年)から東京急行電鉄より譲渡され、シングルアームパンタグラフやスリーブイエフインバータ制御(VVVF※)、ボルスタレス台車(※)搭載の比較的新しい車両で、小さな民営ローカル線としては、性能や状態は良い。現在、四編成在籍し、ダイヤモンドカットと言われる独特な正面窓の7200系二編成は、予備車扱いらしい(※)。


(下之郷電車区。東京急行電鉄1000系を二両編成化し、ワンマン改造している。)

かつて、木造駅舎が線路東側にあったが、1980年代に解体され、ホーム上に新たに設置された。上田方は駅事務室、別所温泉方に待合室と出札口があり、改札は無い構造である。外壁は、地元の大神社の朱色の柱を模しているとの事。


(下之郷駅ホームと駅舎。狭いホームに建っているので、両脇のホーム幅もかなりきつい。)

(構内踏切から上がるホーム階段。改札口は無い。)

(出札口と待合室内。両側にロングベンチが、据え付けられている。)

また、昭和38年(1963年)までは、西丸子線の分岐駅でもあった。今も、構内西側に、小さなホームと旅客上屋、線路の一部が残っている。現在は、上田電鉄の鉄道資料館となっており、イベント時に公開される。

大幅に改装されているが、独特な屋根の形は、昔のままになっている。現役時代は、左側は開放式の待合所で、ロングベンチが据え付けられており、右側は待合室になっていたらしい。廃線後に板が打ち付けられ、倉庫として使われていた。


(西丸子線ホームと元・旅客上屋。列車は左方向に発車し、南下していた。)

西丸子線は、昭和元年(1926年)に、上田温泉電軌依田窪線(よだくぼ−)として開業した。路線キロ8.6kmの狭軌電化路線で、この下之郷駅から南下し、二ツ木峠をトンネルで潜って、山向こうの依田川上流の西丸子駅まで結んでいた支線である。当時、西丸子駅のある丸子町は、絹の製糸業の町として、大変栄えていた。信越本線大屋駅から丸子駅まで、原料の繭や工員の輸送の為に丸子鉄道(丸鉄)も開通しており、昭和18年(1943年)には、戦時国策の為に両社が合併して、上田丸子電鉄になっている。

当時は、上田駅から西丸子駅へ直通運転も行っていたそうで、昭和36年(1961年)6月に甚大な豪雨災害を受け、その2年後に復旧困難で廃線になっている。近代化が遅れ、末期まで木造車体電車が走っており、老朽化が著しかったとの事。

(つづく)


(※KS10荷重制限/軸重制限について)
線路や鉄橋には、構造上の重量制限がある。車軸一軸当りの荷重トン数(軸重)で表記され、幹線は16tまで(東海道線等の特別な幹線は18t)、亜幹線は15t、地方線は13t、行き止まりローカル線等の簡易線は12tなので、この10tは相当軽い。当時の路面電車を基準に決定したと考えられる。なお、軸重超過は、橋梁変形や崩壊を起こし、大事故に直結する。
(※VVVFスリーブイエフ/インバータ制御について)
架線から取り入れた直流電流を交流に変換し、交流モーターを駆動・制御する電源装置。効率が良く、従来から用いられていた直流モーターよりも、メンテナスが簡単でコストの安い交流モーターを搭載できるので、最近の電車の駆動・制御方式の主流である。京浜急行の「歌う電車」こと、ドレミファ電車の様に、起動時に音階を発するインバータもある。
(※ボルスタレス台車)
台車の上に車体が乗っているが、その間にある線路方向と直角に置かれた長方形の枕梁(まくらばり/ボルスタ)が無い台車。本来は、枕梁によって車体と台車は一体化し、牽引力や制動力を伝達する重要部品であるが、これを積層ゴム状の空気バネと台車内のZリンクに置き換えた軽量台車で、現在の台車形式の主流。
(※上田電鉄7200系)
元・東京急行電鉄7200系。老朽化により、現在は全て廃車となっている。代わりに、東急1000系の中間車を先頭車化改造した6000系1編成が導入された。

【参考資料】
RMライブラリー「上田丸子電鉄」上巻・下巻
(宮田道一、諸河久著・ネコパブリッシング刊・2006年)
上田市マルチメディア情報センター公式HP(上田市の公共機関)

2017年7月12日 FC2ブログから保存
2017年7月14日 文章修正・校正(濁点抑制と自動校正)

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