この下之郷は、この塩田平有数の古刹・生島足島神社(いくしまたるしま-)の門前町になっている。この別所線も、わざわざ直角に経由する程なので、行ってみよう。
駅舎が建っていた線路の東側は、広場になっており、ロータリーや駐輪場として利用されている。廃止された西丸子線の代替えの丸子町行きの路線バスも、ここから発車している。神社名が標された大きな石柱が右手にあり、参道があるので、道なりに歩いて行こう。
天気は大変良いが、誰もいない。緩やかな上り坂の参道は、大きく弧を描いている。若緑に囲まれた参道の中程まで行くと、大きな赤い北鳥居【赤色マーカー】が迎えてくれる。
(駅からの参道途中にある北鳥居。)
突き当りの角を左に曲がると、大きな寺の前を通る。寺の反対側に大駐車場があり、こちらからも入れるが、きちんと表の鳥居から入る事にしよう。
表鳥居とされる、東鳥居【B地点】まで来た。上田市と丸子町を結ぶ県道65号線に面しており、大きな観光看板も設置されている。「国土の大神、日本の中心」と銘打っている古社である。
生島足島神社 公式HP
(東鳥居。外から見ると、森の中にある様に見える。)
この生島足島神社は、人と大地に生命力を与える「生島大神(いくしまおおかみ)」と、人の願いに満足を与える「足島大神(たるしまおおかみ)」の二神を祀っている。信濃屈指の古社であり、塩田北条氏、武田信玄、真田家や歴代上田藩主も厚く信仰を寄せていたという。
太古より、大八州(おおやしま/日本の雅称)の御霊として祀られ、日本総鎮守と仰がられている。また、平安時代中期の延喜式(えんぎしき※1)に定められた式内大社であり、創建は不詳であるが、平安時代初期に神戸(かんべ/神事を行うための民戸)を授かっている。なお、天皇が遷都する場合、この二神をその地に鎮祭する習わしという。明治維新後では、京都から江戸に遷都した明治2年(1869年)に、宮中に鎮祭した記録が残っている。
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東鳥居を潜ると、左手に巨大な神池が水をたたえている。参道先の東御門の先は垣根内の神域になり、高い格式を感じる神社である。この神池の中に神島と呼ばれる小島があり、橋を渡ると、上宮である御本社(本殿)が鎮座している。この様式は、「池心宮園地(いけこころのみやえんち)」と呼ばれるもので、最古の神社配置様式という。
(参道と東御門。新緑と朱が鮮やかで、清々しい。)
(神池と神島。向かいの森に様になっている所が、神島である。)
(鴨や亀が沢山住んでおり、長閑に泳いでいる様子は、日本的に感じる。)
東御門を潜り、暫く進むと、神島の前に到着する。御本社のある神島には、橋で結ばれており、隣に神事のみで使う御神橋が並んでいる。
(御神橋と御本社。)
(御神橋。一般参拝者は、手前のコンクリート製の橋を渡る。)
御本社(上宮)【鳥居マーカー】は、神島の中央にあり、朱塗りの柱が映える。御神体は銅鏡や剣等の器物ではなく、内殿の土間になっているそうで、直に見えない様になっている。また、神島内や神池の向こう岸には、荒魂社や八幡社等の小さな摂社が幾つか鎮座している。勿論、この旅の安全を願って、順に参拝しておこう。
毎年1月には、珍しい農作物の豊穣占いが執り行われる。米粥の出来具合で、米、麦等のその年の各種農作物の作柄を占うという。また、7年毎の寅の年・申年には、「御柱祭」と呼ばれる大祭もある。
(上宮の御本社。御神体が土間である為、床が無い珍しい造りになっている。)
神島から橋を渡って戻ると、御本社の向かいに、神楽殿と下宮である諏訪神社【黄色マーカー】がある。上宮(内宮)と下宮(外宮)が、狭い境内で向かい合っている配置も珍しい。片参りにならない様に、こちらも参拝しておこう。また、11月から4月は、諏訪神社の御祭神が御本社(上宮)に移り、御籠りするとの事。毎年春になると、この下宮に遷座する。
由緒では、諏訪神社の御祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)が、諏訪に降りられた際、この地に留まり、二柱の大神に奉仕して、米粥を献じたとされている。先程の粥を使った占いや御籠りも、これに由来するらしい。また、雨乞いの神社でもあるので、降水量の少ないこの塩田平の風土に合致していると感じる。
(神楽殿。諏訪神社の拝殿になる。神楽舞いの他、結婚式も執り行われる。)
(下宮の諏訪神社。江戸初期の上田藩主・真田信之が再建した。長野県の県宝に指定されている。)
諏訪神社と神楽殿の間の狭い場所には、樹齢800年の大ケヤキがある。左右二本で夫婦、西のケヤキの洞内も夫婦になっており、夫婦円満、良縁子宝、安産子育の御神木とされている。
(夫婦欅。)
(西の御神木の祠。)
諏訪神社の北側には、木造の大きな歌舞伎舞台【青色マーカー】が残っている。民俗的な農民歌舞伎舞台が、格式高い神社に隣り合わせであるのも面白い。地元の言い伝えでは、明治元年(1868年)の竣工と伝えられ、例祭時の余興として、色々な催し物が開催されたのであろう。手前の広い空き地は、観客スペースである。その後は、一時、小学校や集会所等として利用されたという。
(歌舞伎舞台。長野県の県宝であり、規模も全国トップクラスという。)
屋内は自由に見学が可能で、現在は郷土資料館になっており、戦国時代好きには必見である。武田信玄が宿敵上杉謙信との川中島合戦の必勝を願った「願文」、配下の武将が信玄に忠誠を示した83通もの「起請文(きしょうもん)」や、真田家の朱印状等が大量に展示されている。特に、配下の中堅武将肉筆の起請文は、現代語訳と解説も付けられており、人柄やその時代も感じられるもので、大変興味深い。また、直径4.5mの回転舞台やセリが復元整備され、舞台下も見学出来る。横16m・奥行き12mの大きなものである(屋内は撮影禁止の為、画像はご容赦願いたい)。
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そろそろ、駅に引き返すとしよう。生島足島神社に隣接して、真言宗智山派の理智山長福寺【万字マーカー】があるので、少し立ち寄ってみよう。平安時代中期の西暦965年(康保2年)創建と伝えられ、塩田平南方の霊峰独鈷山(とっこさん)の鬼門に当たる生島足島神社に、独鈷山の守り仏である薬師如来を勧請したのが由来との事。残念ながら、本堂は戦後の飛び火による焼失の為、防火対策の鉄筋コンクリート建築になっている。明治政府の神仏分離令以前は、西隣に神宮寺(同令で廃寺)が対に建立し、神宮寺は生島神の別当、長福寺は足島神の別当であったという(※2)。
また、奈良法隆寺の夢殿を1/2スケールで完全に模した信州夢殿がある。昭和17年(1942年)に信者の大塚稔氏が寄進したものという。国の重要文化財に指定されている。
夢殿に安置されている観音像は大層古いもので、これも大塚氏が寄進したという。奈良時代中期天平年間頃のものとされる。太平洋戦争中に寄進されたため、通称「救世観音」とも呼ばれたのは、その時代の影を感じさせる。また、過去に三回も盗難されたが、全て戻って来た不思議から、近年は「お戻り観音」の名も冠され、地元で親しまれているという。無事に戻ってきた由縁から、旅行安全祈願に良いとの事。
信州夢殿長福寺公式HP(※夢殿の画像あり。御本尊拝観は要予約で、拝観料が必要。)
(理智山長福寺。梅、桜、牡丹や藤の花などの花寺でもあるという。)
(昭和50年[1975年]に鉄筋コンクリートで再建された本堂。)
なお、本堂の御本尊は、金剛界大日如来である。創建由縁の薬師如来は、足島神の本持仏であったという。
(つづく)
(※1/延喜式)
延長5年(927年)制定。当時の律令制度で定められた律令格式(法律)の一部。細則に当たる式の部分に、当時の朝廷から公認された神社を記した一覧がある。有名であっても、反朝廷勢力の場合は記載されなかった。
(※2/別当寺・神宮寺)
江戸時代以前の神仏習合時代の神社を管理する仏寺。当時、「神=仏」の考えがあり、別当寺の住職(別当)の方が、宮司よりも上位であった。
【参考資料】
現地観光歴史案内板
2017年7月14日 ブログから保存
2017年7月14日 文章修正・校正(濁点抑制と自動校正)
2025年1月15日 文章修正・加筆・校正
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