わ鐡線紀行(39)足尾本山観光 その2「足尾精錬所と貨物線跡。」

わたらせ渓谷鉄道の終点・間藤駅から徒歩30分程で、「本山」こと、足尾精錬所【工場マーカー】に到着する。巨大な工場は、U字谷状になっている松木川を挟んだ対岸の斜面にある。なお、この大きな工場内に、廃止された足尾本山駅がある。

この足尾精錬所は、産出する銅の増加により、戦中の昭和17年(1942年)に直利橋精錬分工場(なおりばし-)として、建設された。当時の最先端技術を採用した工場であったが、精錬時に大量の亜硫酸ガスを排出した事から、大規模な煙害問題(公害)を引き起こした事で有名である。足尾銅山の表の栄華と、暗い公害の歴史を背負う工場でもある。


(赤倉地区から、対岸の足尾精錬所を望む。)

松木川に架かる橋から、工場北側を望むと、事務所棟らしい建物や大きな煙突が見える。備前楯山をはじめ、周辺の山には木々が大変少なく、公害の大きさが実感できる。近年、少しずつではあるが、植林事業の効果が上がってきており、緑も戻って来ているらしい。


(事務所棟と大煙突。背後の雪を頂いた山々は、日光連山である。)

ここで、足尾銅山の歴史に簡単に触れたいと思う。この周辺は標高700mの高所であり、銅が発見されるまでは、寂しい山村であった。関ヶ原後の慶長15年(1610年)、地元のふたりの農民・治部(じぶ)と内蔵(くら)によって、銅が発見されてから、足尾銅山の歴史が始まっている。

なお、この山は黒岩山と呼ばれていたが、このふたりが備前国出身(現・岡山県)である事から、発見した功績を讃え、「備前楯山」と改められた。また、「楯」とは、銅鉱脈が地面に露出している所を言う。その後、江戸幕府直轄の銅山として大いに栄え、「足尾千軒」と言われる程の町並みが出来た。国内の城郭・寺院の銅瓦や銅貨・寛永通宝(足尾銭)の鋳造に使われ、海外にも輸出された事から、江戸幕府の財政を潤した。しかし、江戸時代末期になると、銅の産出は激減し、廃山状態になってしまった。

明治時代に入ると、一旦、国有化される事になった。明治10年(1877年)、実業家・古河市兵衛氏に銅山が払い下げられてからは、西洋近代化を急速に進め、豊富な銅を含む大規模な鉱脈(直利/なおりと呼ぶ)が新発見され、再び、大銅山として返り咲いた。最盛期は、国内の銅の半分を産出したそうで、「東洋一の銅山」と呼ばれたが、太平洋戦争時に大部分を掘り尽くしてしまい、戦後は産出量が激減した。そして、開山から約400年経った昭和48年(1973年)2月に閉山。その後、国鉄足尾線で輸送された輸入銅鉱石を使って、精錬工場のみが稼働していたが、昭和63年(1988年)に中止となり、足尾銅山の歴史の幕が降りている。

公害については、学校の教科書にも取り上げられ、大変有名である。明治以降は、大規模な公害反対運動も繰り広げられ、政府も対応を重ねて来たが、当時の公害防止技術は未熟で、とても間に合わなかった。特に、亜硝酸ガスの完全脱硫技術確立は、昭和31年(1956年)まで、待たなければならなかった。渡良瀬川や利根川の銅イオンによる水質汚染、周辺の山々の禿山化、強制廃村もあったが、外資を稼ぎ、当時の日本の近代化を進める原動力のひとつであった事や、世界トップレベルの日本の公害防止技術と環境保全意識の確立にも大きく寄与している。

精錬所の南側は、巨大なプレハブ風壁の建物になっていて、建物の裏側に駅がある。北側には、木造三階建てらしいカラフルな外装の事務所棟らしい建物や大煙突が見える。工場は稼働していないが、現在、廃坑管理や銅イオンを含む坑道排水の浄化処理、他の古川機械金属所有の鉱山の管理を行なっている。

また、コンクリート製の大煙突は、この足尾精錬所のシンボルになっている。大正5年(1916年)、銅の溶鉱を溶鉱炉方式から反射炉方式に切り替える為に建設されたもので、当時の計画では、1日350tの処理能力を見込み、建設予算は約22万円(※)であった。しかし、煙突内での煙の詰まりが激しく、反射炉による溶鉱は2ヶ月で中止され、以降、煙突は無用の長物になった。高さは46.9m、直径は下部5.8m・上部3.9mある。


(事務所棟と大煙突。※新古川橋から望遠撮影。)

松木川を渡って、対岸の工場側に行ってみよう。コンクリート橋上流側に、木床張りの立派な古川橋【橋マーカー】がある。明治18年(1885年)に、木造橋の「直利橋(なおりばし)」が架けられたが、その二年後の大火で焼失した為、明治23年(1890年)に架け直された鉄橋である。この付近の交通量増加や防火対策の為、ドイツ・ハーコート社の鉄橋を輸入した。

橋台は煉瓦積み、木床、ボストリング・ワーレントラスのピン結合方式である。長さは48.5m、幅員4.8m(有効3.6m)あり、足尾鐡道(後の国鉄足尾線)が開通する前は、日本初の電気鉄道のレールが敷かれていた。大変貴重な初期の輸入鉄橋であり、移設もされていない事から、日光市の指定文化財になっており、現在は老朽化の為に渡橋禁止になっている。


(古川橋。)

橋からの町道の先には、工場前に架橋されている元・足尾線の出川橋梁がある。ここは、松木川とその支流の出川の合流地点でもあり、出川を跨ぐ長い主橋と町道を跨ぐ短い二連デッキガーター鉄橋になってる。なお、九州鉄道からの払い下げ鉄橋であり、足尾鐵道開通時の大正3年(1914年)8月に開通し、橋長は54.8mになる。


(出川橋梁。)

出川橋梁を潜り、坂を少し登ると、右手に土手を登る小道があり、フェンス越しに足尾本山駅が見える場所がある。貨物専用駅なので、乗降ホームは無く、幾つかの側線と古い平屋の木造建物、手動転轍機(ポイント)や腕木式信号機が残っている。ここだけが、モノトーンな風景であり、当時のままの時間で止まっていて、とても不思議な感じである。なお、間藤駅から足尾本山駅への貨物列車は、1日4〜5往復であった。


(足尾本山駅跡。)

なお、この足尾精錬所の北側には、有害物質を含む土泥等を貯蔵する高原木貯積場、巨大な足尾砂防堰堤(ダム)や足尾環境学習センターと親水公園がある。時間があれば、次回は見学したい。


(日光連山と松木川。)

この大工場を見学した後は、間藤駅に戻ろう。再び、赤倉地区の中を通り、長い坂道をゆっくりと下る。家々は多いが、人影が無く、とても静かである。途中にぽつんと、昭和レトロな洋品店も構えている。


(赤倉地区の町並み。)

(昭和時代の洋品店アライヤ。軒下の電光看板が特徴的である。)

新古川橋下流の南橋橋(なんきょうばし)を渡って、備前楯山側の対岸を見てみよう。橋を渡って、突き当りのT字路を右に曲がり、盛土高台の廃線を見ながら歩くと、絶壁に掘られた古いトンネルと錆びた腕木式信号機【トンネルマーカー】がある。この足尾線最後のトンネル・向赤倉トンネルを抜けると、工場前の出川橋梁に接続する。トンネル内壁の下部は切石積み、上部は煉瓦積み、全長約36mの馬蹄型トンネルで、足尾線の廃線区間イメージを決定づける有名撮影スポットになっている。


(向赤倉トンネル跡と腕木式信号機。※低倍率光学ズームで撮影。)

向赤倉トンネルの南方には、南橋鉱山住宅(なんきょう-)が、建ち並んでいる。かつて、かつては、福長屋(ふくながや)と呼ばれた地区で、古河市兵衛氏が坑夫達の為に建てた社宅群として、大変賑やかだったと言う。現在は、日光市の市営住宅になっており、空き家も多いが、当時の雰囲気を色濃く残している。トイレと風呂は共同で、今も、住人の連帯感が強いらしい。なお、当時の屋根は、雨水を防ぐ為にコールタールを塗っていたので、黒色であった。


(南橋鉱山住宅。空き家が目立つが、状態は良い。)

(家族住まい向けらしく、一戸も広く造られている。)

県道に戻ろう。深沢郵便局前を過ぎて、上間藤地区に入る。松木川に架かる上間藤橋も渡って、対岸の小学校の方に行ってみよう。山際の雑木林の中に、廃れたレールや小鉄橋が残っており、間近に見る事が出来る。


(山際の小さな鉄橋跡。名称は不明である。)

実は、わたらせ渓谷鉄道が発足した平成元年(1989年)には、間藤から足尾本山間の1.9kmは、休止線として継承しており、観光化する構想もあった。しかし、平成10年(1998年)に、間藤から足尾本山間の鉄道事業免許が失効。廃線が確定し、それも夢に終わっている。おそらく、閉山後の地元利用客が見込めない事、足尾駅以北の列車交換設備が無く、ディーゼル機関車牽引のトロッコわたらせ渓谷号の機回しが出来ない事、私企業の敷地内に足尾本山駅がある為、実現が難しかったのであろう。

また、小学校の手前には、巨大なリベット留めの黒い鋼製プレートガーター道路橋があり、下を覗くと、足尾線の線路とトンネルがそのまま残っている。


(小学校手前のリベット留めの道路橋。)

この向間藤トンネルは、内部の下部は切石積み、上部は煉瓦積み、全長約211mである。ポータルはコンクリートで固められ、断面はU形なので、戦後に改修されたらしい。


(足尾本山方の向間藤トンネル。)

この橋の下には、木造の保線小屋跡があり、国鉄足尾線最急の30パーミルの急勾配になっている。長く重い貨車を牽引した国鉄C12形蒸気機関車や国鉄DE10形ディーゼル機関車が、踏ん張りを見せた場所と思われ、今にも、貨物列車がやって来そうな雰囲気である。なお、最後に貨物列車が走ったのは、国鉄民営化直前の昭和62年(1987年)3月になる。


(間藤方の足尾線最急勾配30パーミルの線路。)

なお、この先の本山小学校は、既に閉校しており、非公開になっている。明治25年(1892年)に、私立足尾銅山尋常小学校として、古河市兵衛氏が設立した。戦後直ぐに、公立足尾町本山小学校になり、平成17年(2005年)に、足尾小学校に統合となった。敷地内には、昭和15年(1940年)築のハーフティンバー風木造講堂があり、当時、小学校に講堂が建設されるのは、大変珍しかったと言う。(※平成28年(2016年)に、国登録有形文化財に指定されている。現在は一般非公開。)


(旧本山小学校の木造講堂。対岸の踏切跡から撮影。※トリミング拡大済み。)

小学校の所で、道路は行き止まりになってる。橋まで戻り、間藤駅に向かって歩いて行こう。

(つづく)


(※)
大正初期の1円は、今の約5,000倍の価値があった。当時の22万円は、現在の貨幣価値の11億円程度になる。ちなみに、当時の山手線初乗り運賃は5銭(0.05円)、幕の内駅弁は20銭(0.2円)程度。

【参考資料】
現地観光案内板
足尾銅山略図(日光市発行・平成20年)

2018年5月6日 ブログから転載・校正。

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