近江線紀行(5)五箇荘へ

駅の見学をしていると、2・3番線ホーム貴生川寄りにカメラを持った男性が数人集まっている。地方民営ローカル線では珍しく、「何だろうと」と行ってみると、近江鉄道のマスコット的電車・700形「あかね号(初代)」のラストランとのこと。4日後の最終日までは、定期列車として運行されているという。地元の鉄道ファン達であると思うが、撮影マナーもよく、こんな風に静かに運用を終えるのもよいと思う。滞在中にチャンスが有れば、乗車してみたい。

この700形は、西武鉄道401系電車を自社彦根工場で大改造した車両で、近江鉄道独自のオリジナリティを随所に散りばめている。元車が分からない程であり、色々と発見するのも楽しい。なお、座席はJR東海道線の新快速と同じ転換式クロスシートを採用し、居住性も良い。JRからの乗り継ぎ客のサービス向上のため、八日市線(近江八幡から八日市間)で主に運用されていたという。


(近江八幡行き普通列車として運行される700形「あかね号(初代)」。運転室後ろの乗降ドア横には、ラストランの円形ステッカーが貼られていた。彦根工場は、廃車再生部品から新車を組み立て製造したり、電気指令式ブレーキに改造したり等、非常に高い技術力を誇る。)

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八日市1111===河辺の森===1118五箇荘
近江鉄道本線 8102列車 上り 普通 米原行き
100形2両編成(第二編成/←モハ1102+モハ102)・ワンマン運転
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50分ほど時間が過ぎたであろうか。時刻は午前11時前である。今日は、起点駅の米原からこの途中中核駅の八日市までの予定なので、折り返すとしよう。早速であるが、沿線の有名歴史名所である五箇荘(ごかしょう)の散策に行ってみたい。ふた駅だけ折り返すので、直ぐである。

島式ホーム2番線から、11時11分発の上り米原行きの青い電車・100形第二編成に乗車。本線終点の貴生川発になるので、多くの乗客が乗っている。下車する人も多いが、ホームから20人ほどが乗り込み、2両編成の車内は60人ほどになった。ゴールデンウイーク中ながら、学校名入りジャージ姿で大きな道具カバンを持った高校生が多い。運動会系の部活練習に行く生徒達であろう。彦根に正午直前に到着する上り列車でもあるので、買い物や通院などの所用の沿線住民も多い様子だ。


(上り米原行き8102列車・米原行きが、定刻通りに到着する。)

長閑で美しい蒲生野の田園風景の中、単線の線路をガタゴトと駆け抜ける。斜め前のシートに座る年配男性が、ぼんやりと車窓を眺めている。八日市方の後方ドア横では、大きなジンバルに載せたミラーレスカメラで車窓の動画撮影している若者もおり、みな思い思いに過ごしている。途中、河辺の森(かわべのもり)駅に停車した後、八日市から約7分で五箇荘に到着すると、数人が下車するが、自分以外の観光客はいない。愛知川西岸の広い平地にあり、住宅地に隣接した静かな駅である。


(長閑で美しい蒲生野の田園風景を眺める年配男性。ワンマン運転のため、すぐに下車できる前方車両が混んでいる。)

この五箇荘駅は、第一次開通区間後期(彦根から八日市間/愛知川から八日市への延伸時)の明治32年(1899年)3月19日開業、起点駅の米原から20.9キロメートル、10駅目、所要時間約42分、海抜109メートル、東近江市五個荘小幡(おばた)町にある終日駅員無人駅になっている。なお、駅名は旧漢字の五「箇」荘の表記であるが、住所表示は現代漢字の五「個」荘である。開業当時から明治43年(1910年)までは、小幡の駅名であった。ここから北200メートル付近にあった旧駅から、現駅に移転した際に駅名を改称したらしい。開業当時は仮停車場であった。


(新しい建て植え式駅名標。フレームは古く、唐草装飾や広告スペースのあるレトロなもの。)

相対式2面2線の列車交換設備を有し、八日市方に構内踏切がある。ホームはかなり古く、幾重にも嵩上げされている。かつては、愛知川河岸の砂利採石場に延びる貨物引き込み線もあったが、現在は廃止された。一部は保線用線路として残され、線路に撒くバラストの積み込み場になっている。また、東海道新幹線と立体交差する地点でもあり、時折、轟音を立てて新幹線が通過するは、ローカル風情を減じるのが残念であるが、致し方なかろう。


(五箇荘駅ホーム全景。向こう側が米原方で、左側が上り1番線、右側が下り2番線になる。元々は、3番線もある2面3線であったという。)

(八日市方の新幹線高架橋交差部。交差部左下に貨物引き込み線跡が見える。かつての長編成の貨物列車に対応するため、構内の直線線路有効長は長い。)

駅舎は平成に入ってから建てられたもので、商家風の越屋根のある立派な平屋建物になっている。何故か、最上段の六角塔が奇抜であるが、あの信長殿のお城の捩りか。なお、地元のシルバー人材センターが委託管理をし、観光案内やレンタサイクルの貸し出しも行っているが、待合室内の観光案内所はシャッターは固く閉められ、ひっそりとしていた。観光パンフレットや街歩きマップを入手したかったが、諦めよう。


(五箇荘駅舎本屋[ほんおく/主建物のこと]。市のコミュニティー機能も併設する複合型大型駅舎で、近江鉄道本線には幾つか建て替えられている。なお、老朽化した旧駅舎を昭和57年[1982年]に解体した後、約20年間は駅舎がなかったという。)

(ホームには草臥れたベンチが。化粧品店の手書き広告の字体が昭和レトロだ。)

駅前は少し広いが、バスやタクシーの待機や商店はない。駅舎向かいには、小幡商人発祥の地の石碑と大きな観光案内看板がある。この五箇荘は中山道の宿場町であり、駅から北西2キロメートル付近に白壁土蔵や屋敷が建ち並ぶ旧市街地が残っている。関東の川越(埼玉県)や佐原(千葉県と同じように、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定される町並みとのことなので、大いに期待できそうだ。レンタサイクルは借りられず、バスやタクシーもないので、元気に歩いていこう。徒歩30分ほどかかりそうである。


(小幡商人発祥の地の石碑。この地の利を生かして活躍した小幡の商人は、江戸時代以降の近江商人の原型になったという。)

(大型観光案内看板。最大規模の金堂地区のほか、近隣2ヶ所に古い町並みがあるらしい。)

駅の自動販売機で水分補給用の飲料を手配し、五箇荘駅【地図A地点】を出発しよう。雲も殆どない快晴で、汗ばむ陽気だ。念のため、地図を用意してきたので、確認してみる。静かな住宅地を抜けて、現代の中山道である国道8号線に出る。国道を横断し、先ずは竜田町の市立近江商人博物館【博物館マーカー/B地点】を目指す。途中、街道時代の雰囲気を残す遺構も、ちらほらと見受けられるかもしれない。


(五箇荘駅を出発する。左手に廃業した美容院があったが、かなり荒れているので、相当以前のものらしい。)

駅から突き当りのT字路の道端をふと見やると、設置年代は不詳であるが、古い花崗岩の大道標【赤色マーカー】があった。この五箇荘は、京都・木曽方面への中山道(古代の東山道)と、八日町(現・八日市)と日野を経由し伊勢に至る御代参(ごだいさん)街道の分岐地点であり、人々の往来や物資の輸送で大いに栄えたという。なお、御代参の由来は、京の天皇の使者(名代/なだい)が、この脇街道を利用し、伊勢神宮と多賀大社に遣わされた習わしによる。


(ひっそりと残る古い大道標。この付近が中山道と御代参街道の分岐地点であった。)

大道標を左に道なりに歩いて行く。この細い通りが旧中山道で、往年の雰囲気を残すという。途中のY字路に大きな灯籠【黄色マーカー】があり、東屋のある小さな公園が整備されている。この付近は小幡村と呼ばれ、村の中心に据えられた常夜灯であったらしい。


(旧中山道ポケットパーク。大燈籠の正面に「太神宮」と刻まれており、伊勢神宮のことである。横に「村中安全」と刻まれている。向かいには、正眼寺がある。)

この先の大同川と呼ばれる小さな川を渡り、左に折れると、その先も旧中山道が続く。一本北に新道の国道が走っているが、ここは住宅街なのでとても静かである。大きな屋敷が建ち並び、なんと茅葺きの家屋も二棟残っていた【カメラマーカー付近】。川の南岸は中規模公園になっており、住むにいい感じである。


(大同川北岸の旧中山道と茅葺き家屋。この付近は、北之庄村と呼ばれていた。※帰路時に京都方を撮影。)

そして、旧中山道を離れ、交通量の非常に多い国道8号線を越えると、より古い町並み感が増す。重厚な黒瓦を葺いた立派な屋敷や緑も多い。その先の狭い路地を進むと、古い学校跡【青色マーカー】や神社が鎮座していた。この学校は大正8年(1919年)に開校し、当初は女学校であったという。現在も存続しており、日本初の書道専門学校として再スタートし、書道師範の養成などをしている。


(国道8号線の横断歩道を渡ると、その先の路地はかなり狭い。)

(淡海[たんかい]書道文化専門学校。木造の旧校舎などが残る。現在は、この裏側の新校舎に移転しているという。なお、訓読みの淡海[あはうみ]は湖のこと。近淡海[ちかつあはうみ/京から近い湖の意]は、現代の近江の語源で、琵琶湖の古称。)

(中華風楼閣「風亭」。後ろの新興住宅との対比もシュール。敷地内は荒れているが、石碑も残っている。)

学校跡奥並びの龍田神社【鳥居マーカー】は、霊験を授かった地元有力武将が、大国主命(オオクニヌシノミコト)を勧請した鎮守社という。創基は不詳であるが、鎌倉時代以前の大層古からの様子で、明治時代から昭和初期にかけての女性皇族・俔子(ちかこ)殿下の歌色紙が奉納された由緒ある古社である。なお、俔子殿下は、薩摩藩島津氏の元令嬢であり、昭和天皇妃・香淳皇后の母に当たる。ひと町の村社が天皇家由縁であるのも珍しい。どうやら、幕末の宮家のひとつであった賀陽宮(かやのみや※)の御領に指定されたのがきっかけらしい。残念ながら、当時の詳しい記録は失われているという。


(龍田神社鳥居前。古くは大正神社と称し、後に6柱の大神を合祀することから、六正神社となった。明治初期の村合併の際、竜田村に改称されたのに合わせ、合併相手の鎮守社主神の日本武尊を迎え、神社名も村名に改称したという。旧社格は村社。)

(拝殿前。境内はとても広く、この地域の最大級になる。この拝殿前には、大きな神楽殿も設けられている。村社格でありながら、立派な造りに驚いた。)

龍田神社前を通り、広い東西道の交差点に出ると、左手に市立五個荘小学校【紫色マーカー】がある。小学校としては、とても立派な木戸の正門が目を引く。そして、もう少し西に歩くと、第一目的地の市立近江商人博物館【博物館マーカー】に到着。旧市街地の金堂地区の手前まで来た。大小色とりどりの鯉のぼりがたなびき、歓迎してくれているようだ。いよいよ気分も高まる。


(市立五個荘小学校正門。近江商人の「三方よし」の理念を取り入れた教育をしているという。)

(市立近江商人博物館。公民館機能のほか、近江商人の資料展示、地元出身の日本画家・中路融人画伯の作品も展示している。)

(つづく)

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(※賀陽宮/かやのみや)
天皇家の宮家のひとつ。江戸時代幕末に設けられた宮家であるが、宮は安芸国(あきこく/現・広島県)に幽居されたという。後に久邇宮(くにのみや)に改称し、明治中期にその王子が復興した。なお、終戦直後に廃され、現存していない。

【歴史参考資料】
現地歴史解説板

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