わ鐡線紀行(38)足尾本山観光 その1

間藤駅(まとう-)見学と折り返しの上り桐生行き列車を見送った後、この足尾を語るには、絶対に外せない場所である足尾本山周辺を散策してみよう。地元では、単純に「本山」とも言われ、備前楯山(びぜんたてやま)から掘り出した銅鉱石を精錬していた足尾精錬所周辺【工場マーカー】なる。所謂、足尾銅山の事業中心地である。

時刻は、朝の8時30分を過ぎた所である。天気は快晴で、風も殆ど無いが、気温はかなり低い。実は、この付近は標高700mの高所である。駅入口の小さな階段を降り、接続している県道を北に歩いて行く。県道沿いに民家が断続的に連なり、昭和な町並みが色濃く残っていて、松木川沿いの狭い谷間の南北に長く集落が形成されている。また、立派な土蔵も見かけるが、明治以降に町の再開発が著しかった足尾では、珍しいらしい。

この県道も、緩やかな登り坂がずっと続いている。なお、間藤駅周辺の下間藤地区は、足尾銅山の北部の玄関口として、最盛期は200戸余りの集落になっていた。しかし、足尾銅山の再開発が始まった明治10年(1877年)頃は、周辺に畑がある程度で、明治30年頃から町並みが形成されたと言う。間藤駅が開業した大正の初めには、商店街が出来ており、三箇所の社宅も設置されていた。


(県道沿いの下間藤地区の町並みを北に歩く。)

(立派な土蔵。軒下に大きな屋号もあるので、元商家であろう。)

人家は多いが、人車共に交通は少なく、しんと静まり返っている。長い登り坂の県道を歩いて行く事、数分。錆び付いた踏切に遭遇した。間藤駅から足尾本山駅への貨物線の踏切跡【線路マーカー】である。使われなくなった踏切踏み面のレールは撤去され、アスファルトで埋められているが、警報機や木製踏切柵はそのまま残っている。


(貨物線の踏切跡に差し掛かる。)

(雪を頂く日光連山が良く見える。)

踏切から間藤方を望むと、手前の切り通し部から、レールもそのまま残っているが、この先は道床や法面の崩落が激しいとの事。


(間藤方の切り通し跡。)

足尾本山方は、そのまま緩くカーブをして、第二松木川橋梁に繋がっている。対岸の高台の大きな木造建築は、廃校になった小学校の講堂である。


(足尾本山方。)

この踏切の先にある第二松木川橋梁【赤色マーカー】は、両端がデッキガーター、中央部がプレートガーターの三連鉄橋で、コンクリート製アーチの道路橋と、中央部下部で交差しているのが面白い。

道路橋の銘板には、「間藤橋・昭和13年4月竣工」と刻印されている。鉄道橋は、それ以前の足尾鐡道開通時の大正3年(1914年)の竣工であり、元々はトラス橋だったそうなので、後年に架け替えられたと思われる。また、間藤橋の交差部分の高さが大変低いので、人や自転車専用らしい。対岸にあった工場に行き来する為に架けられたそうだが、今は通行止めになっている。


(第二松木川橋梁跡。)

(人道橋の間藤橋。第二松木川橋梁を潜るが、頭がぶつかりそうな低さである。)

近くの崖下には、間藤水力発電所跡【緑色マーカー】がある。実は、日本初の水力発電所であり、ドイツの最新技術を導入したと言われている。当時は、「原動所」と呼ばれていた。明治以降に足尾銅山の再開発をした実業家・古川市兵衛(ふるかわいちべい)氏が、銅山の電気動力源として、明治23年(1890年)12月に建設した。松木川上流とその支流の深沢川から取水し、水樋で2.9km誘導して、この山頂に集め、高さ318mから落水発電をしていた。

この発電所で作られた電気は、銅山の排水用ポンプ、エレベーター、坑内電車、坑内電灯等に使われ、薪や木炭を使っていた従来から、近代化を一気に進めたと言われている。なお、発電量は400馬力、今の表示単位では、300kWh相当のミニ発電所であった(※)。


(間藤水力発電所跡。)

(直径1mの導水管が少しだけ残る。)

いつ頃、発電所が取り壊されたかは、判らない。今は、水を落とす導水管の一部と河原に発電所の基礎部分が残っており、観光案内看板の白黒写真が、当時の様子を伝えている。


(松木川の河原にある発電所の基礎部分。)

(当時の発電所の様子。写真上の赤い印が、今も一部残っている導水管である。)

清々しい空と清涼な朝の空気を満喫しながら、更に、登り坂の県道を歩いて行こう。松木川支流の深沢に架かる深沢橋を渡り、雪を頂いた山々を眺めながらである。


(日光連山が見える県道を、北に歩いて行く。)

左手の備前楯山は、ゴツゴツとした荒々しい山体が、目前に迫る大迫力になっている。木々が殆ど無いのは、薪や鉱山の坑道用・住宅用木材として伐採された事、大規模な山火事が数回あった事、銅精錬時の亜硫酸ガスによる酸性雨の為と言われている。現在は、銅精錬を行なっておらず、完全に脱硫する無公害化技術が確立されているので、公害は無くなっている。また、この岩山の裾野を這う様に貨物線が敷かれ、トンネルも見える。


(迫る備前楯山の岩肌。少しずつであるが、緑も回復している。)

(岩肌をくり抜いた貨物線のトンネル跡が見える。)

暫く歩くと、県道はふた手に別れ、幅の広い場所に出る。人家も多く、横に大きく広がっている。この赤倉地区は、精錬所に隣接した足尾一の賑わいの鉱山街だった。明治40年(1907年)頃には、80軒の民家と140軒もの商店が連なり、大変な活気を呈していたらしい。しかし、鉱夫の大暴動が起きて、通洞(つうどう)に鉱山事業の中心が移ってしまい、閉山後の今は、静かな山里に戻っている。


(赤倉地区中心部の町並み。)

赤倉地区中心部の中を歩いて行くと、大きな広場の様な場所があり、左手の松木川の方を見ると、巨大な工場が聳えている。間藤駅から約1.5km、徒歩30分で、本山こと、足尾精錬所【工場マーカー】に到着。間藤から伸びてきた貨物線は、デッキガーター鉄橋で支流と道路を跨ぎ、そのまま工場内に入って行く。


(足尾精錬所跡と貨物線。)

(つづく)


(※)300kWhは一般家庭の100軒分の電力に相当する。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
足尾銅山略図(日光市発行・平成20年)

2018年2月10日 ブログから転載。

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