わ鐡線紀行(40)「歩き鉄」間藤駅から足尾駅へ

足尾銅山の中心地であった足尾精錬所から、わたらせ渓谷鉄道終点の間藤駅(まとうえき)に戻って来た。時計を見ると、午前10時を過ぎた所である。二時間程度の本山観光であった。

この間藤駅から、上り桐生行きの列車に再び乗車しようと思ったが、次発列車は1時間半後の11時29分発なので、隣駅の足尾駅まで歩いてみよう。所謂、乗り鉄のバリエーションである「歩き鉄」である。列車の過ぎ行く車窓と違って、ゆっくりと沿線の見所を見る事が出来る。

駅の向かい側には、古い工場建物が多く残り、昭和を濃厚に感じさせる古河キャステック【工場マーカー】がある。危険物庫らしい煉瓦造りの倉庫も県道に面してあり、外観のみであるが、見学が出来る。


(古河キャステック間藤工場正門。)

(銅山時代のものと思われる、木造工場や古い看板も味がある。)

足尾銅山を所有する古河機械金属グループの会社で、かつては、古河鉱業間藤工場であった。当初の足尾銅山では、欧米製輸入機械を使って採掘を行なっていたが、明治33年(1900年)にこの工場が設立され、輸入機械を手本として、国産の改良された各種機械を製造したと言う。後年には、この間藤工場製の削岩機等が、足尾銅山で使われていた。現在は、鉱山会社から独立し、国内向け鉱山用機械の需要が無くなった今、高品質の耐熱・耐摩耗の鋳物(いもの※)を製造している。


(古い鉄筋コンクリートの大きなビル。事務所棟らしい。)

(耐火煉瓦倉庫も残っている。灯油などの危険物保管庫と思われる。)

早速、間藤駅【A地点】から出発しよう。わたらせ渓谷鉄道の盛土の線路を見ながら、長い坂を真南に降って行く。勾配は比較的緩やかになっており、沿道の所々には、民家が建ち並んでいる。


(間藤駅南の県道。)

途中には、小さなダムがある。金網フェンスに取り付けられたプレートを見ると、足尾発電所の取水堰【赤色マーカー】らしい。川面は青々と美しく、鉱毒で激しく汚染されていたと思えない程である。足尾発電所は、足尾町中心部の通洞(つうどう)近くにあるミニ水力発電所で、昭和60年(1985年)竣工、最大発電量は1万kW(一般家庭約3,000軒分)との事。なお、東京電力ではなく、栃木県の県営発電所になっている。


(足尾発電所渡良瀬取水堰。)

取水堰から、240m南下すると、県道は左に急カーブし、わたらせ渓谷鉄道の線路を潜る。行きの列車で最後の渡河をした第一松木川橋梁【橋マーカー】である。大正3年(1914年)8月、足尾駅から足尾本山駅まで足尾鐡道(後の国鉄足尾線)が、最後に延伸全線開通した際に架橋され、イギリス式のトレッスル橋脚に支えられた大変珍しい形式である。全体的にスマートな印象があるが、細部を見ると独特で、河床の橋台部には、ぶつかる水流を緩和させるミニトンネルがある。


(国登録有形文化財指定の第一松木川橋梁。)

(橋脚の支持部も間近に見学できる。)

この独特な脚立状の橋脚は、イギリスのパテントシャフト・アンド・アクスルトリー社が、1888年(明治21年)に製造したもので、日本鉄道の盛岡〜八戸間(後の国鉄東北本線)に使われていたものを移設したと言われている。なお、上部のデッキガーターは国産になっており、明治44年(1911年)・汽車製造合資会社の製造である。


(トレッスル橋脚と減流トンネル。)

また、隣の下流側には、細いピンプラットトラス鉄橋の歩行者専用橋・田元橋が昭和2年(1927年)架橋に架橋されており、橋長46.0m、幅員4.0mになっている。

◆国登録有形文化財リスト◆
「わたらせ渓谷鉄道第一松木川橋梁」

所在地 栃木県日光市足尾町字田元
登録日 平成21年(2009年)11月2日
年代 大正3年(1914年)
構造形式 鋼製三連桁橋、橋長56m、橋台及び橋脚付1基。
特記 松木川とほぼ並行して足尾・桐生間に建設された旧足尾鐵道の施設。
渡良瀬川上流に架かる橋長56m、単線仕様の鋼製三連桁橋で、
桁はデッキガーダーとする。
橋脚は頂部まで丁寧に石貼した石積躯体に、
イギリス製の錬鉄トレッスル橋脚を載せる特殊な造りが珍しい。

(文化庁文化遺産データベースを参照・編集。)

第一松木川橋梁を過ぎると、国道122号線と交差する田元交差点【車マーカー】に到着。日中も交通量は少なく、静かで大きな交差点であるが、日光方面に向かう重要分岐地点になっている。国道122号線は旧・日光道であり、その先の地蔵峠下にある日足トンネル(ひあし-)を越え、いろは坂下の日光市細尾町に入る。通洞駅や間藤駅からの日光行き連絡バスも、この国道とトンネルを経由して行く。

この交差点を直進すると、国道122号線足尾バイパスの桐生方面になり、町中心部の向かい側対岸を通るので、右折をして、旧国道の県道に入る。下り坂を暫く歩いて行くと、左右が開けて、明るくなってきた。何となく、面白いワインディングの道路と思うのであるが、左右が川になっており、この道路の部分が境界の土手になっている。左が神子内川(みこうちがわ)、右が松木川で、向う先が下流側である。


(神子内川と松木川に挟まれている県道。)

この先の神子内川と松木川が合流する場所の大黒橋の袂には、小さな洞穴に波之利大黒天(はしりだいこくてん)【祈りマーカー】が祀られている。実は、足尾の地名の由来地になっている。

日光を開山した高僧・勝道上人(しょうどうじょうにん/735〜817年)が、男体山(なんたいさん)で修行中、中禅寺湖上に大黒天が現れ、上人を励ました。その時、白鼠が穂を咥えて現れたので、鼠の足に紐(緒)を結んで後を追うと、この洞穴に飛び込んだと言う(※)。上人はここを修験の場と考え、大黒天と白鼠を祀り、この地を「鼠の足の緒(お)」から、「足緒(現在の足尾)」と名付けた。

また、渡良瀬の名称も、このふたつの川の合流付近の由来になっている。勝道上人が川を渡ろうとしたが、谷が深く、急な流れの場所が多い為に困難であった。しかし、この付近は浅瀬があり、容易に渡る事が出来た事から、「渡るに良い浅瀬」から、「渡良瀬」になった。以来、このふたつの川の合流地点からの下流を、渡良瀬川と呼ぶ様になったが、現在は、松木川の上流が渡良瀬川の源流とされている。


(洞穴と波之利大黒天。)

大黒橋の先は、わたらせ渓谷鉄道の線路が近づいて来て、地形も広く平坦になり、足尾駅の北端が見えて来る。また、県道から対岸に大きな橋がふたつ架かっている。渡良瀬橋(旧橋)と新渡良瀬橋【黄色マーカー】である。

このふたつの大きな橋が架かる場所は、渡良瀬鉱山住宅の南側入口になり、江戸時代以前の旧日光道の分岐地点でもあった。当地の歴史は大変古く、奈良時代末期の延暦7年(788年)には、寺が建てられていたが、江戸時代までは、農地と農家が2〜3戸だけであった。明治10年以降の古河市兵衛による足尾銅山再開発以降、急激な発展を遂げ、大きな集落になったと言う。


(旧橋袂の道標。建立年代は不明だが、「左 中禅寺道」と刻まれている。)

旧橋の渡良瀬橋下には、花の渡良瀬公園が整備され、桜の名所となっている。この美しいコンクリートアーチ橋は、当初は鉄製のアーチ橋として、明治後期に架橋された。鉄製と言えども、主桁以外の横桁、床板や高欄等は木製だった為、昭和2年(1927年)に鉄製に改修。昭和10年(1935年)に主桁にコンクリートを巻き込み、鉄筋コンクリート化したと言う。なお、鉄筋コンクリート化した際、垂直桁の間の斜材(プラットトラス)は取り除かれて、簡略化されている。現在は、上流側に新渡良瀬橋(新橋)が平成9年(1997年)に架橋された為、歩行者専用を兼ねた保存橋になっている。


(旧橋の渡良瀬橋。後ろの橋が新橋。)

実は、足尾鐡道(後の国鉄足尾線)が開通する以前には、町周辺に馬車鉄道が敷設されていた。馬頭尊の石碑もあり、馬車鉄道に従事する300頭もの馬が、ここで待機していた。


(馬車鉄道拠点跡の馬頭尊石碑。)

この渡良瀬橋付近は、渡良瀬川が大きく蛇行しており、その内側に古河掛水倶楽部(ふるかわかけみずくらぶ)【博物館マーカー】と呼ばれる大きな洋館が建っている。どうやら、開館している様子なので、見学させて貰おう。


(古河掛水倶楽部新館。※内部写真は、私企業の施設の為、社長の許可が必要との事。ご容赦願いたい。)

見学希望の旨を伝えた所、中年女性の管理人氏に快く承諾をして貰う。本来、平日は予約時のみ開館するが、今日はメディアの取材があったと言う。館内は自由に見学をして良いとの事であったが、付きっきりで、詳しい案内と解説をして頂いた。

この古河掛水倶楽部は、足尾銅山の迎賓館として、明治32年(1899年)に創業者の古河市兵衛氏が建てた古い洋館である。政府関係者や貴賓客を饗し、社交場や宿泊所、鉱山会社関係者の福利厚生施設として利用され、現在も古川金属工業の研修・福利厚生施設として、使われている。

なお、建物の設計者は不明だが、イギリス式の洋風建築様式が基本になっており、大正初期に改築され、現在の姿になっている。正面奥の大きな二階建て洋風建築の新館と、左手に平屋の旧館があり、特に新館の造りは大変素晴らしく、外観は洋風建築でありながら、内部は檜(ひのき)をふんだんに使った和洋折衷の独特な様式で、洋室と和室が廊下を挟んで向かい合わせになっていたり、ガラス入り引き戸が洋風の廊下に面してあったりするのが面白い。川寄りの縁側も、木格子のある和風総ガラス張りになっているが、ステンドガラスが上部に嵌め込まれた洒落た造りになっている。


(新館の渡良瀬川側。今見ても、グラッシーで美しい外観である。)

華美では無いが、重厚でシックな造りは、古川金属工業の社風と伝統を肌で感じる。また、部屋も当時のままに維持されており、鉱山最盛期のロマンを大いに感じた。

見学後、20人が一度に会食出来る大きな食堂で、エイジングコーヒー(有料350円)をご馳走になる。このような重厚な所で、一服出来るのも、そう滅多に機会が無いだろう。一服後、古川金属工業の管理人氏に丁寧にお礼を言い、出発しよう。なお、敷地内には、大きな煉瓦造りの書庫(内部非公開)、重役邸と鉱石資料館(内部見学可)、鉱山電話資料館(内部見学可)もある。

◆国登録有形文化財リスト◆
「古河機械金属株式会社古河掛水倶楽部旧館・新館」

所在地 栃木県日光市足尾町2281
登録日 平成22年(2010年)1月22日
年代 明治32年(1899年) 新館は、明治末期に洋風に増改築。
構造形式 [旧館]木造平屋建、鉄板葺、建築面積231m²。
[新館]木造二階一部平屋建、鉄板葺、建築面積476m²。
特記 [旧館]新館の北西方に南面して建ち,新館と渡廊下で結ばれる。
桁行21m、梁間7m規模、東西棟、寄棟造、鉄板葺の木造平屋建で、
南面西端に正面玄関、中央東寄りに脇玄関を設ける。
外観は下見板張の洋風とし、内部は西方を畳敷の大広間、東方を洋室とする。
[新館]渡良瀬川の右岸段丘上に位置し、
川に面した東面は石積の柱を現して懸造り風につくる。
桁行17m、梁間12m規模、切妻造、鉄板葺の木造二階建で、
南に厨房等、西に平屋建の球技室を張り出し、
二階をハーフティンバー風にするなどの変化に富んだ外観。※追記※
平成28年(2016年)に、煉瓦書庫と鉱山電話資料館が、
国登録有形文化財に追加指定された。

(文化庁文化遺産データベースを参照・編集。)

【掛水倶楽部ご案内】
[開館日]土・日・祝日の10時から15時まで。平日は事前予約が必要(要電話問い合わせ)。
[連日公開]4月末から5月初めの連休中。
[冬季休館]12月上旬から3月下旬。
[入場料]大人400円、小中学生200円。
※会社の社内研修等の利用日は、見学不可。

(つづく)

(※鋳物/いもの)
金属を型に流して形成した製品。
(※波之利大黒天の祠と洞穴)
大黒橋が昭和31年に架け替えられた為、現在の祠と洞穴はその際に造られたもの。古来の祠と洞穴は、向かってやや右下にある。

【参考資料】
現地観光案内板
足尾銅山略図(日光市発行・平成20年)
古河掛水倶楽部案内パンフレット

【謝意】
古河機械金属株式会社総務課D様
訪問取材時のご案内とご解説を頂きまして、ありがとうございました。
厚く御礼申し上げます。

2018年5月13日 ブログから転載・校正。

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