岳南線紀行(9)かぐやの里 後編

吉原の街並みを高台から見渡した後、岳南忠霊廟の丘【青色マーカー】から、更に西に進む。緑の多い高台の住宅地の中に、青竹が生い茂った、竹採公園【緑色マーカー】がある。あの有名なかぐや姫伝説発祥の地と言われており、全国に候補地が幾つもあるが、ここは特に信憑性が高いと言われる。岳南線の駅名でもある比奈(ひな)は、平安の頃の旧字では、姫名郷(ひなの-)と言われた事や、赫夜姫(かぐやひめ)、籠畑や見返し等の関連性のある地名も残っている。


(竹採公園。)

(歴史自然公園として整備され、地元の憩いの場にもなっている。)

かつては、江戸時代初期の臨済宗中興の祖である、白隠禅師ゆかりの無量寿禅寺があった地で、現在は歴史公園として、駐車場と周遊路が整備されており、定休日以外は自由に見学できる。薄暗い厳かな竹林の中に、竹採塚があり、翁夫婦とかぐや姫が暮らした場所と伝えられている。

エントランスである小さな広場から、土手の竹林の斜面を一周する周遊路あるので、辿ってみよう。鬱蒼と茂った竹林は、中を歩くと外界と遮られた様な不思議な感じがし、宅地開発前のこの一帯は、こんな雰囲気だったのであろう。周遊路の入り口から、竹林の中の坂を登ると、囲われている小さな塚がある。塚は、古来からある卵型の自然石で、公園整備の際に改築された。


(遊歩道の竹林。)

(塚石には、竹採姫と刻まれているが、いつのものかは不明らしい。)

竹取物語は、日本最古の物語とされ、奈良時代から平安時代に出来たと言われている。なお、地元に伝わるかぐや姫伝説の終末は、一般的に知られている内容と異なる。天女の出迎えで月に帰るのではなく、不老不死の薬(不死=富士山に通じる)の箱を置き土産に、富士山頂の大池にある宮殿に帰ったと伝えられている。また、地元では、毎年の秋名月の頃に「姫名の里まつり」が開催され、ミスかぐや姫のお披露目や舞踊、演芸や飲食コーナーなども設けられ、大変賑わうとの事。

【富士市竹採公園】
見学無料。毎週木曜日定休(祝日は開園、翌日代休)、
12月29日から1月3日は年末年始休み。
3-9月は8時30分から18時まで、10-2月は8時30分から17時まで(夜間は閉鎖)。
無料駐車場(普通車10台程度)、広場に東屋風休憩所と公衆トイレあり。

とても静かな竹林の周遊路を一周して、歴史の深さと日本的な情緒を堪能した後、竹採公園を出発する。高台にある中学校の前を通り、その西には、神社や寺院が集まったエリアがある。旧家の多い住宅地内の路地を歩いて行くと、鏡石湧水池と水路【茶色マーカー】があり、水神様も祀られている。なお、鏡石は、あの照手姫伝説に関連し、かぐや姫と同一と言う説もある。


(鏡石公園前の水神祠。高台であるが、湧水が豊富である。)

更に先のカーブした坂を下って行くと、滝不動【鳥居マーカー】がある。元々は、隣にある永明寺の鬼門に置かれた鎮守堂である。本堂横の湧き水を頭からかぶる不動様は、「いぼとり不動」と言われ、池の水を掛けてお参りすると、いぼが取れると言われている。言い伝えによると、昔、いぼが沢山できた娘が毎日お参りをした所、満願日の21日目の朝に、「池の水をかけろ」と夢枕で言われ、体にかけた所、たちまちいぼが取れたと言われている。


(滝不動。小さな本堂が置かれている。)

(伝説のいぼとり不動。)

坂を下りきり、大きな道路に繋がる角には、この周辺で最も立派な永明寺【祈りマーカー】がある。奈良時代の著名な高僧である行基(ぎょうき)によって、開基された真言宗の寺であったが、戦国時代に曹洞宗に改宗された禅寺である。かつては、七堂伽藍を擁し、時の為政者である今川家、武田家、豊臣家や徳川家から、判物(はんもつ/大名等からの文書)や朱印状を賜る程の大寺だったらしい。


(永明寺。本堂等は新しく、建て替えられているらしい。)

この寺には、「東海一の庭園」と言われる、名園が本堂裏にあるそうで、無理を承知の上でお願いした所、特別に拝観させて頂いた。本堂横の近代的な庫裏にお邪魔すると、控室が連なる縁側から一望出来る。湧き水を利用した立体感のある大庭園で、幾つもの小滝もあるその奥行き感には驚かされ、最上段は小さな谷の様になって富士山に向かって上がり、暫く、その山水に無心で見入ってしまった。


(永明寺の大庭園。)

永明寺の西隣には、川が流れ、昔は深い淵だった鎧ヶ淵親水公園【黄色マーカー】がある。湧き水が豊富に湧き出るこの公園は、源頼朝が鎧を外して、水浴したと伝えられている。初夏には、蛍見も出来るとの事。なお、この川は下ると、岳南原田駅東を流れる滝川になる。


(鎧ヶ淵親水公園。)

この淵にも、面白い伝説ある。永明寺の小坊主が、木の枝の選定中に山刀を鎧ヶ淵に誤って落としてしまった。和尚に、「淵に潜って、拾ってきなさい」と言われ、潜っていった。すると、淵の底で、美しいひとりの女人が機を織っており、「おまえの山刀で布が切れてしまった。山刀は返すが、私がいたことは誰にもいうでないぞ」と言われた。小坊主が寺に戻ると、たったの三日と思っていた時間が、3年も経過していたそうで、竜宮城の様な物語が言い伝えられている。


(現在の鎧ヶ淵の流れ。土手の滝からの水も合流する。)

中学校前まで引き返し、長い坂を下って、比奈駅へ向かおう。中学校前の交差点角に、軽食スタンド「ろばた杉秀」【クレープマーカー】がある。元々は、魚屋だったらしいが、近くにふたつの学校がある事から、店替えしたらしい。子供達が好きなクレープやソフトクリームなどの他、お好み焼やたこ焼き等もあるので、昼食代わりにも良い。竹採公園には、広場に無料休憩所もあるので、そこで食べる事も出来る。


(軽食スタンド「ろばた杉秀」。)

そのまま、中学校前の長い坂を下る。この坂は御崎坂(みさき-)と言われ、根方街道から北に接続する古道で、神社や寺院が沿道に沢山あり、それが良く判る。また、平安時代末期の治承4年(1180年)の源平の富士川の戦いにおいて、この御崎坂付近に、源氏軍の陣を敷いた言い伝えが残っている。

なお、御崎の旧字は「岬」で、奈良時代の好字二字令(※)により、変更されたらしい。海から離れているが、この高台が富士山南麓から突出した、岬状になっている事による。


(坂の途中には、地元郷土研究会の立派な石碑が建てられている。)

根方街道を横断し、住宅地の細い路地を通り抜けると、比奈駅に到着する。

(つづく)


(※)好字二字令
正式には、諸国郡郷名著好字令(しょこくぐんごうめいちょこうじれい)と言われ、地名の発音はそのままで、好ましい漢字二字で地名を表記する様に、一斉に表記を改めた。和銅6年(713年)に発布。これには、漢字の当て方の統一や、地名から日本神話の由来を廃する方針があった。中には、無理に変えられた為、読みが変わった地名もある。一文字の地名は、強制的に二文字になった。

〈例〉
倭→大倭(後の大和)、明日香→飛鳥、木→紀伊、島→志摩、
遠淡海(とほつあはうみ。浜名湖の事)→遠江、車→群馬(読みが変わった例)

日本で二文字の地名が圧倒的である事は、この好字二字令の影響であり、時代が下っても、地名は基本的に二文字であるのが暗黙の了承になった。当時の先進国であった中国の唐の政策を手本にし、律令政治を施政するにあたり、日本神話に関する由来を排除し、当時の実情に合わせたと考えられている。なお、好字とは、好ましい漢字の事で、佳字とも書く。

【参考資料】
現地観光案内板
富士市公式HP「文化財の紹介」
岳南電車沿線マップ(岳南電車発行)
「御崎坂のいわれ」現地頒布リーフレット(吉永郷土研究会発行)
アイラブ岳鉄(鈴木達也著・静岡新聞社刊・2001年)

散策コースは、岳南電車沿線マップ裏面の「泉の郷山本勘助と歴史探訪」(原田-富士岡)コースを、逆行程に歩き、岳南原田駅ではなく、比奈駅を終着とした。

鎧ヶ淵の伝説については、口伝の為、細かな点に違いがある。現地に設置された、観光案内石碑に刻まれたエピソードを引用した。

永明寺の庭園は、観光客には非公開になっており、特別に拝観させて頂いた。

2017年7月13日 文章修正・校正

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