屋代線紀行(26)松代めぐり その6(2日目・後編)&松代駅構内。

宮坂醸造店【酒マーカー】前の国道を渡り、駅南側の真田公園に向かう。昨日は入館しなかった、真田宝物館【博物館マーカー】に入ってみよう(入館料大人300円、9時-16時30分、毎週火曜日休館・祝日と年末年始は除く、館内撮影不可)。

真田家十二代当主・真田幸治氏から、昭和41年(1966年)に松代町に寄進された古文書、武具や調度品等の大名道具を、大きな館内に収蔵・展示している。かなり、ゆったりとした展示なので、見学し易い歴史博物館になっている。


(真田宝物館。※館内撮影は不可の為、ご容赦願いたい。)

収蔵品目数は数万点と膨大で、3ヶ月毎に、テーマに合わせて展示替えをしている。主に、掛け軸、絵画、茶道具、武具、刀、展示の決めと言える立派な兜が展示されており、武家らしい落ち着いた感じの逸品が多く、真田家の堅実な家風を感じさせる。

また、外壁の「六文銭」は、真田家の家紋として有名である。仏教六道「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道」を表し、そこに彷徨う魂を救済する六地蔵に捧げる賽銭であるという。所謂、「三途の川の渡し賃」であり、戦いに臨む武士の覚悟を表すとされる。

退館後に宝物館の裏手を通ると、銀杏の木が黄金色になっていた。通りがかりの団体観光客も、大勢見に来て、感嘆をあげていた。


(黄金色の銀杏。)

真田宝物館から、池田満寿夫美術館前を通り、屋代線の踏切を渡ると、松代城址【紫色マーカー】に到着する(国指定史跡、入場料無料、9時-17時、無休、撮影可)。

残念ながら、明治政府が出した廃城令の前年、明治5年(1872年)に廃城になっている。幕末に二度の火災があった事や、本丸の外に花の丸御殿が建てられたので、この城の本丸の重要性は、既に低下していたという。なお、平成16年(2004年)に、内堀・石垣・土塁・城門等が復原され、町のシンボルとして復活している。


(復原された前橋と太鼓門全景。)

(内堀と石垣。内堀は、東・南・西の三方を復原している。)

この城は、古くは、海津城(かいづじょう)と呼ばれていた。戦国時代の永禄3年(1560年)頃、甲斐の武田信玄が上杉謙信との戦いに備え、武田家軍師であった山本勘助に命じて、築城させたと伝えられている。後の江戸初期の元和8年(1622年)、真田家が上田から松代に転封されると、真田家の居城になり、「真田十万石」の拠点として、幕末までの10代・250年間続いた。

なお、真田家の発祥地は上田市真田町になり、甲斐の武田家に仕えた有力武家であった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、真田家の存続を図る為、西軍・徳川家康側と東軍・石田三成側に、親子・兄弟が別れて戦っている。それにより、徳川側だった長男・信之(のぶゆき・後の初代松代藩主)は、本拠地の上田を与えられ、石田側だった父・昌幸(上田城主)や次男・幸村(本名は信繁/のぶしげ)は、和歌山県北部・高野山近くの九度山に追放された。

しかし、大阪冬の陣と夏の陣(慶長19年と20年・1614年と1615年)の際、九度山を脱出した幸村は豊臣側に付いて、徳川軍を大いに悩ました奮戦ぶりは有名である。徳川の大軍を二度も撃退した上田合戦の逸話も合わせ、「真田は日本一の兵」という真田の武勇を後世まで褒め称える所以になっている。


(城の正門にあたる太鼓門は、とても大きい。)

かつての松代城は、千曲川の水を大量に引き込んだ水城であった。案内図中央の三日月堀は、武田氏築城の城で見られる特徴である。また、本丸中央に積層の天守閣は無く、御殿様式の城であり、石垣の上の四隅の櫓が天守閣の代わりになっていた。内堀外側の左の建物が、花の丸御殿であり、幕末の藩政中心地になっている。


(松代城の観光案内板。)

大きな太鼓門を潜ると、本丸は公園になっている。沢山の桜が植わっているので、春はとても綺麗であろう。廃城直後は、畑に変えられたという。また、本丸北側(千曲川側)には、「海津城址之碑」と刻まれた大きな石碑と、復原された本丸北門・北不明門(きたふみょうもん)がある。


(松代城本丸。)

(海津城址之碑と北不明門。)

松代城址は、松代駅の北隣にあるので、北側から駅構内を見る事が出来る。城址との境界に沿った小路を、歩いてみよう。城址と駅の間には、広い空き地があり、昔は側線が何本かあったという。現在は、倉庫や市営観光駐車場として一部使われている以外は、草が生い茂る遊休地になっている。なお、松代駅1番線の線路は、屋代方の本線には繋がっておらず、終端部に第三種車止めが設置されている。逆U字に摘み上げた様なレールの曲げ具合が、妙にレトロで感じる。


(1番線屋代方の第三種車止め。※市営観光駐車場から撮影。)

屋代方の市営観光駐車場から松代駅を望むと、屋代方ホーム端はスロープが無く、垂直壁であるので、近年に改築工事がされたらしい。真新しいコンクリート壁と手摺りが取り付けられている。


(屋代方からの松代駅構内。※市営観光駐車場から、低倍率望遠撮影。)

1番線の外側に側線があるが、使われていない様子である。小路を進むと、朽ち果てたドラム缶がふたつと小さなトタン屋根が、草むらの中にある。屋根の下を良く見ると、作業用のトロッコらしい。ちなみに、現在の保線作業は大幅に機械化されており、通称「マルタイ」と呼ばれる大型の保線車両等が活躍している。幾つかの種類の保線車両を長野電鉄も所有している。


(朽ち果てたドラム缶とトロッコ。)

そのまま、小路を須坂方に歩いて行くと、小さな踏切がある。この汽車デザインの踏切警告標識も、最近は少なくなった。特に都市部では、電車デザインに早々交換され、なかなか見られなくなっていると思う。標識裏の設置年を見てみると、昭和50年(1975年)1月17日設置とあり、40年近く経っている。屋代線廃線後は取り外される運命であろう。


(汽車デザインの踏切警告標識。)

標識先の城裏町第一号踏切【線路マーカー】(屋代起点8k741m地点)から、駅を望む。スプリングポイントを過ぎると、大きなカーブを描きながら、ホームに入線するのが判る。


(城裏町第一号踏切脇からの松代駅構内。)

須坂方は住宅に挟まれ、緩やかな長い登り勾配が続いている。丁度、警報機が鳴りはじめたので、安全な場所に退避する。上り412列車・須坂行きが、短尺レールをパタパタと走り抜けて行った。


(城裏町第一号踏切脇からの須坂方。)

(通過する上り412列車・須坂行き電車。)

この踏切から、駅前に戻ろう。古い旧家が多いが、昭和の街角的な建物も所々に残っており、これも楽しめる所が良い。


(踏切を抜けた場所にある、昭和長屋風の商店。角の床屋だけが、今も営業しているらしい。※同日朝に撮影。)

(松代郵便局近くの昭和風の食堂。営業しているかは不明。※前日夕方に撮影。)

(つづく)


文化財管理者の長野市教育委員会文化財課より、写真掲載許可済み。

【参考歴史資料】
現地観光案内板、長野市教育委員会文化財PDF資料。

2020年3月21日 ブログから転載・文章修正・校正。

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