屋代線紀行(18)松代めぐり その4

山寺常山邸から南に200m程歩き、神田川を小さな橋で渡る。その先の路地を左に曲がると、見学コース最南端の象山地下壕【赤色マーカー】に到着する(入壕料無料、9時から15時30分まで、毎月第三火曜日と年末年始、点検期間中は休み、撮影可)。この大きな象山の下に、巨大な地下壕が掘られている。太平洋戦争末期、アメリカ軍を中心とする連合軍との最後の本土決戦に備えて、天皇や皇族、省庁・政府関係者も一緒に、松代の地下壕に大本営を移す計画があった。


(象山地下壕。)

当時、工事は秘密裏に行われ、当時の表向きは「倉庫」であった。碁盤の目の様に掘られた象山地下壕の総延長は5.9km、床面積2万3000m²、全体の75%の工事が完了した時点で、終戦になり、工事は中止になっている。地元松代の住民の他、朝鮮半島からも動員され、人海に頼った過酷な突貫作業や食糧不足から、多数の犠牲者が出たと言われている。なお、昭和19年(1944年)11月11日午前11時に着工し、翌年の終戦日まで約9ヶ月間の工事期間、1日3交代制の突貫工事、人夫は延べ300万人、当時の金額で予算2億円を使ったと言う。


(観光案内看板。)

現在、長野市の管理下にあり、入り口から約500mの一部が、一般公開されている。事務所に受付を済ませ、ヘルメットを借りて、見学してみよう。入り口は大変狭く、天井も低いが、中に行く程、広く、高くなる。


(入り口から暫くは、2m☓2m位で大変狭い。)

内部は、荒々しい素掘りのままになっている。水準を正確に測り、削岩機で岩に穴を空け、ダイナマイトで破砕する方法をとり、掘り進んで行ったと言う。


(北西方向の5番坑道を進む。中に行く程、坑道の幅や高さも大きくなる。)

(ダイナマイトを装填する穴を空けた、削岩機のロッドが抜けずに残る。)

(工事が中止された坑道。手前のフェンスは、一般公開の際に安全設置されたもの。)

(砕石は四輪手押しトロッコを使い、外に運び出した。線路の枕木跡が残っている。)

照明が所々あるが、かなり暗く、横穴の闇に引きつけられる様な雰囲気がある。なお、床面は、比較的平らに整備されているので、意外に歩き易い。入り口から、二箇所の坑道交差地点を右、左と曲がり、約10分歩くと、地下壕の中央部に到達する(パンフレットでは、連絡坑道B・坑道14-15番付近)。中央部の坑道の大きさは、幅4m・高さ2.7mで、北西・東南方向に坑道が20m間隔で20本、北東・南西方向に90度交差する連絡坑が、50m間隔で5本ある(本数は未完成も含む)。


(見学コース末端場所付近。※画像補正済み。コンデジ撮影の為、ご容赦願いたい。)

地下壕内は年間を通じて、温度や湿度は変わらないそうで、少しひんやりとしている。怖い感じがするが、本当の地底探検の気分になり、とても面白い。しかし、この巨大な地下壕を、多大な犠牲を払って建設しなければならなかったのは、昭和の悲惨な戦争の現実を十分に実感させてくれるので、少し考えさせられる。

出入り口に引き返すと、とても眩しく感じる。なお、この象山地下壕の近くに舞鶴山地下壕と皆神山地下壕と呼ばれるふたつの巨大壕もあり、これらの三つで松代地下壕(当時は、松代倉庫の名称)になる。実は、舞鶴山地下壕の方が中心地であり、現在、気象庁の精密地震観測室が置かれている。松代駅からこの象山地下壕までが、最も一般的な松代歴史名所観光コースになっている。

時刻は14時45分を過ぎた所である。昼食後から2時間が経過している。陽が傾き始めたが、まだ明るいので、町の中央部も見てみよう。象山神社の近くまで、引き返えす。山際に近いこの付近は、住宅も少なく、長閑な感じになっている。東を見ると、尼厳山(かざりやま・標高781m)や奇妙山(1,100m)の紅葉が綺麗である。ちなみに、標高は約360mあり、緩やかな傾斜の扇状地中段の場所になる。


(尼厳山と奇妙山の紅葉。)

象山記念館前を通り、四つ角がずれている城下町らしい道をジグザクに歩いて行く。町の中央部の国道403号線の南、松代文化ホールの西には、旧横田家住宅【黄色マーカー】があるので、見学してみよう(国指定重要文化財、入場料大人200円、9時-16時30分、年末年始は休み、撮影可)。


(旧横田家住宅。)

江戸時代末期の松代藩中級武士の典型的な武家屋敷は、大規模に補修もされ、保存状態が良い。主屋の南には、大きな菜園と庭園があり、ほぼ完璧な状態の屋敷全体が残っていて、約1,000坪の敷地に大小の土蔵二棟を含む、計五棟が建てられている。また、主屋の部屋は華美を廃した質素な和室であり、茶の間には天井が無く、藁葺き屋根の裏まで、吹き抜けになっているのが特徴になっている。


(玄関。)

(南側の庭園からの主屋。)

(主屋の部屋。)

横田家は、群奉行(こおりぶぎょう/代官を統括する民政の上級職)等として、幕末まで藩に仕え、禄高は150石(こく/現在の貨幣価値で、約900万円)であった。また、明治から昭和にかけての地元名家でもあり、日本初の民間蒸気製糸工場(※1)の設立、戦前と戦後に二人の最高裁判所長官(戦前の名称は、大審院長)を輩出している。更に、大正13年(1924年)に、横田謙次郎(※2)が鉄道大臣になっている。

長い道のりを歩いて来たので、座敷で足を伸ばさせて貰い、少し休ませて貰おう。時折、通り抜ける風に紅葉が煽られ、はらはらと落ちて行き、とても日本的な美しい情緒にうっとりする。この庭園は、泉水を引いた小池を配し、遠景の山々を取り入れたと言われている。


(座敷からの庭園の眺め。)

(紅葉も見事である。)

(大きな庭木が多く、長い年月を感じさせる。)

(つづく)


(※1 日本初の民間蒸気製糸場)
この松代町に六工社を設立し、官営富岡製糸工場から帰って来た横田英(和田英)が、製糸技術を伝授した。以来、松代では、製糸業が大変盛んになった。
(※2 横田謙次郎)
小松家に養子に行ったので、小松謙二郎となった。大臣就任時は小松姓。

[真田氏棟梁の系図]
祖は、真田幸隆(ゆきたか)と言われる。上田市真田町が発祥の地。松代藩は十代続いた。

幸綱(ゆきつな・松尾城主)
昌幸(まさゆき・上田城主)
信之(のぶゆき・松代藩初代)
信政(のぶまさ・二代藩主)
幸道(ゆきみち・三代藩主)
信弘(のぶひろ・四代藩主)
信安(のぶやす・五代藩主)
幸弘(ゆきひろ・六代藩主)
幸専(ゆきたか・七代藩主)
幸貫(ゆきつら・八代藩主)
幸教(ゆきのり・九代藩主)
幸民(ゆきとも・十代藩主)

文化財管理者の長野市教育委員会文化財課より、写真掲載承諾済み。

【歴史参考資料】
現地観光案内板、長野市教育委員会文化財PDF資料。

2019年9月21日 ブログから転載・文章修正・校正。

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