わ鐵線紀行(25)大間々観光 その1

大間々の町中を観光しよう。駅構内の観光駐車場に駐めた自家用車に一度戻り、再支度をし、出発する。

桐生市の北西約5.5kmにある大間々町は、渡良瀬川西岸の人口約2万人の町である。古くは、日光への回廊の玄関口、農産物や繭(まゆ)、絹織物の集散地として市場が立ち、江戸時代以降は、足尾方面への玄関口・銅街道の宿場町としても栄えた。山際のローカルな町であるが、住宅も多く、役場、銀行や商店も集まっている。また、わたらせ渓谷鐡道大間々駅と上毛電気鉄道赤城駅(あかぎ-)のふたつの駅を擁している。


(国土地理院国土電子Web・大間々駅周辺。)

なお、大間々の「間々」は河岸段丘を指し、大きな間々こと、「大きな河岸段丘」が地名の由来になっている。駅周辺は、標高約180mの扇状地になっており、巨大な河岸段丘が国道の西側に、扇状地を掘る様な高津戸峡が町の東端にある。

先ずは、駅北側の踏切を東に渡り、地元大社の神明宮(じんめいぐう)【鳥居マーカー】に行ってみよう。大間々は、沿道や公園に桜が多く植えられており、花見の名所にもなっている。


(駅東側の県道沿いの桜並木。)

県道踏切を渡ると、カーブの左手先に鳥居と社殿が見える。神社前には、大きな市営無料観光駐車場もあり、わたらせ渓谷鐡道訪問時も利用出来る。


(大間々神明宮。)

駐車場の奥の木立の中に、南西に面し、社殿が鎮座している。伝統的な神社建築の神明造り(しんめいづくり)の社殿は、真新しい感じである。近年、神社周辺は整備され、明るい雰囲気になっている。
マピオン電子地図・大間々神明宮


(神明宮社殿。)

この神明宮は、大間々周辺の一町十八村の総鎮守として、地元の厚い信仰を集めていると言う。伊勢神宮の流れを汲み、天照大御神(あまてらすおおみかみ/神宮内宮と同じ)と豊受大御神(とようけのおおみかみ/神宮外宮と同じ)を祀り、内宮と外宮を別々に設けている。境内には、境内社、末社や古い石祠も多数あり、森の中に佇む様は風情がある。

参道から一段上がった内垣の中に内宮が鎮座し、主祭神の天照大御神が祀られている。ちなみに、女神である。内宮手前の狛犬は、昭和10年(1935年)のものである。


(内宮。戦前までは、郷社格であった。)

内宮の右手奥に外宮が鎮座し、天照大御神に食べ物を供する御饌都神(みけつかみ※)の豊受大御神が祀られている。一応、女神になっているが、屋根上の鰹木が奇数になっており、男神を表している。


(外宮。)

由縁は、南北朝時代の貞和3年(1347年)に、現在地より100m程東の渡良瀬川の岩上に創祀され、後の慶長4年(1599年)に、現在地に遷座した。明治12年(1879年)までは、伊勢神宮と同様に21年毎に式年遷宮(※)をしていた。なお、昔は、規模がもっと大きかったらしいが、明治中期に二度の大火に会い、その後は、経済的な理由により、規模が縮小されていた。現在の社殿(内宮)は、平成12年(2000年)に遷座650年記念として、国産桧造りで建て直されたと言う。

内宮の並びには、境内社の八坂神社(天王様)も、祀られている。京都八坂神社(祇園社)の分祀社になっており、江戸時代後期・寛政期の建築らしい。元々、この大間々が市場町である事から、商売の神様・絹市の神様として祀られている。祗園祭の神社であり、大間々町でも、毎年8月1日から3日間、盛大に執り行われている。


(八坂神社。境内社としては、大きな社殿である。)

社殿の後ろには、「神明の森」と呼ばれる森の散策路があり、木立の中に石祠が祀られている。初めて、天照大御神を祀っていたと伝わる石祠や、愛宕神社、八幡神社等が祀られている。自然と織りなす素朴な雰囲気は、日本古来の信仰を感じさせる。


(神明の森。)

(御隠居様。貞和3年(1347年)に、天照大御神を初めて祀った石祠。)

(八幡神社。子育て・健康・学業成就の神様。狛犬は昭和7年(1932年)のもの。)

神明社の参拝を済ませ、渡良瀬川の方に行ってみよう。線路伝いに北に歩いて行くと、途中に、はね瀧道了尊【お祈りマーカー】がある。
マピオン電子地図・はね瀧道了尊

諸願成就や子育ての仏様として、地元の信仰を集めている道了尊である。江戸時代中期の宝暦2年(1752年)に、神奈川県足柄(あしがら)の大雄山最乗寺から、迎えられたと伝えられている。
大雄山最乗寺公式HP


(はね瀧道了尊。)

江戸時代から地元庶民の信仰を集め、この付近には、「滝の湯」と呼ばれる湯屋(銭湯)や茶屋が立ち並び、毎月末の縁日には、大変賑わったと言う。元々は、この場所から、100m北側の渡良瀬川沿いの斜面にあったが、昭和22年(1947年)のキャサリン台風の大水害により、全て流されてしまった。その後の再建も難しかった事から、次第に信仰も薄れてしまっていたが、地元の熱意により、平成15年(2003年)に現在地に再建された。


(本堂。)

御本尊は鳥天狗の姿をしており、火焔を背負い、右手に捻り木、左手に縄を持ち、白狐に乗っている。悪鬼を懲らしめ、疾風より速く走る為である。なお、インド由来の仏ではなく、最乗寺を開基した高僧・了庵慧明(りょうあんえみょう)の弟子の僧と言われ、師の没後に寺の守護と庶民救済を誓い、天狗になったと伝えられている。江戸時代は、諸願成就の仏様として、庶民信仰が盛んであった。


(道了尊像。)

御本尊前には、大きな捻り木が奉納されている。なお、願い事のある者は、御堂横の奉納してある捻り木を一本持ち帰り、朝夕に祈願をする。大願成就した暁には、二本にし、御礼参りする習わしになっている。


(奉納された捻り木。)

境内には、不動明王も祀られており、岩の御堂が面白い。


(不動明王。)

少し先に、渡良瀬川に架かる「はねたき橋」【緑色マーカー】がある。全長120m、全幅3.5mの大きな三角柱で支えている歩行者専用吊り橋である。水が跳ねる様子が、滝に様に見える事から命名されており、案内板の漢字を見ると、その意味通りに感じる。
マピオン電子地図・はねたき橋


(はねたき橋。)

(漢字も跳ねている感じである。)

実は、高所が苦手な為、恐る恐る歩く。橋の床面や欄干には、100枚以上の絵タイルが嵌めこまれており、中央部に展望デッキとベンチが据え付けられ、絶景を眺める事が出来る。


(はねたき橋の中央部ベンチ。)

橋の上流側には、高津戸ダムがある。群馬県が所有管理する発電用ダムになっており、上流の草木ダムからも、送水されている。昭和48年(1973年)竣工、高さは29m、長さは92m、発電量5,300kW(最大時)の重力式コンクリートダムになっている。

町中心部にあるダムも珍しく、本体の殆どが洪水吐(ゲート)になっている為、大きな口が並んでいる様に見える。下流は直ぐに渓谷になり、ほぼ直角に川が曲がっている。


(高津戸ダム。)

橋の下は、高津戸渓谷になっており、大間々は川に面すると言っても、かなり低い位置にある。下方左岸の河原には、遊歩道があり、河底の窪みに石が落ち込み、水流により、回転して削られて出来たポットホールが見られる(荒天や増水時は見学不可)。なお、この高津戸は、わたらせ渓谷鐡道の車両愛称にも、採用されている。


(高津戸渓谷。はねたき橋からの高さは、40m位もある。)

橋を渡った先の要害山(ようがいやま)には、高津戸城があった。平安時代末期の寛治2年(1088年)に、土着武士の山田氏が築城した山城であるが、天守閣は無かったと言われている。室町時代前期の観応2年(1351年)に、桐生城の桐生氏によって落城となった後は、桐生城を守る出城であったらしい。関ヶ原の戦いの頃に廃城になり、現在は、公園と要害神社が建っている。
マピオン電子地図・みどり市大間々要害神社


(高津戸の要害山。)

また、要害山には、こんな伝説も伝えられている。関が原の戦い直前の天正6年(1578年)、上杉謙信の支援を受け里見兄弟が、父を殺した高津戸城主・石原石見守の仇討ちを果たそうとした。しかし、石原石見守側の太田金山城・由利氏の大軍の返り討ちにあい、壮絶な最後を迎えたと言う。麓の阿弥陀堂には、兄弟のものと伝えられる墓が残っている。なお、戦国時代の両毛エリアは、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、相模の北条氏が覇権を争い、地元の小さな武士団はそれに巻き込まれていった。歴史の大きな流れを感じる所である。

(つづく)


(※御饌/みけ)
神に供される食物。
(※式年遷宮/しきねんせんぐう)
正宮の建物や調度品を新調し、御神体を遷す、最も大きな祭事。

【歴史参考資料】
現地観光案内板・解説板
みどり市公式HP「歴史・文化財」

2017年8月13日 ブログから保存・文章修正・校正
2017年8月13日 文章修正・音声自動読み上げ校正

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