天浜線紀行(29)気賀駅 後編

スロープを降りて、駅舎の中を見てみよう。構内西寄りの北側に建っており、赤い洋風瓦と上部モルタル塗りは、西気賀駅と良く似た外観である。しかし、下部は木板ではなく、タイル貼りであるのが特徴になっている。


(構内踏切からの駅舎。)

トタンの出庇も状態が良く、姫街道の円形の観光看板が壁面に掲示されている。改札前には、春の花いっぱいの大花壇があり、手入れも行き届き、見事な咲きっぷりである。なんだか、駅も明るくなる。


(ロマンチック姫街道の観光看板。かつては、関所も置かれていた。)


(駅舎前の大花壇。線路があったスペースを利用している。)

傷みは激しいが、開業当時の木製ラッチ(改札)がそのまま残る。改札口の建物の断面も、タイル貼りになっている。


(開業当時の改札口。)

改札口を通ると、30畳程の待合室は、天竜二俣駅並の大きさがある。天浜線内でも最大級になり、かつて、列車が発着する度に大勢の人や荷で混み合った光景が浮かぶ様である。また、市松模様合板の高い天井、コンクリート打ち放しの床、大きな二段窓等は、天浜線西側の元・二俣西線の駅に共通する仕様になっている。


(待合室。)

(西側の新所原方に据え付けのロングベンチがある。)

薄暗く、少しひんやりと感じる待合室の一番西側の窓沿いには、木造ロングベンチが据え付けられている。また、古い木製ベンチや国鉄風カラーベンチも置かれており、中央に置かれたベンチはかなり草臥れ、背もたれや肘掛けも壊れているが、年期を感じさせる良い味を出している。しかし、かなり傷みが激しく、シロアリの被害も見受けられる。


(木造ベンチと国鉄風カラーベンチ。※薄暗い為、露出をオーバー気味に調整済み。)

改札横には、出っ張った出札口も残っている。第三セクター転換後も、暫く有人駅であったが、平成21年(2009年)に無人駅化された。テーブルには、駅スタンプも置いてあるので、押しておこう。並びの鉄道手小荷物窓口は、閉鎖改装されているが、手前のテーブルが残っている。


(出札口周辺。)

(鉄道手小荷物窓口跡。)

ラッチからは、真っ直ぐに構内踏切が続いている。自転車、犬の散歩や地元の人達が、踏切の代わりとして、頻繁に通って往く。


(改札口からの構内踏切。)

駅前に出てみよう。車寄せまで母屋の屋根が降りる、寄棟風の大型木造駅舎である。また、ガマ口の様な開放感がある大きな出入口も、この駅の特徴になっている。出入り口はタイル装飾の洋風造りで、駅名標はアールの付いた一枚のプレートになっており、国鉄時代から変わっていないとの事。勿論、開業当時の建築で、国登録有形文化財に指定されている。東側は改装され、テナントのラーメン屋が入っている。


(駅前からの駅舎全景。)

(洋風の駅出入口。)

この駅の待合室の窓は、大変グラッシーな造りになっている。南・西・北の三方に大きな窓を設け、間隔の狭い、連続した大窓風になっている。また、駅前側の出入口には、西気賀駅よりも1枚多い、5枚ガラスの吊り戸が備え付けてある。


(新所原方の大型縦二段窓。)

◆国登録有形文化財リスト「天竜浜名湖鉄道気賀駅本屋」◆

所在地 静岡県浜松市北区細江町気賀字上堀合427-1
登録日 平成23年(2011年)1月26日
登録番号 22-0149
年代 昭和13年(1938年)3月建築、
昭和45年(1970年)と昭和62年(1987年)に改修。
構造形式 木造平屋建、瓦葺一部鉄板葺、建築面積183㎡
特記 木造平屋建、建築面積183㎡、北面して建つ。
東西に落棟を設ける寄棟造瓦葺とし、背面に鉄板葺の下屋を付ける。
外壁はモルタル塗、基礎タイル貼とし、
緩い勾配の屋根と一体で穏やかな外観をつくる。

※文化庁公式HPから抜粋、編集。

広い駅前は、人や車の往来も多く、他の天浜線の駅よりも活気がある。駅前から延びる道路は、長さ約210mの日本一短い県道との事。その先の終点の交差点は、元・姫街道の国道362号線に接続している。また、正面の山上にある建物は、宿泊施設の国民宿舎奥浜名湖で、引佐細江を一望出来る大展望風呂(人工温泉)が名物という。日帰り入浴も可能なので、時間があれば、旅のひとっ風呂もしてみたい。


(気賀駅前と日本最短県道の県道306号線。)

この気賀について、紹介しておこう。元は、静岡県引佐郡細江町(いなさぐんほそえまち)になり、平成17年(2005年)7月に浜松市と市町村合併した。引佐細江に注ぐ都田川と井伊谷川(いいのやがわ)が合流する右岸の平地に発達した町で、縄文時代からの遺跡、古墳や古刹も多い歴史の町でもある。また、東海道脇街道の姫街道(別称・本坂通り)の最大の宿場町として栄え、今も、奥浜名湖エリアの中心地になっている。平成23年4月現在の駅周辺の人口は、約3,100世帯・9,500人との事。

戦国時代には、徳川家と今川家、後は武田家との激しい攻防の舞台にもなった。気賀周辺の豪族や村人達は、駿河国領主の今川家を支持していた。勢いを増していた徳川家康の遠江進攻を防ぐ為、引佐細江の近くに半水城の堀川城を築き、籠城したという。しかし、永禄12年(1569年)3月、徳川家康軍3,000人の攻撃により落城。城中の反徳川派の豪族や村人達1,000人が討ち取られ、後日、700人余りの関係者が全員処刑されてしまった。当時の気賀周辺の人口約3,000人の半数以上が犠牲になり、熾烈であったと伝えられている。気賀一揆と呼ばれ、犠牲者の慰霊塔も町内に多数残っているという。

(つづく)


2022年2月22日 ブログから転載・文章修正・校正。

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