流山線&竜ヶ崎線紀行(14・竜ヶ崎線編)龍ケ崎散策 前編

関東鉄道竜ヶ崎線の乗車が終わったら、街中散策に出かけよう。現在の時刻は、まだ正午である。観光案内所が無いので、駅前にある大きな観光案内板を確認し、念のため、案内板の撮影もしておく。

龍ケ崎は、茨城県南東部の利根川中流域の大きな町である。関東最大の水面である霞ヶ浦に近く、利根川がもたらした肥沃な土壌と豊富な水利から、関東の米どころとして栄えた。鉄道開通以前、この稲敷エリアで作られた米や麦などは、霞ヶ浦・利根川・江戸川経由の高瀬舟で江戸に送られていた。稲作の他には、綿花栽培も農家の副業として、古くから盛んであったが、後に輸出向け高換金商品である生糸(きいと/絹の原糸)に取って代わっている。また、江戸時代は東北の仙台藩の飛び地として、あの伊達政宗が直接治め、他の関東の町とは異なる歴史を持つ。一説によると、政宗の関東進出の野望を抑えるため、徳川家康が配慮したともいわれている。

水害の影響の少ない利根川北岸の微高地にあり、この付近の中心地として、資本、物資、人々が集まった。米や肥料の流通は特に多く、米穀商や肥料商を中心に酒造業、砂糖商、醤油商、材木商などによって、龍ケ崎財閥を形成したという。明治維新以降は、豊潤な町の財力から農商銀行や製糸工場も置かれた。龍崎鉄道(現在の関東鉄道竜ヶ崎線)の設立も、この財閥力によるともいえる。また、地方のひと町としては非常に大きいが、江戸に直接通じる主要街道が通らないのは、非常に珍しい。

町の人々は、新しもの好きで、受け入れやすい気質とのこと。あの政宗の気質の影響も、遠くあるのかもしれない。常磐線(開通当時は、日本鉄道土浦線)の誘致については、忌避伝説が地元でも一般的であるが、常磐線が日立への最短経路(※)を取ったことや霞ヶ浦の位置関係、大きな丘陵地帯を町の北に擁している地形的理由であろう。常磐線開通後、直ぐに龍崎鉄道を開通させたことからも、鉄道誘致の賛同は本当は多かったと思う。

駅は市街地の西端にあり、駅から真っ直ぐ東にメイン通りが延びている。江戸時代の龍ケ崎は仙台藩の直轄地であったので、街中の一段高い場所には陣屋【歴史的建造物マーカー】が置かれていた。室町時代から戦国時代までは、龍ケ崎氏が築いた龍ケ崎城もここに置かれていたが、これらは現存しておらず、今は県立高校が建っている。戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、現在の町並みが整えられ、東西に町が長いのは、かつてのこの一帯は湿地帯(沼地)であった名残である。なお、北にある丘陵には、新興住宅地が広がる新しい町が作られている。


(竜ヶ崎駅から東へ延びるメイン通り。)

駅から直ぐに出た所にある交差点の横にお堂があるので、行ってみよう。樹木が殆どなく、広い境内は殺風景であるが、大きな薬師堂が真ん中に建つ。龍ケ崎の東西の西固めとして建立され、本尊の薬師如来像は元々、新町の本願寺にあったという。伊達政宗が建てたと伝わる江戸時代初期の建築であり、早速、挨拶がてらの参拝となる。

また、三粒の米を麗水で含み、秘文を唱えると難病の娘が快癒した由縁から、「米薬師」と地元で親しまれている。毎年11月には、「いがっぺ市」と呼ばれる薬師市で賑わうとのこと。


(米薬師。薬師如来の別名から、瑠璃堂とも呼ばれている。※追加取材時に撮影。薬師堂境内の撮影は、以下同。)

階段を上がると、軒下に古い絵が二枚掲げられている。この米薬師に祈願している様子を描いたもので、和服を着ている点や奉納者の氏名に姓があり、女性の名前は全て二文字の平仮名であることから、明治から戦前のものと思われる。素朴な地元信仰の様子がよく判る。


(薬師堂の軒下の木絵その1。左の奉納年の部分が紛失している。)

(薬師堂の軒下の木絵その2。)

本堂前から少し離れた場所には、等身大の延命地蔵尊がポツンとあり、江戸時代中期の享保10年(1725年)の建立という。また、道路際に古い道祖神兼道標も建っている。


(本堂前の延命地蔵尊。)

駅前からのメイン通りを東に歩こう。二車線の通りであるが、道幅も広い。商店も連なり、他の地方ローカル町と同様に廃業している店が多いが、所々に懐かしい昭和な商店が営業しているのもいい。軒先をそっと覗きながら、歩いて行く。


(メイン通りを歩く。)

駅から600m、約10分歩くと、龍ケ崎の鎮守である上町八坂神社【神社マーカー】に到着。室町時代最末期、源頼朝の家臣・下河辺政義(しもこうべのまさよし/後の龍ケ崎氏)が領民を連れて、沼地であった龍ケ崎を干拓した際に分祀建立したと伝えられ、約800年の歴仕を持つ古社である。後の戦国時代末期の天正5年(1577年)に当地に遷宮したという。


(上町八坂神社。)

この神社の祇園祭で披露される国選択・県指定無形民俗文化財の「つくまい(撞舞)」が有名である。高さ14mの一本柱と綱を地面に渡し、その上で二人の男性が曲芸を披露する。龍ケ崎市公式マスコットキャラクター「まいりゅう」の奇抜な衣装は、この衣装からである。


(YouTube「茨城県公式チャンネル・いばキラTV【絶景茨城/国選択・県指定無形民俗文化財】撞舞」※再生時の音量注意。再生時間約4分。)

境内はこぢんまりとしているが、手入れが行き届いて、気持ちがいい。内鳥居前で参道が直角に曲がっており、真っ直ぐでないのが、郷社としては珍しいと思う。手水舎(ちょうずや)の蛇口も大きな龍頭であるのが、龍ケ崎のこだわりである。なお、地名の由来は読んだ字の如くで、「龍が立つ場所」の意味である。市章も龍が玉を掴む様子をあしらっており、町ぐるみの徹底したこだわり様である。


(大きな竜頭のある手水舎。)

(内鳥居前からの参道と拝殿。)

正面からは小さく見えるが、奥行きがあり、本殿は開放式の覆屋に覆われている。向拝下には極彩色の龍の彫刻も施された立派な造りで、しばし見入ってしまう。


(拝殿向拝下の龍の彫刻。彩色がされているのも、珍しい。)

(権現造りの社殿全景。拝殿と弊殿(へいでん/屋根の低い部分※)は修繕されている。奥の古い屋根の下に本殿がある。)

拝殿前の狛犬はとても愛嬌のある顔立ちをしており、全然怖くないのが面白い。何と、狛犬の雑誌に載ったことがあるとのこと。後ろに奉納されている絵馬もカラフルで、参拝記念にも良さそうである。時期柄、地元学生の合格祈願の絵馬も多い。


(拝殿前の狛犬。対になっている右側の狛犬と表情が違う。この左側の方が優しい顔をしている。)

(カラフルな絵馬が奉じられている。緒願成就・無病息災の絵馬は、関東三奇祭である撞舞を描く。)

神社の南隣には、大きな児童公園がある。日清戦争や日露戦争の戦没者の忍魂塔(慰霊塔)もあり、台座にある帝国陸軍の大きな星のマークが印象的で、明治時代の雰囲気をよく残している。


(明治期の忍魂塔。銃弾を模しているらしい。左隣は、陸軍乃木大将の功徳碑である。)

また、公園の南端には、レンガ造りの塀が残っている。大正時代、竜ヶ崎駅前に構えていた諸岡氏邸の門柱とのこと。諸岡氏は親子二代で、町医者、町長、龍ケ崎銀行頭取や龍崎鉄道社長などを歴任した名士であり、先ほどの薬師堂境内に顕彰碑も建立されている。

門柱の高さは3.8mもあり、塀は当初の全長35mのうち、1/3が保存されている。東京駅と同じレンガと工法を採用し、地方都市の建造物としても大きく、当時の最先端の建築物として、町民からも親しまれていたという。大きな功績から今も親しまれており、市民から募金を募り、龍ケ崎市と東日本鉄道文化財団の支援で移築されたという。国登録有形文化財にも指定されている。


(国登録有形文化財の諸岡邸レンガ門塀。)

上町八坂神社の参拝を終え、更に東に歩いて行こう。この通り沿いには、裁判所などの公官庁やNTT支店、銀行支店などが集まり、今は静かな町であるが、古くからの地域中心地としての格を感じる。しばらく歩くと、大きな古い商家が南に面して建っている。

この旧小野瀬住宅【赤色マーカー】は、明治から昭和にかけての典型的な龍ケ崎の商家住宅であり、現役店舗時代は食用菜種油・塩・肥料を扱っていた。通りに面した店舗は大正初期、奥にある母屋は明治初期の竣工とのこと。屋根の造形は軽めであるが、1尺2寸の大黒柱などを各所に使い、しっかりとした造りになっている。


(国登録有形文化財の旧小野瀬住宅。江戸時代中期の寛政年間創業と古く、当時は米や筆墨を扱う仙台藩御用達の豪商であった。現在、個人宅になっているため、内部見学は出来ないが、イベント時に開放されることがある。)

向かい側には、龍ケ崎の商工活動と観光情報発信拠点である、チャレンジ工房「どらすて」(龍ケ崎コロッケ会館)【黄色マーカー】がある。各種のイベント展示の他、龍ケ崎コロッケのアンテナショップが設けられている。試食をしようと思ったが、あいにく、閉店日であった。オリジナルの「まいんコロッケ」などが看板商品になっている。

更に東に歩いていくと、枡形【青色マーカー】が残っている。その角にも、立派な商家があり、店頭のステッカーなどを見ると、灯油などの燃料とたばこを扱っていたらしい。そして、第一の目的地である龍ケ崎観音【寺マーカー】に到着。駅から1,200m、途中の寄り道をしない場合は徒歩15分位である。正式には、東福山水天院竜泉寺という天台宗の寺院で、安産・子育て・厄除け・開運祈願が有名とのこと。


(龍ケ崎観音。街中にあるので、明るい雰囲気の寺院である。)

今から1200年前の平安時代初期、当時は難産の女性が多く、出産後に命を落とす場合も多かったという。淳和天皇(じゅんなてんのう※)はこれを憂い、弘法大師に安産観世音菩薩像を造る様に仰せられた。それを奉ると、都周辺の畿内の女性達は安産する様になった。当時の東国にはなく、日光を開山した勝道上人(しょうどうじょうにん)の高弟・蓮雪法印の懇願により、この地に菩薩を移して安置したのが寺の始まりという。

また、時代が下がっての戦国時代末期、龍ケ崎城主・土岐胤倫(ときたねとも)の娘・お福の方(虎姫)が難産の気があり、参拝祈願したところ、玉の様な男児を無事出産した。そのことから、更に信仰を集めたという。寺にある江戸時代の絵巻にも、大寺と門前町が描かれているので、たいそう賑わっていたらしい。今でも、安産後に名前を書いた袋にお米を入れ、お礼詣でをする習わしがあるという。


(本堂。本尊は聖観世音菩薩、寺の開祖も蓮雪法印である。現在の本堂は、昭和50年に再建されたもの。)

(本堂軒下の扁額と木絵。※ガラスで保護されているため、反射はご容赦願いたい。)

本堂内では、数人の檀家が訪れていて、祈願をしているらしいので、静かに参拝する。軒下には、参拝の様子を描いた明治と大正時代の木絵が掲げられている。また、安産祈願の寺院であるので、水子供養の地蔵や御堂もずらりと並ぶ。強い筑波おろしに煽られ、風車が勢いよく回っていた。水子堂もあり、水子というと、少し怖いイメージもあるが、亡き子を思う気持ちが伝わってくる。


(風車の回る水子地蔵。境内には、約200体あるといわれている。)

(水子堂。水子堂はふたつ並んであり、玩具やお菓子などが沢山供されていた。)

毎年7月10日には、ほおずき市も開かれ、多くの人々が訪れるという。この龍ケ崎観音から、もう少し東に歩いてみよう。

(つづく)


(※日立)
元々は鉱山町である。金・銀・銅を産する日立鉱山(主に銅)があり、その周辺の常盤炭田の石炭を東京に輸送するために常磐線が敷設された。新幹線などの鉄道車両も製造している日立製作所は、鉱山で使う機械の製造修理部門がルーツ。
(※弊殿/へいでん)
拝殿と本殿を繋ぐ寺社建築物。ここで祭祀を執り行う。
(※淳和天皇)
平安時代初期の第53代天皇。桓武天皇の第七王子にあたる。

【参考資料】
現地観光案内板・歴史解説板・観光客向け頒布パンフレット
関東鉄道七十年史(公式社史本/関東鉄道・1993年・龍ケ崎市立中央図書館所蔵)

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