流山線&竜ヶ崎線紀行(1)ふたつの町民鉄道

さて、冬の一番寒い時期であるが、観光客や同好の鉄道ファンが最も少なく、花粉や黄砂来襲前の空気が澄んだ冬晴れも続き、写真の写りも良い。意外にローカル線の旅に適した時期と思う。

今回は、東京から程近い、流鉄(りゅうてつ/旧社名・流山電鉄)流山線(ながれやません)と、関東鉄道竜ヶ崎線(りゅうがさきせん)に訪問してみよう。どちらも、首都圏と茨城方面を結ぶJR常磐線から、末枝の様に延びる路線キロの短い小さな民営鉄道である。お互いの起点駅の距離も、我孫子や取手を挟んで約26km(馬橋から佐貫間)と近く、軽便鉄道をスタートとする町民鉄道と言う共通点もあるので、初のブッキングスタイルでルポをしてみたい。このふたつの路線の似ている点、違う点、お互いの終着駅の町や名所・古刹も紹介したい。


(赤ラインは、流鉄流山線。青ラインは、関東鉄道竜ヶ崎線。)

先ずは、鉄道路線について紹介しよう。どちらも、JR常磐線の駅を起点とする非常に短距離な鉄道になっており、行き止まりの盲腸線になっている。また、河岸までの距離は違うが、終点の町が関東を流れる代表的な川沿いにあるのも共通で、流山線は利根川分水路である江戸川、竜ヶ崎線は利根川本流とその支流の小貝川に接している。

また、関東の大手民営鉄道の本線から分かれている枝線を除き、単独経営の本線としての路線キロ6km未満の鉄道として、関東エリアでは三本指に入る。ちょっとしたバス路線よりも、遥かに短いのである。

【関東エリアの短距離鉄道ランキング】

1位・芝山鉄道(2.2km)、2位・関東鉄道竜ヶ崎線(4.5km)、
3位・流鉄流山線(5.7km)、4位・銚子電気鉄道(6.7km)、
5位・伊豆箱根鉄道大雄山線(9.6km)、6位・江ノ島電鉄(10.0km)。

※大手民営鉄道の枝線と新都市交通・ケーブルカー等は除く。

1位の芝桜鉄道は、成田空港建設の地元補償路線として開業し、京成グループや都営地下鉄の電車が乗り入れている。他社からの直通乗り入れの無い、完全な単独運行としては、竜ヶ崎線と流山線がワン・ツーになる。なお、関東の大手民営鉄道の枝線も含めた場合、京王電鉄競馬場線の0.9km(途中駅なし)が最短だろう。

ここで、流山線と竜ヶ崎線の基本的な路線データを表に纏めてみた。

鉄道会社路線名 流鉄(旧社名・流山電鉄)流山線 関東鉄道竜ヶ崎線
起点 馬橋(JR常磐緩行線接続) 佐貫(JR常磐快速線接続)
終点 流山 竜ヶ崎
駅数 6駅(全駅有人駅) 3駅(途中駅のみ無人)
開業年月日 大正5年(1916年)3月14日 明治33年(1900年)8月14日
鉄道事業者 流鉄 関東鉄道
路線キロ 5.7km 4.5km
軌間 狭軌1,067mm(国鉄・JR在来線と同じ) 狭軌1,067mm(国鉄・JR在来線と同じ)
改軌前軌間 軽便762mm(大正13年12月まで) 軽便762mm(大正4年7月まで)
電化 全線直流電化・1,500V・空中架線方式 全線非電化(気動車運行)
閉塞方式 自動閉塞式 タブレット閉塞式(全区間一閉塞)
複線区間 なし なし
列車交換可能駅 1駅(小金城趾駅) なし
車両区配置駅 流山 竜ヶ崎
運用車両数 2両編成5本、計10両 3両(単行可能)
IC乗車券対応 不可 可(但し、SuicaとPASMO以外は不可)
年間乗車客数 約280万人 約90万人

路線キロは1.2kmしか変わらないが、駅数は倍も違い、流山線の方が駅間距離は短くなっている。これは流山線の方が東京に近く、人口密度の高いエリア走っている為である。実際に乗車して見ると、普通の鉄道と言うよりは、路面電車やバスの利用感覚に近い。一方、竜ヶ崎線は中間駅が路線の真ん中にあるので、上り下り方共に2km以上あり、普通の地方ローカル線の感覚がある。

また、両線とも東京に近く、共に開業から100年を超える古い路線になっている。常磐線の開通以前より、流山も龍ケ崎(※)も大きな町であったが、常磐線の乗り入れを町ぐるみで反対した為、常磐線が経由しなかった。当時の常磐線は、茨城県日立市の金銀銅鉄を産出する日立鉱山や常磐炭田の鉱石を東京に輸送する必要から、最短での鉄道敷設を急いでいた事もある。結局、このふたつの町をパスしてしまったが、鉄道開通による常磐線沿線の急速な発展を目にすると、両町の人々は大きな危機感を感じて、方針を転換し、常磐線との連絡鉄道を建設する事になったのである。なお、同様の例は、流山近隣の野田も同じで、千葉県営鉄道(現・東武鉄道野田線)が敷設されており、当時の地域交通や経済を激変させる、鉄道開通のインパクトの大きさが判る。また、当時の鉄道は、旅客よりも貨物の輸送が多い「主貨従客」が一般的であったが、両線共に旅客が大部分を占める「主客従貨」であったのも、他の地方ローカル線と異なる特徴であった。

ここからは、個別に鉄道の歴史に触れたいと思う。

◆流鉄流山線◆

JR常磐線緩行線(各駅停車)の馬橋(まばし)駅を起点とする流鉄流山線は、そのまま北上をして、江戸川河畔の流山駅まで結んでいる。なお、北隣の新松戸駅の方が、馬橋駅よりも大きく栄えているが、昭和48年(1973年)のJR武蔵野線開業時の新設駅である。

江戸時代から醤油と味醂の町として発達した流山は、江戸川を利用した舟運も大変栄えた為、仕事を奪われると危機を感じた舟運会社が、町への鉄道開通に激しく反対した。舟運から鉄道に醤油や味醂の輸送が代われば、出荷の効率も良くなるが、地元醸造会社は多額の造船資金を舟運会社に貸していた為、返済不履行を恐れ、反対運動に同調したのである。しかし、常磐線が開通し、その速達性や定時性が明らかになると、舟運は徐々に廃れていった。流山から東京両国まで出る場合、船は数時間もかかる。一方、鉄道は松戸駅まで歩く必要があるが、乗車時間は約50分で、勝負にならなかったのである。また、天候により、船は1〜2時間遅れる事はざらであったが、鉄道は余程でなければ、遅れなかった。

流山の町民達も、船を次第に使わない様になり、松戸駅へ2時間も歩いて、鉄道を利用した。後に、徒歩1時間半の馬橋駅と1時間の北小金駅が開業した時には、大いに喜んだと言う。そして、常磐線との連絡鉄道を敷く町全体の機運が上がり、大正2年(1913年)11月7日、流山町民の100人以上の出資で流山軽便鉄道を設立。3年後の大正5年(1916年)3月14日、蒸気軽便鉄道として、馬橋から流山間が全線開通した。明治29年(1896年)の常磐線開通から、20年も経過していた。

開業後、町民の支持と大きな期待もあり、好調に乗客・貨物共に増加。大正12年(1923年)には、流山に帝国陸軍の兵馬の食料倉庫も出来、その軍需輸送が始まったのも大きく、戦時中も右肩上がりで輸送量が増加し、昭和20年(1945年)には、乗車客数100万人に達している。また、大正13年(1924年)12月には、国鉄との貨物直通化と将来を見越して、国鉄と同じ狭軌1,067mmに改軌し、標準鉄道にグレードアップした。


(昭和8年から昭和24年まで使われた流山鉄道ガソリン気動車キハ31。戦況悪化の為、ガソリンが入手困難になり、木炭や薪を燃料とした代燃車に改造された。電化後はエンジンを下ろし、電車牽引の客車として活躍。流山総合運動公園の森の中にひっそりと静態保存されている。)

戦後になると、常磐線が昭和24年(1949年)に取手まで電化し、乗客が更に増えて、輸送力を増強する必要性が高まった。その為、石油や石炭の化石燃料よりも、入手がしやすかった電気動力を採用し、蒸気鉄道から電気鉄道へ転換。国鉄から電車の払い下げを受け、電力も融通して貰ったので、建設費の掛かる変電所を持たなくて良い利点もあった。

高度成長期以降は、流山周辺のベッドタウン化が長年に渡って進み、昭和49年(1974年)に年間400万人台に乗り、平成5年(1993年)は過去最高の610万人を記録した。路線キロ5.7kmの鉄道としては、驚異的な乗客数で、朝は国電並みのラッシュであったと言う。

平成5年(1993年)以降は、利用客数が徐々に減少し、平成17年(2005年)のつくばエクスプレスの開業により、大幅に減少。現在は、約280万人と、最盛期の半分程度になっている。しかし、今でも、流山市民の足代わりの鉄道として、よく親しまれている。また、平成20年(2008年)には、大株主であった総武都市開発が事実上倒産した為、総武流山電鉄から、略称であった流鉄に社名変更した。略称を正式社名にするのは、大変珍しい。現在、駅は全駅有人であるが、列車はワンマン運転を実施している。


(小金城趾駅での列車交換風景。左の川は、江戸川支流の新坂川。坂川本流から分かれた分水路らしい。)

【流鉄の略史】

明治29年(1896年)12月 日本鉄道(現・JR常磐線)の南千住から土浦間が開業。
大正2年(1913年)11月 流山軽便鉄道設立。
大正5年(1916年)3月 馬橋から流山間の全線開業。
大正11年(1922年)11月 流山鉄道に改称。
大正13年(1924年)12月 狭軌1,067mmに改軌。
昭和8年(1933年)4月 キハ31ガソリンカー導入。
昭和24年(1949年)12月 直流1,500Vに電化。
昭和26年(1951年)11月 流山電気鉄道に改称。
昭和42年(1967年)7月 タブレット閉塞による、列車交換を開始。
昭和46年(1971年)1月 総武流山電鉄に改称。
昭和52年(1977年)3月 貨物取り扱い廃止。
昭和57年(1982年)1月 タブレット閉塞廃止、単線自動閉塞式に変更。
平成2年(1990年)2月 初の自社変電所を新設。
平成20年(2008年)8月 流鉄に社名改称。
平成22年(2010年)1月 全列車ワンマン化。

◆関東鉄道竜ヶ崎線◆

関東鉄道竜ヶ崎線は、取手駅からふたつ先のJR常磐線佐貫(さぬき)駅から、南東に真っ直ぐ、終点の竜ヶ崎駅に向かっている。利根川本流左岸の稲敷台地南際の微高地にある龍ケ崎は、東北仙台藩の江戸飛び地であった町である。その江戸屋敷への食料を供給する役割もあり、肥沃な利根川と小貝川流域の米作りも盛んで、綿織物産業(後に、養蚕業に移行)や商業が発達した中心地であった。しかし、町は鉄道の開通に反対した為、流山と同様に、この町をパスしてしまった。

龍ケ崎の町の人々も、常磐線の開通直後、その先進性と必要性に気が付いた。大きな違いは、流鉄の様に20年の歳月がかからず、僅か4年後に開通している点である。これは、真っ向なライバルとなる水運業者の反対が強くなく、当初は反対していたが、元々、新しいものを受け入れやすい風土であると言われていた龍ケ崎の気風もあるのだろう。

そこで、町の有力米穀商を中心とした81人の株主達が、常磐線への連絡鉄道建設へ動き出したのである。当初は、藤代駅起点の馬車軽便鉄道(軌間758mm)を計画したが、群馬県西部の上野鉄道(こうずけ/現・上信電鉄)や東京西部の青梅鉄道(現・JR青梅線)を視察して、重役達の考えが変わり、佐貫駅起点の軌間762mm(※)の蒸気軽便鉄道に計画を変更した。なお、藤代駅は当時開業していたが、佐貫駅は開業しおらず、新駅を設置する様に日本鉄道に働きかけている。

明治33年(1900年)8月14日、蒸気軽便鉄道の龍崎鉄道(※)として、佐貫・南中島・門倉・龍ケ崎の四駅で開業。同時に、日本鉄道と連絡し、起点駅となる佐貫駅も開業している。当時でも、規模や資本共に、全国で最も小さな民営鉄道で、茨城県下で初の民営鉄道でもあった。なお、現在唯一の途中駅である入地(いれじ)駅が開業時に含まれていないが、翌年の1月1日に追加開業した駅になっている(※)。

開業の翌年、あまりにも路線が短いので、経営の安定化と効率化の為、東京への大きな川湊がある稲敷郡柴崎村伊佐津(いさつ/現・稲敷市伊佐津)まで、14kmを延伸する計画が持ち上がり、明治35年(1902年)10月に免許が下りた。しかし、日露戦争開戦(明治37年/1904年)と経済混乱、米の大凶作により、頓挫してしまう。結局、佐貫から竜ヶ崎間の4.5kmのみで営業せざるを得なくなり、1日平均乗客数は約200人、貨物8トン程度(明治39年頃)と経営が苦しかったが、徐々に旅客が増え、明治42年(1909年)頃から、貨物量が激増した。そこで、設備車両の老朽化や佐貫駅での貨物積み替え解消と直通化の為、大正4年(1915年)7月に国鉄と同じ狭軌1,067mmに改軌。改軌後は、旅客・貨物も共に更に増え、大正9年(1920年)には、初の株式配当を行える様になった。


(龍崎鉄道4号蒸気機関車。大正14年に川崎造船所兵庫工場が製造した国産C型タンク式蒸気機関車である。昭和40年まで活躍した。龍ケ崎市歴史民俗資料館の一角に静態保存されている。)

大正末期には、財務状況も大幅に改善し、戦前の絶頂期を迎えている。また、昭和初めの恐慌や戦時下でも、龍ケ崎に兵器工場ができたり、農産物増産政策の影響で右上がりの伸びを示した。町も大きくなり、昭和18年(1943年)には、年間乗客数100万人を超えたと言う。しかし、終戦間際の昭和19年(1944年)、国の戦時統制の為に鹿島参宮鉄道に経営譲渡し、龍崎鉄道は解散になった。


(昭和の雰囲気を残す竜ヶ崎駅と車両区。丁度、駅が街の玄関口の様になっており、後ろに市街地が広がっている。)

そのまま、戦後の鹿島参宮鉄道竜ヶ崎線時代も復興需要が好調で、昭和35年(1960年)には、年間乗客数179万人、貨物3.2万トンにも及び、鉾田(ほこた)線から車両を移籍して対応した。この頃は、江戸崎方面からバスを乗り継いだ通勤客が増え、朝は激しいラッシュとなり、昭和40年(1965年)には、京成グループが資本参加。そのグループであった常総筑波鉄道と対等合併して、北関東の大鉄道会社・関東鉄道竜ヶ崎線になった。また、同年には、過去最高の年間273万人になり、定期利用者が80%を超える程であった。翌年以降からは減少傾向となり、マイカー普及と共に利用客は激減し、今は最盛期の1/3になっている。

現在も、関東鉄道として、開業当時のままの路線で営業している。龍ケ崎は東京から50km圏内にある事から、新興住宅地開発が盛んで、大学も進出している。龍ケ崎から東京方面に通勤通学をする人々も大変多い。

【関東鉄道竜ヶ崎線の略史】

明治29年(1896年)12月 日本鉄道(後に国有化、現・JR常磐線)南千住〜土浦間開業。
明治32年(1899年)4月 龍崎鉄道株式会社を設立。
明治33年(1900年)8月、蒸気軽便鉄道(軌間762mm)の龍崎鉄道として開業。
大正4年(1915年)7月 狭軌1,067mmに改軌。
昭和2年(1927年)9月 ガソリンカー導入。
昭和19年(1944年)5月 国の戦時統制政策のため、鹿島参宮鉄道に譲渡解散。
昭和38年(1963年) 旅客無煙化(貨物牽引の蒸気機関車は昭和40年まで)。
昭和40年(1965年)6月 鹿島参宮鉄道と常総筑波鉄道が合併。関東鉄道竜ヶ崎線になる。
昭和46年(1971年)3月 貨物取り扱い廃止。
昭和46年(1971年)8月 日本初のワンマン運転化。

(つづく)


(※軌間・狭軌/きかん・きょうき)
二本のレールの幅を軌間(=軌道の間隔)と言う。端数があるのは、鉄道導入のお手本としたイギリスのヤード・ポンド法の影響である。国鉄やJR在来線等の1,067mmは、3フィート6インチになり、通称・サブロクと言われる。蒸気軽便鉄道に採用された762mmは、2フィート6インチで、丁度、1フィート差になる。より簡易な軽便線や森林鉄道では、2フィート=600mmを採用した例もある。なお、線路や駅間の距離も、ヤード・ポンド法のマイル・チェーン単位を使っていた。
(※地名について)
地名と市名は「龍ケ崎」で、旧漢字と「ケ」が大きい。鉄道名と駅名は「竜ヶ崎」で、新漢字と「ヶ」が小さい。
(※龍崎鉄道について)
開業当時の龍崎鉄道の社名には、「ケ」がない。
(※竜ヶ崎線の途中駅について)
途中駅の全てが、戦時中の昭和19年(1944年)に休止。入地駅は復活(時期不明)したが、南中島と門倉駅は、そのまま廃止されている。

【参考資料】
総武流山電鉄の話 -町民鉄道の60年-(北野道彦・崙書房・1978年)
関東鉄道七十年史(関東鉄道・1993年/公式社史本)
RMライブラリー 関東鉄道竜ヶ崎線〈上〉(白土貞夫・ネコパブリッシング・2013年)

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