流山線&竜ヶ崎線紀行(2・流山線編)幸谷駅

流鉄流山線は東京都心から至近の鉄道路線で、所要時間も大してかからないが、ここは乗り鉄の掟で早朝出発である。まずは、北への玄関である上野駅に向い、JR常磐線に乗車する。上野から取手までは、主要駅にのみに停まる快速電車と各駅に停まる緩行電車が並走している。なお、緩行電車は東京メトロ千代田線・綾瀬(あやせ)駅からの相互乗り入れなので、上野から乗車する場合、全て快速電車になる。流山線起点の馬橋(まばし)駅に停まらないため、ひとつ先の新松戸駅で下車した。


(JR新松戸駅。高架下に駅があるので、やや暗い感じがする。JR常磐線とJR武蔵野線の乗り換え駅であるが、管理上は常磐線の駅になる。※追加取材時に撮影。)

この新松戸駅では、JR線と流鉄流山線は同じ駅でないが、改札を出て少し歩くと、流鉄の幸谷(こうや)駅に連絡できる。時計を見ると、朝の7時。まだ、撮影するに太陽光が黄みがかっているので、駅前のマクドナルドで時間調節をしよう。朝食も取るため、エッグマフィンバリューセット(税込450円)を頼み、暖かいコーヒも頂く。冷えた体も暖かくなってきた。

二階の広いラウンジで朝食を取った後、今日の大まかなスケジュールを考える。この後、8時にスタート、午前中は各駅訪問と車窓観察(乗り鉄)、午後は終点の流山散策、16時位に帰るとしよう。真冬なので、日も短いためである。なお、今日の天気予報は快晴、風は無し、朝の気温は4度、日中の最高気温は14度で、気持ちのいい冬日になりそうである。

時刻は8時前。早朝の閑散としたマクドナルドで腹ごしらえと暖を十分とったら、出発である。JR新松戸駅は、昭和48年(1973年)の武蔵野線開業時の新設駅で、常磐線と流鉄流山線の三線の乗り換え駅になっており、乗降客は大変多い。駅前も幾分新しい感じがし、飲食店や商店などが雑多に集まっている。

武蔵野線は常磐線の上を直角にオーバークロスし、常磐線ホームの下に改札口がある。改札口を出ると、武蔵野線高架下に名物の鳥居風ゲート続き、この先の横断歩道を渡ると幸谷駅があるが、ここからは見えない。ロッテリアと洋菓子店兼喫茶店の間の湿った路地に入ると、小さな駅看板が出ている。


(鳥居風オブジェ「あかりのボックス」。武蔵野線高架下の薄暗い印象を払拭し、新松戸のシンボルとして、松戸市が設置した。しかし、この派手な朱色については、地元の反対意見が多い。)

(幸谷駅の駅案内板と連絡踏切。昭和の雰囲気が漂う。上の高架は、武蔵野線である。)

幸谷駅は駅専用の建物(駅舎)ではなく、12階建てマンションの1階に駅が設けられている。都心部では珍しいタイプであると思う。なお、このマンションは流鉄の所有になっている。JRや大手の民営鉄道会社では、不動産や飲食業などの多くの関連会社を設立し、本業以外にも精を出しているが、この流鉄ではそこまで熱心ではなく、ほぼ本業一本の生粋の鉄道会社になっている。そもそも、町民のための鉄道であったためであろう。


(流鉄カーサ新松戸と幸谷駅。)

武蔵野線高架下の流鉄線の踏切を渡る。この踏切名は通路踏切と呼ばれ、あまりにもそのままなので面白い。起点の馬橋方に駅出入口があり、マンション住民の出入口とは別になっているが、脇にマンション名の看板がある。

数段の階段やスロープを上がると、1階部分がそのまま駅になっている。冷たいコンクリートの感じもするが、今では、懐かしい昭和の造りである。壁にベンチが据え付けられている開放式の待合所を横切ると、突き当たりの奥に2台の自動券売機、出札口と改札口がある。


(幸谷駅の待合所。天井が低く、圧迫感があるが、意外に広い。左奥に公衆トイレもある。)

全線乗り降り自由の1日フリー乗車券(大人500円)があるので、中年男性の出札係氏に発券して貰おう。タイアップしているアニメーションの特製缶バッチも付いている。なお、起点の馬橋から流山まで全区間の正規運賃は、片道大人200円である。

改札口には、国鉄によく似た六角形金属ボックスがあるが、切符購入後の入場はフリーである。電車到着時に駅員が出て来て、集札だけを行う。駅の開業は流鉄線としては最も新しく、昭和36年(1961年)2月3日開業、起点の馬橋駅から1.7km、2駅目、所要時間約3分、海抜5m、千葉県松戸市新松戸にある終日社員配置駅になる。昭和57年(1982年)1月に馬橋方から約200m移動し、現在地に移転した2代目駅で、1日の乗車客数約2,200人は線内で最も多い。


(出札口と改札口。)

改札を通り、ホームに出てみよう。レンガタイル装飾のホームの幅は約3mあり、列車交換のできない棒線駅(単式ホーム駅)である。20m級電車の3両編成程度の長さがあるが、現在は2両編成に短縮化されたので、旅客上屋部分のある馬橋方に寄って停まる。また、懐かしいセイコー製鉄道駅時計と駅員手書きの駅時刻表が、ホームに吊り下げられている。これだけを眺めていると、かつての国鉄の雰囲気を思い起こさせる。


(セイコー製の鉄道駅時計。国鉄で使われていたものと同じものと思われる。※同日午後に撮影。)

(味のある手書きの駅時刻表。よく見ると、ダイヤ改正ごとに書き換えた跡がある。)

駅名標も壁に取り付けられており、ローカル民営鉄道によく見られる小型なものである。特に、柱タイプの駅名標はレトロで、戦前を思わせる明朝体フォントになっている。なお、地名と駅名が一致していないが、元々の地名は幸谷である。大規模区画整理が行われた際、事業名の新松戸に名称変更をした。


(オリジナルの駅名標。あの国鉄丸ゴシック体と微妙に違うのがミソ。)

(柱タイプのレトロ駅名標と名物のカラフルベンチ。国鉄風デザインのプラスチックベンチが、色とりどりに並ぶ。)

南の馬橋方を見てみよう。通路踏切を越え、一直線に単線が延びる。現在の幸谷駅は、昭和57年(1982年)に移転した新駅で、200m先に旧駅があった。今は線路際まで建物が並んでおり、その面影は全くない。短い単式ホームと小さな木造駅舎があったという。

当時、常磐線沿線の松戸以北は、駅周辺以外の住宅は疎らで、流鉄線沿線には深い雑木林や荒地が広がっていた。昭和46年(1971年)からの大規模区画整理や、武蔵野線と新松戸駅が開業すると、急速に市街地化している。なお、駅の移転理由は、新松戸駅との利便性改善のためである。


(ホーム南端からの馬橋方。)

(旧幸谷駅跡。流山に向かって上り微勾配が続いているが、勾配標が水平「L」を示す場所(※)があり、すぐ近くに5号踏切もあることから、この付近に旧駅があったと思われる。※追加取材時に5号踏切脇から流山方を撮影。)

北の流山方を望むと、踏切を越えて、新坂川に添いながら、住宅地の中を抜けて行く。ちなみに、流山線の踏切名は、地元の字名(あざな)や交差する道路名ではなく、起点の馬橋から通し番号を採用している。この踏切には、子番号があるのが珍しい。また、警報灯が左右一対ではなく、1灯ずつ違う向きの珍踏切になっている。両隣の踏切も、5号の2踏切、5号の4踏切であるので、大規模区画整理時に増設された踏切と思われる。


(ホーム北端からの流山方。ホームを出発すると、すぐに5号の3踏切を通過する。)

(5号の3踏切。かつては雑木林が広がり、踏切名の由来になる集落や街道が無かったため、通し番号になったと思われる。バリケードがあり、車は通れないらしい。※追加取材時に撮影。)

この幸谷駅は、起点駅からひとつ目の隣駅であるので、馬橋駅から改めてスタートしてみよう。この赤い2両編成の上り電車に乗車する。西武鉄道からの譲渡車を整備し、2両編成のワンマン電車を5編成運用している。各編成毎にイメージカラーと愛称が付けられており、都心部の普通鉄道としては珍しい。この愛称は沿線住民の投票で選ばれ、代々受け継がれており、地元住民の愛着も大きい。


(馬橋行きの流星号。元は、西武鉄道新101系電車である。流鉄5000系として、流星号の愛称は三代目になる。)

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幸谷0808======0811馬橋
列車番号20・上り・馬橋行き
流鉄5000系「流星号」2両編成・ワンマン運転
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(つづく)


(※勾配標のL)
英語のLevel(レベル)の頭文字から、水平を示す。安全上、原則として、線路が水平の場所にホームを設けなければならない。

【参考資料】
総武流山電鉄の話「町民鉄道の60年」(北野道彦・1978年・侖書房)

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