小布施めぐり(3)ながでん電車の広場「旧型電車」

また、ED502号機の奥には、3両の旧型電車も展示されている。車体は綺麗に再塗装されている反面、車内の傷みが激しいが、見学も出来る。これらは、両運転台付き電車なので、単行運転も可能であった車両であった。しかし、通路幅に余裕が無く、車両正面の撮影は困難である。


(ながでん電車の広場の旧型電車。)

先ずは、手前側の車両から順に、見学してみよう。重い乗降扉をグッグッと引いて、車内に入る。

【デハニ201】(廃車時モハ二131) ※長野寄りの一番手前の電車。
大正15年(1926年)製造、汽車製造、全長16.7m、自重30.08t、定員78名、
客用二扉車・高ステップ+荷物用一扉車、客貨合造電車
(定員78名+貨物2.03t/14.61m³)。

河東線電化時に導入された貴重な電車で、長野電鉄が初めて発注した半鋼製電車である。車体にリベットがあり、小さな貨物室が片側に併設されているのが特徴になっている。昭和55年(1980年)春に引退した。


(デハニ201の形式標。)

運転台に速度計が無く、運転士の経験に頼るのは、ED502号機と同じである。乗務員室扉も無いので、乗務員も客用乗降扉から乗り込む為、乗務員室と客室の境も路面電車の様な半開放になっている。また、乗降口ステップ、木床、電灯カバーや木造肘掛けに時代を感じ、つり革もとても長い。


(三面窓の中央にある運転席周辺。)

(車内の様子。向こう側が、四畳程度の貨物室になっており、鉄道手小荷物も一緒に輸送していた。)

つり革には、「あなたが育てた 長野の丸光」と赤ラベルの広告がある。長野中心部の門御所町あった、県内初の本格的な地元系百貨店であった。最末期は、長野そごうとして営業していたが、平成12年(2000年)に閉店した。ながの東急の前身・丸善のライバル店であった。


(ロング吊革。)

【デハ354】(廃車時モハ604) ※電車三両の中程の車両。
昭和2年(1927年)製造、川崎造船所、全長17.1m、自重31.4t(長野電鉄時代)、
定員100名、三扉車、高ステップあり。

半鋼製車体が一般的であった当時、珍しい全鋼製車体で、車体にリベットがある。後年、同じ県内の上田交通(現・上田電鉄)に譲渡され、同社で活躍していたが、昭和61年(1986年)に保存のため里帰りをした。深い屋根、お椀を伏せた様なベンチレーター、乗降扉上の独特なカーブの水切りが特徴になっており、屋根は赤く塗られている。


(デハ354の赤屋根とベンチレーター。※トリミング拡大。)

この車両も、速度計や乗務員室扉は無く、半開放タイプの乗務員室になっている。上田交通時代に、モーターを外して無動力化された為、車内にクハ271の表示がある。照明は白熱電灯と直管蛍光灯を併設、上田交通時代に蛍光灯が追加されたかもしれない。木造の内装部分が多く、「喫煙は危険」との注意書きプレートがある。お稲荷様と呼ばれた、タブレット閉塞機が向こうに置かれていた。


(運転席周辺。)

(車内の様子。)

(クハ271の表示。)

(車内の注意書きプレート類も懐かしい。)

【モハ1005】(廃車時モハ1003) ※湯田中方の一番奥の電車。
昭和24年(1949年)製造、日本車両製造、全長17.6m、自重36.0t、
定員120名、二扉車、低ステップあり、運輸省規格形電車。

終戦直後に製造された電車で、当時、14両が在籍する最新型主力電車であった。車体製造技術の向上により、リベットは無く、正面顔もアールが付いている。また、当時最新の全自動乗降扉を採用している。それまでは、扉を開ける時は手動で、締める時とロックのみ自動であった。

やはり、運転席を覗くと、空気圧力計はあるが、速度計は無い。乗務員室は、現在の車両と同じ密閉タイプになり、乗務員室扉の内横には、モスグリーンの逆U字箱の車掌スイッチ(戸締め操作装置)を装備する。


(運転席周辺。左側に寄っている。)

(車内の様子。一部のシートが取り外され、痛みが激しい。)

(手ブレーキハンドルと車掌スイッチ。)

ドアが中央に寄った二扉車の為、運転席後ろに短いロングシートがある。電車であるが、やや高床のため、低い乗降口ステップと乗務員室扉が別にある(前の二両は乗務員室扉無い)。


(モハ1005の形式標と乗務員扉。)

また、デハ354とモハ1005の間では、連結面が見られる(リベットのある左が、デハ354)。当時の機関車、貨車や客車と同じ、肉厚なげんこつ型の自動連結器を装備している。その中でも、柴田式と呼ばれる標準的なタイプであるが、遊びの部分が大きい為に振動が大きく、後年の電車への採用例は少ない。

鉄道による手小荷物輸送が盛んであった昔、電車後方に貨車を1-2両連結して同時運行する、客貨混合列車(別称・ミキスト)も、ローカル民営鉄道では良く見られた。その為、貨車と同じ自動連結器を装備している場合がある。なお、長野電鉄のミキストの資料が手元に無い為、詳細は不明であるが、信州中野から湯田中の急勾配区間では、進行方向に貨車を連結し、電車で貨車を押し上げたとの話もある。なお、長野電鉄では、貨物室付き電車デハニを導入し、ED5000形が電化導入初期から在籍していており、客貨分離が早くから行われたと考えられる。


(デハ354とモハ1005の連結面と柴田式自動連結器。)

また、ホーム側からは行けないが、向こうに、鉄橋も鉄道記念物として展示している。北須坂-小布施間に架けられていた、英国製ピントラス鉄橋の松川橋梁である。大正12年(1923年)に架橋され、平成2年(平成2年)の架け替えまで、長らく使われていた。


(保存されている旧松川橋梁。※3番線ホームから低倍率撮影。)

明治20年(1887年)頃に製造(推定)、大正11年(1922年)鉄道省から払い下げ、全長100フィート(30.5m)、高さ9フィート(2.7m)、重さ約54tになる。大きなピンを使い、トラスを桁に止めている元祖的なトラス構造で、官営鉄道(後の国鉄)で使われていた鉄橋の払い下げを受けて、導入したという。また、日本は英国式鉄道を導入したが、後年、鉄橋については、災害の多い日本によりマッチングし、造りが丈夫で、構造理論設計に優れる米国式を採用している。輸入鉄橋の中では、英国製は初期のものになり、その後、アメリカンブリッジ社に代表されるアメリカ製が多くなっている。

(つづく)


屋代線の廃線に伴い、ED502と旧型電車3両の全車両が、旧・信濃川田駅に移動した。その後、ED502と一部の電車が、美術館や長野市内の民間会社に譲渡されている。松川橋梁も、長野市内の民間会社に譲渡され、ED502と共に保存されている。

2020年3月28日 ブログから転載・文章修正・校正。

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