湊線紀行(9)那珂湊めぐり その2

運河跡の近くに、那珂湊を代表する寺院の華蔵院(けぞういん)【万字マーカー】があるので、立ち寄ってみよう。宗派は真言宗智山派、山号は戒珠山密厳寺(かいじゅさんみつごんじ)、本尊は大日如来になる。真言宗智山派の地方本寺になっており、格式の高い大きな寺院である。通りに面しているが、大きな墓地の奥に堂宇が並んでいる。よく手入れがされた参道を歩き、寺の正門の南門を潜る。


(華蔵院。背後は台地になっており、竹林や雑木林が広がる。海辺の平坦な住宅密集地の印象が強い町なので、里山の様な風景は珍しいと思う。)

(参道と南門。)

南門を潜ると、端正な本堂が聳えている。室町時代初期、応仁の乱後の文明年間(1469年から1486年の間)に創建されと伝わり、常陸国(ひたちこく/現在の茨城県)守護の常陸佐竹氏や水戸藩主の徳川氏から、加護を厚く受けたという。最盛期には、5,000坪の境内、7つの堂伽藍、4つの塔、6つの供院、多数の末寺を擁する大寺院であった。しかし、幕末動乱期の元治元年(1864年)、水戸天狗党の乱(元治甲子の乱/げんじかっしのらん)により、伽藍と寺宝の殆どを兵火で失った。その後、明治維新の混乱もあり、直ぐに再興が出来なかったが、明治初期に本堂などが再建された。


(本堂。明治14年[1881年]の再建になる。正式な寺名である、「密厳」の扁額が掛かる。)

(本堂左には、立派な薬師堂もある。)

南門の右手に鐘楼があり、南北朝時代の暦応2年(1339年)鋳造の梵鐘が吊り下がっている。元々は、水戸藩内の他の寺にあり、寺院大廃合の名目で、反射炉で造る大砲の材料として藩に徴収されたが、檀家達などが働きかけて潰されず、明治時代中期に華蔵院に収蔵されたという。なお、銘文が鋳込まれており、製作年・依頼者・製作者も判明している。現存する南北朝時代の梵鐘は大変珍しく、茨城県内最古とされ、太平洋戦争時の金属供出も逃れた。


(華蔵院の梵鐘。)

境内の庭園がよく整備されており、とても清々しい気持ちになる。小さいながらも、立派な六角堂、弘法大師を祀る大師堂の小堂や宝篋印塔(ほうきょういんとう)も現存する。宝篋印塔とは、鎌倉時代の頃から建てられた仏塔のひとつである。同じ目的で建立された五輪塔よりも、凝ったデザインが特徴であり、裕福層の僧侶や上級武士の供養や墓碑として建てられた。那珂湊市内の各墓所には、いくつか現存しているという。


(よく手入れがされた庭木と六角堂。)

(宝篋印塔。全て石製で、相輪が上に聳える。関東では、鎌倉や箱根のものが有名。)

駐車場に連絡する本堂の東には、朱と白が映える仁王門も建てられている。水戸天狗党の乱の兵火を逃れた唯一の建築物であったが、明治35年(1902年)秋に暴風雨で倒壊。戦後の高度成長期になってから、再建できたという。銘板には、昭和37年(1962年)11月に、那珂湊出身の深作貞治氏が単独寄進したとある。長野県長野市の善光寺仁王門を模し、飛鳥時代の装飾を加えてあり、極彩色と細かな装飾が素晴らしい。また、500年前に製作された仁王像を大修復して、収めている。この仁王門の近くには、八大龍王神を祀る龍王殿も合祀され、海上交通の神様として、那珂湊の漁師たちに信仰されている。


(寄進再建された仁王門。この門の前に立つと、正面に薬師堂があるので、薬師堂のための門らしい。手前の石柱にも、「華蔵院破魔薬師尊」と刻まれている。※逆光のため、ご容赦願いたい。)

(仁王門の鮮やかな彩色と装飾。※逆光のため、門の裏手を撮影。)

本堂前の左手には、大きな海難慰霊碑も建っている。約100年前の明治43年(1910年)3月12日、天候の大急変により、突風や雨雪が激しく打ち付け、那珂湊沖合で439名が遭難死した大事故があった。沿岸の町々は大変な事態になり、株式の募集もままならなくなったため、湊鉄道開業の危機の原因にもなっている。

今の様に天気予報が高度に発達しておらず、テレビやラジオも無かった時代である。低気圧が寒冷前線を伴い、発達しながら、茨城沖を通過したためといわれている。銚子沖から茨城沖にかけて、約160隻の船が難破し、約900人が遭難死したという。この三浜近辺では、那珂湊で107人、平磯で276人と特に多く、遺族は約2,000人と町を揺るがす事態であった。当時、10人から20人程度を乗せた手漕ぎ船を出し、流し網のマグロ漁が盛んに行われていた。数日来の大漁続きであったことや、前日は非常に良い天気であったので、出漁の漁船も多かった。

この碑は、水戸出身の第19代横綱「常盤山谷右エ門」が建立寄進したもの。碑文をよく読むと、慰霊と遺族慰安のために、勧進相撲も行われたとある。大切に手入れがされているのは、今でも、遺族が供養に訪れているのだろう。この遭難事故により、漁船の動力近代化や高層気象観測が始まったという。


(遭難漁民追薦の碑。)

また、この寺は、有名な民話「華蔵院の猫」の発祥地になっている。そのあらすじを紹介しよう。

この華蔵院の近くに、とても腕利きの桶屋職人が住んでいた。ある日、隣村からの仕事納めの帰り、さびしい野原を酔っぱらいながら通りがかると、なんだか騒がしい。「こんな夜ふけに、野原(のっぽら)で、何を騒いでいるのだろう」と様子を見ると。袈裟を身に着けた大きな化け猫を中心に、猿やたぬき達が騒いていた。腰を抜かし、家にやっと帰った翌朝、華蔵院の住職にそのことを話すと、寺の猫を呼び、「10年もここにいるんだ。二度と悪いことはしないこと」と戒めた。その後、住職の留守中、機織りをしているおかみさんに、猫が誰にも口外しない約束で、とても良い猫なで声で歌った。しかし、そのことを住職に話してしまい、怒った猫は、その晩におかみさんをかみ殺し、華蔵院から忽然と消えたという。

(「市報かつた」昭和61年4月10日号より、編集抜粋。)

10年以上生きる猫は、ふたつ尾の化け猫「猫又(ねこまた)」になる話である。物の怪が信じられていた時代、町の皆は怖がっていたという。

仁王門を潜り、華蔵院を後にする。背後の小山に登ってみよう。この坂の途中に市立那珂湊小学校【赤色マーカー】があり、江戸時代末期に文部両道の郷校・文武館がここに置かれ、那珂湊の尊皇攘夷思想の中心地であったという。なお、幕末当時の水戸藩は、国内の尊皇攘夷思想の中心地であったが、内部抗争も激しく、多くの優秀な人材が失われた。水戸藩出身の人材が、明治政府に殆ど登用されていないのは、そのためである。


(地元で、「七曲りの坂」と呼ばれる急坂を上る。)

この坂の上は、那珂湊町内で最も高所になり、湊公園【カメラマーカー】として、整備されている。元々は、水戸藩の別荘「夤賓閣(いひんかく)」が置かれ、「お浜御殿」とも呼ばれていたとのこと。那珂湊町の町並みと太平洋が一望できる景勝地になっている。現在は、多目的広場の緑地と公民館(コミュニティーセンター)が整備され、都市公園になっている。


(湊公園。山上は比較的平坦になっている。浜御殿の由縁から、この山は御殿山[別名・日和山]とも呼ばれていた。明治30年[1897年]4月に湊公園として開設。戦後になって、大規模に整備されている。)

(那珂湊の町並みと太平洋を望む。北東方向になる。)

(那珂川上流方を望む。右手に筑波山のシルエットも見える。空気の澄んだ秋冬の朝夕には、富士山が見えることがあるという。)

江戸時代初期の元禄11年(1698年)に水戸2代藩主・徳川光圀(水戸黄門)の命により整備され、海防の見張り番所も置かれた。先の華蔵院の境内に、藩の兵船や遊覧船を保管する御船蔵(おふなぐら)」もおかれ、水主師(かこし)と呼ばれる海防専任の藩士が詰めていた。


(夤賓閣址の石碑。300坪の広さで、28部屋もあったという。後ろの高台が、公園内の一際高い小山になる。ここに見張り番所が置かれたのであろう。)

残念ながら、幕末の水戸天狗党の乱(1864年/元治甲子の乱)の激戦で別荘は焼失。しかし、光圀公が兵庫県明石から取り寄せた、12本の見事な黒松は現存している。元々は、数十本の老松が庭園に植えられたといわれ、「大松さん」と愛称で呼ばれた巨松もあったという。ここの松を通して眺める秋の名月は、絶景とのこと。また、絶滅危惧種のイワレンゲの自生北限地になっており、東側の一角で保護されている。


(樹齢350年と伝えられる御殿の松が並ぶ。これだけ大きな幹の松も、今では珍しく、格好良い。ひたちなか市の指定天然記念物になっている。)

(イワレンゲの自生地。)

(ハスの花に似ている多肉植物で、可愛らしい。家庭観賞用としても、よく栽培されている。)

対岸の大洗町祝町(磯浜地区)に架かる海門橋も見える。明治時代中期から、何度か架け替えられ、現在は5代目になる。少し歩くが、この橋を渡って、アクアワールド大洗(茨城県大洗水族館)に行くこともできる。


(海門橋。昔は有料道路であったが、現在は無料になっている。)

公園の北側の町に降りる階段を降りる。この付近は那珂湊の中心市街地で、商店や宿泊施設も集まる場所になっている。光圀公が命名した井戸があるというので、行ってみよう。しかし、建物も多く、なかなか見当たらない。通りのクリーニング店で店番をしている、中年の女将さんに尋ねると、「案内してあげるよ」とのこと。ご厚意に甘えることにする。

クリーニング店の横の路地を奥に入ると、金龍水松影の井戸【黄色マーカー】がある。今は、井戸に蓋がされ、手押しポンプが上に据え付けられて、近代化されている。金龍は華蔵院の龍王神と同じで、この御殿山に住んでいる伝説によるのであろう。地元では、通称「大井戸」と呼ばれ、夤賓閣の御用水としても使われた。どんな旱魃であっても、枯れたことがないという。

(金龍水松影の井戸。地元住民が定期的手入れを行っているらしく、小綺麗になっている。)
(中国道教系の珍しい鍾馗神社[しょうきじんじゃ]も並ぶ。創建年や由縁は不明であるが、井戸絡みであるは、間違いないだろう。)

女将さん曰く、那珂湊は海辺の町であるが、真水の豊富な土地柄とのこと。東日本大震災の際には、1、2日間断水したが、この大井戸は影響がなく、町の人々は助かったという。また、町外の人達もやって来たので、分け与えたという。ちなみに、クリーニング店は大量の水を使うため、自家用井戸もあるそうで、水道水と共に使っているとのこと。

女将さんに、「ありがとうございます。また来ますね」と丁寧にお礼をして、お別れする。那珂湊には昔から何度も訪れているが、温暖な港町らしく、明るく、親切な人が多いと感じる。その気風は、「情けの湊」ともいわれているのも、わかる気がした。

(つづく)

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【参考資料】
現地観光歴史案内板
「みなとまちなか漫遊MAP」(発行元・発行年不明。駅で入手。第4版改定2。)

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