湊線紀行(3) 那珂湊から阿字ヶ浦へ。

ひたちなか海浜鉄道の本社や機関区の置かれている那珂湊(なかみなと)を発車する。この先の磯崎までは、大正13年(1924年)開通の第一次延伸区間、磯崎から終点の阿字ヶ浦(あじがうら)までが、昭和3年(1928年)開通の第二次延伸区間になっている。計画時の武平鉄道の「平」の名の通り、当初は平磯を終点とする計画であったが、資金難のため、先ずは那珂湊までの開通になった。平磯は「三浜(平磯・那珂湊・大洗[磯浜地区])」のひとつとして、漁業で大いに栄え、海水浴場や奇岩が織りなす海岸線が続き、戦前から人気の高い行楽観光地であったため、早期に延伸したかったらしい。更に、その先の磯崎まで延伸する計画に変更し、平安時代からの大社である酒列磯前(さかつらいそさき)神社や太平洋の大展望が広がる磯前岬にアクセスが出来るので、観光需要も大いに見込めた。

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勝田727======754阿字ヶ浦
下り阿字ヶ浦行(←キハ11-6+11-5・2両編成・ワンマン運転)

【停車駅一覧(下り)】

那珂湊 終日社員有人駅・本社所在中核駅・湊機関区

↓ 1.4km・3分

殿山 無人駅・追加設置駅・元列車交換可能駅

↓ 1.2km・2分

平磯 無人駅・元列車交換可能駅

↓ 2.5km・4分

磯崎 無人駅・元機関区駅・元列車交換可能駅

↓ 1.0km・2分

阿字ヶ浦(あじがうら) 夏期のみ有人駅・終点
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10人程の乗客を乗せ、那珂湊を発車する。構内の大きな左カーブと踏切を渡ると、ギュンギュンとレールを鳴らしながら、線内最急カーブを制限速度25kmで曲がって行く。これだけきつい本線上のカーブも珍しく、南東から北東にほぼ直角に進行方角の転換をする。


(那珂湊駅を発車する。駅を出ると直ぐに大きなカーブにかかる。※列車最後尾から、後方の勝田方を撮影。以下同。)

方角転換を済ますと、長い上り勾配をノッチ全開で登り始める。金上から中根へは、台地から海岸に接する低地に降りたが、再び台地上にあがる。なお、社名に「海浜鉄道」の名があるが、鎌倉の江ノ島電鉄の様に海辺は走らない。一部の区間で、右窓から少し見える程度である。平磯付近から阿字ヶ浦にかけての海岸線は、台地が海辺まで張り出し、高い崖が続くため、台地上のやや内陸側に線路が敷かれているためである。


(ハイパワーなキハ11形は、時速50kmで登って行く。太平洋戦争末期、ここと金上から中根間の勾配区間は、アメリカ軍の空襲時の列車避難場所でもあった。)

木々で鬱蒼とし、荒れ地が広がる通称「殿山の切り通し」を抜けると、約3分で殿山駅に到着。1線1面の単式ホームの小さな無人駅である。かつては、近くに県立高校があり、その通学生で賑わった駅であるが、廃校になってしまい、新興住宅地の裏手にある静かな駅になっている。阿字ヶ浦開通直後の昭和3年(1928年)7月に開業、起点駅の勝田から9.6km地点にある。当時の乗合バス競合対策のため、追加設置されたのが始まりである。


(10パーミルの上り勾配の途中に設けられた殿山駅。左側の不自然なスペースは、列車交換設備跡。)

1、2人の地元住民を降ろすと、直ぐに発車。この先も10パーミルの上り勾配が続く。豪快なエンジン音と共に紫煙を噴き上げながら、海が見える踏切先の大きなS字カーブを登り切ると、平磯駅に到着する。このS字カーブは、テーブル状になっている平磯駅に上がるための大きな築堤(盛り土)になっており、先の海の見える踏切と併せ、撮影名所になっている。なお、大正15年(1926年)の夏には、殿山と平磯間に海水浴客のための臨時駅が設けられている。海が見える踏切横の海側にあったらしく、それらしい平らなスペースも残る。平磯入口停留所として、夏の期間だけ設置されたが、阿字ヶ浦への延伸開通時に廃止されたという。


(海の見える踏切から、大きな築堤を登る。※折り返しの勝田行き列車最後尾から、後方の阿字ヶ浦方を撮影。)

平磯駅では、数人の下車があり、意外に日中の乗降が多い駅である。地元の生活鉄道としては、勝田からこの平磯までが主な利用区間になるだろう。6両編成が停まれる長い単式ホームがある無人駅で、構内はとても広い。かつては、2面3線の列車交換設備と貨物ホーム、貨物側線があったので、機関区を除けば那珂湊とほぼ同じ規模であった。戦後の茨城交通時代の合理化により、撤去されている。

なお、かつて、工場社員専用駅であった日工前駅と平成時代の新駅の高田の鉄橋駅以外の全駅に列車交換設備を有していたのは、この規模の地方ローカル線としては珍しいと思う。昭和に入ると、小回りの利く乗合バスとの激しい交通競合があったので、その対策もあるらしい。


(平磯駅に到着。列車交換跡や側線跡は、資材置き場になっている。※折り返しの勝田行き列車最後尾から、後方の阿字ヶ浦方を撮影。)

短い停車の後、タイフォンを鳴らし、平磯駅を発車。左半径260mと右402mのS字カーブをこなすと、下り・上り共に10パーミルのダウンアップ区間に入り、ここも見所のひとつである。この海岸台地も一見平坦に見るが、意外に起伏が多く、海岸台地が小さな川により浸食された谷の部分になっており、北側には水田も見られる。橋梁を架けずに築堤で谷を渡るのも面白い。川の水量が少ないからであろう。


(平磯から磯崎間の大きなダウンアップ。11キロポスト先で、周辺は宅地化が著しい。※折り返しの勝田行き列車最後尾から、後方の阿字ヶ浦方を撮影。)

(ダウンアップの海側を見ると、家々の屋根越しに海が見える。)

このダウンアップの戻しを登り、掘り割りを上がると、突然、北海道のような風景が広がる。新興住宅地はなく、車窓の両側に大きな畑が遙か彼方まで続き、夏は麦、冬はサツマイモを大規模に栽培している。なお、台地上で水利が悪いため、水田は見られない。ここで生産されたサツマイモは、干し芋として加工され、地元の名産品になっており、ひたちなか海浜鉄道でもオリジナルグッズとして販売されている。

大平原の中の直線線路を時速60kmで快走する。気持ちの良い風景が広がるが、歴史的には、上信線編下仁田散策で記事にした水戸天狗党(※)が水戸藩と激しく交戦した土地で、関連する塚や由縁も数多く残っている。余りにも激しい戦いが約二週間も続き、村の人々は一時村外に避難した程であったという。


(平磯から磯崎間の大平原。地元では、「部田野[へたの]原」と呼ばれている。)

(ひたちなか海浜鉄道オリジナルの干し芋「ぽ鉄」。完全無添加の自然食品で、優しい味がした。)

また、この直線区間の中間付近の東側(海側)には、大きなパラボラアンテナが見え、地元のランドマークになっている。郵政省電波研究所として、電波の観測や研究、無線機の形式検定などを行っていた。昭和末期に独立行政法人化し、現在は情報通信研究機構の施設とのこと。


(ランドマークのパラボラアンテナ。平磯駅のアート駅名標にデザインされている。)

暫くすると、背は低いが、珍しい椿並木が線路沿いに続く。この椿並木が途切れると、第一次延伸区間の終点・磯崎駅に到着。この駅も1面1線の無人駅であるが、茨城交通時代は、対向式2面2線の列車交換駅であった。


(磯崎駅を発車。古刹の磯崎酒列神社の最寄り駅であるが、駅前に商店はなく、住宅地に隣接する小さな駅である。)

(サツマイモ尽くしの磯崎駅のアート駅名標。※追加取材時に撮影。)

この磯崎まで延伸した約6ヶ月後、ここに機関区も新設され、那珂湊の湊機関区と同時運用されていた。機関庫、機関区事務所、給水塔、石炭台や整備用ピットがあったというので、湊機関区とほぼ同等であったらしい。蒸気機関車に使う水の水質が良かったのが、設置のきっかけといわれている。阿字ヶ浦の延伸開通後に廃止され、その面影は全く残っておらず、昭和9年(1934年)に駅構内のカーブを緩くするため、ホームと線路の位置が西寄りに大きく変更された。

なお、磯崎までの延伸開通時には、3両目の川崎造船所兵庫工場製の国産C形タンク式蒸気機関車1両(3号機関車・25トン級)、客車4両、貨車2両を増車した。延伸開通時のダイヤは、1日6往復、片道所要時間約40分、二等運賃54銭、三等運賃35銭(勝田から磯崎間)であった。

そして、磯崎から終点の阿字ヶ浦までは、距離にして1km(計画申請時は1.3km/磯崎駅のホームと線路付け替えで、300m短くなったらしい)しかないが、昭和3年(1928年)7月7日に第二次延伸開通した最後の区間である。当時、常磐線の東海駅(当時は石神駅)から延びる蒸気便鉄道の村松軌道(※)の出願路線と競合していたため、ひと駅間だけの短い区間であるが、開通を急いでいたという。国が湊鉄道に免許を交付後、その2ヶ月後に開通したというので、相当の危機感と事前準備があったと考えられる。結局、村松軌道は延伸せず、乗合バスとの激しい競合により、昭和8年(1933年)2月に廃線になっている。

磯崎駅を発車。大きな左カーブを曲がり、北から西に進路を取ると森の中の切り通しを抜ける。ここからは、上り勾配が続き、線路際に勾配標が見当たらないが、10パーミル程度あるらしい。再び、大きな右カーブをこなして北に戻し、線路際に住宅が建ち込んでくると、時速15km制限となって、終点の阿字ヶ浦駅にゆっくりと到着する。


(終点の阿字ヶ浦駅に到着。※折り返しの勝田行き列車最後尾から撮影。)

構内はとても広い。国鉄時代の海水浴直通列車に対応できる、6両編成程度の長い島式ホームが残るが、真新しいフェンスで閉鎖され、中央部分の片側だけが使われている。


(一度、下車し、折り返しの勝田行き列車になるのを待つ。)

磯崎までの延伸開通は、短距離でありながら、勝田から那珂湊間の初開通から11年後、現在の終点である阿字ヶ浦まで開通は13年後になるので、相当の難儀であったと思われる。

なお、現在の湊線にも、この阿字ヶ浦から更に北進し、観光客に人気の国営ひたちなか公園まで延伸する計画があり、ひたちなか市はかなり乗り気である。全国の第三セクター鉄道の中でも大変珍しく、最初は地元も半信半疑であったらしいが、期待が高まっているという。最有力のルート案では、延伸区間長約3.1km、非電化単線、新設駅3駅(終点を含む。うち2駅は公園出入口に隣接)、橋梁2カ所を設置し、2024年の開業を目指す。ひたちなか公園の西口ゲート(翼のゲート)を終点とし、総工費約80億円、年間乗車客数約100万人を見込む。先行して、阿字ヶ浦駅からひたちなか公園までのシャトルバスが運行され、需要調査も行われている。なお、海側ルートは全線高架になり、建設費がかさむため、却下されたとのこと。


(最有力のルート案。赤色マーカーは新駅の位置になる。※イメージ図のため、正確なルートや駅の位置を示したものではない。)

この阿字ヶ浦駅については、明日に詳しく訪問したいと思う。折り返しの勝田行きに乗車し、起点の勝田駅に戻ろう。無事に戻ると、丁度、上り品川行き特急ときわ66号とツーショットになった。


(勝田駅にて、常磐線特急ひたち号E657系と並ぶ。先代の651系やE653系のデザインを受け継ぐ、前面傾斜ガラスの高運転台形である。こう眺めると、蛇と狸の様で面白い。)

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※阿字ヶ浦から、折り返し乗車。

阿字ヶ浦810======837勝田
上り勝田行(←キハ11-5+11-6・2両編成・ワンマン運転)
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(つづく)

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(※水戸天狗党)
江戸時代の末期、列強の開国要求に対し、水戸藩の腕の立つ武士や浪人を中心にして結成された尊王攘夷急進派。当時の水戸は、攘夷思想の中心地であった。その志を叶える為に京都まで上洛し、在京の徳川慶喜(よしのぶ/後の江戸幕府最後の第15代将軍)に直接進言しようとした。なお、当時の水戸藩や幕府は、水戸天狗党の討伐の命令を繰り返し出していた。幕府軍との衝突を避ける為に東海道を通らず、上州や信州を進軍。桜田門外の変で暗殺された幕府大老・井伊直弼(なおすけ)お膝元の彦根藩通過を避けるため、現在の樽見鉄道(旧国鉄樽見線/大垣から樽見間)が走る根尾谷(ねおたに)を北進し、蠅帽子峠(はえぼうしとおげ)を越えて、越前国(現在の福井県敦賀市付近/つるがし)に迂回した。しかし、越前には、三万もの幕府軍が待ち構えており、捕縛処刑された。第二次長州征伐(1865年)や薩長同盟(1866年)の直前の出来事であった。
(※村松軌道)
常磐線東海駅から阿漕(あこぎ)間3.8km。地元古刹の村松山虚空蔵堂(むらまつさんこくうぞうどう)への参詣客輸送を主な目的とした蒸気軽便鉄道。大正15年(1926年)4月開通、昭和8年(1933年)2月廃線。

※車内からの線路撮影は、運転士の安全運転への配慮のため、全て列車最後尾から後方を撮影しています。

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