湊線紀行(4)中根駅と虎塚古墳

小一時間の湊線の旅を早々と終え、起点の勝田駅に戻った。時刻は朝の9時前。日も大分高くなって、気温も上がり、撮影によい時間帯になった。車窓から気になった駅に途中下車をしてみよう。なお、1日目の今日は起点の勝田から殿山まで、2日目の明日は殿山から終点の阿字ヶ浦までの駅訪問と下車観光とし、十分な時間を取ってある。ひたちなか海浜鉄道の路線長は14.3kmしかなく、日帰り可能であるが、じっくりと深訪してみたい。

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勝田842=======851中根
下り阿字ヶ浦行き
(←キハ11-6+キハ11-5・2両編成・ワンマン運転)
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折り返しの8時42分発の下り阿字ヶ浦行きに乗車。三駅先の中根駅に行ってみよう。朝の高校生達の部活ラッシュも終わり、余所行き格好の観光客が目立つ。車内のシートの半分程度が埋まる感じなので、2両で60、70人位だろうか。非電化ローカル線としては、とても多い。このゴールデンウィーク時期は、ひたちなか公園に行く観光客も多く、立ち席が出る程の混雑になるので、湊線も稼ぎ時である。


(下り阿字ヶ浦行き車内の様子。)

定刻に発車し、日工前駅と金上駅を過ぎ、下り急勾配で川沿いの低地に再び降りる。ふと、左窓を見やると、のんびりと田起しをしているのが見える。


(中根谷で田起しをするトラクター。この地方の田植えも、もう直前らしい。)

三反田の石切場横を過ぎ、9分程で中根駅に到着。運転席後ろのドアにひとり進み、1日フリー切符を見せ、下車をする。「なんで、こんな何もない所で降りるのだろう」と他の乗客の表情も面白いが、とても目立つので、少し恥ずかしくなる。

タイフォンを鳴らすと、直ぐに列車は発車し、ひとりだけの静かな駅に戻る。この中根駅は、阿字ヶ浦全線開通3年後の昭和6年(1931年)7月16日に開業した地元請願駅で、茨城東海新聞社の国井道太郎氏(※)が、熱心に働きかけたのがきっかけといわれている。当初の計画では、現在地よりも勝田寄りの200m地点であったが、利便性の善し悪しから、駅北側の三反田集落と南側の柳沢集落との綱引きが行われ、現在地に決着した。

駅の建設費用は地元持ちになり、敷地と工事人夫、若干の寄付金が寄せられたとのこと。また、地盤のしっかりした砂利採取場跡であったので、費用も少なくて済んだという。地元住民の乗降の他、中根鉱泉(温泉※)への利便、特産の部田野石(へたのいし※)や肥料の輸送も主な設置理由であった。


(中根駅全景。)

起点の勝田駅からは4.9km地点、所要時間約9分、片道大人運賃190円、ひたちなか市柳沢にある。なお、金上から中根間は、湊線最長の駅間距離3.0kmになっている。湊線の秘境駅ともいわれているが、山側の坂を上がると、大きな集落があり、駅からは木々で見えないだけである。


(道路側からの中根駅全景。踏切先の坂上が三反田集落になる。この土手は風致地区に指定されており、宅地化は制限されている。)

現在の駅は単式ホーム1面1線であるが、元々は、対向式2面2線の列車交換可能駅であった。戦後昭和の海水浴ブーム時に交換設備が追加設置されたが、約10年後に撤去した。向かいのホーム跡は完全に土手になっており、その面影は見当たらない。地元のボランティアの人達が手入れをしている花壇と桜の若木が植わっており、春には色とりどりの花の駅になる。また、かつては出札口や改札口を備えた木造駅舎があったが、昭和46年(1972年)に交換設備と共に解体撤去され、今は開放式の待合所が建っている。


(ホーム跡。)

待合所の壁面には、色々と掲示されている。鉄道書籍やガイド本にはない地元密着の情報もあったりするので、よく見るようにしている。駅の近くの三反田小学校の小学6年生達が、駅の環境美化に参加しているとのこと。「百色の駅・メルヘンの駅」を目指し、花壇や駅中農園、休憩所を造っている。


(児童達の駅環境美化活動の様子。)

勝田方を眺めると、中根谷に接する山際に沿いながら、ほぼ真っ直ぐに線路が延びる。左手は大きな森が続くが、この上に三反田の集落が広がる。この中根谷は地盤や排水がとても悪く、住宅地として、適していないためであろう。


(勝田方を望む。遠くの白いタワーは、エレベーター研究塔の日立G1タワー。)

那珂湊方は踏切と小川を交差したとあと、右に緩くカーブし、東水戸道路をアンダーパスする。こちらの山上には柳沢集落があるが、線路際に住宅は殆ど無く、水田に左右を挟まれながら南下する。


(那珂湊方を望む。左手から延びる高架橋は、中根谷を横切る東水戸道路。)

ホームのアート駅名標には、地元史跡の虎塚古墳と矛(ほこ/剣)が描かれている。片道徒歩20分位らしいので、ここまで来たならば、行ってみよう。


(アート駅名標。後ろの自転車は通学の高校生達のもの。)

駅前ロータリーや商店はなく、ホームのスロープを下ると、踏切と県道に直結している。左に曲がり、中丸川を真新しい橋で渡る。この中丸川は那珂川の支流のひとつて、勝田市街を源流とする短い川であるが、水量がとても多い。台地下からの湧水が多いのであろう。

車も時々通るのみで、人通りはない。一面の水田の中を歩く。この中根谷の幅は300mから600mあり、北西・南東方向に細長いのは、海の入り江だった名残とのこと。その後、海が後退し、低湿地帯が造られ、弥生時代に稲作が始まっていたという。今や2000年近く経ても変わらないのは、ロマンを感じる。


(中根谷を横断する。)

事前に準備した地図を見ながら進もう。線路向かいの山際に沿って歩く。この山際の一段奥まった場所に古墳があるらしい。山際の民家は部田野石の上に建てられており、敷地下に大きな洞穴があるのが面白い。


(部田野石の上の民家と洞穴。)

北側の山際に沿って歩き、駅から約15分で、中根鉱泉の一軒宿【ベッドマーカー】まで来た。地図上では、ここから山際に沿った道があるのだが、草ぼうぼうで歩けず、廃道同然になっている。訪問者は非常に少ないらしい。とりあえず、東水戸道路沿いの舗装道路を北東に歩いて行こう。この東水戸道路は、北関東自動車道の支線として、平成8年(1996年)に全通。国道6号線の有料自動車専用道路(有料バイパス)である。末端は常陸那珂湊有料道路として、国営ひたちなか海浜公園を縦断し、新港の常陸那珂湊港まで結んでいる。常陸那珂湊港周辺には、巨大な重工業団地があり、茨城県の近代的工業輸出港になっている。

少し歩いて行くと、大きな水田の向こうの土手に何かあるのが見える。場所的にも、古墳にかなり近いはずなので、行ってみよう。水田を横切り、土手を少し上ると、鬱蒼とした木立の中に十五郎穴(じゅうごろうあな)【赤色マーカー】があった。


(水田を横切る。観光案内看板はなく、行き過ぎる所であった。)

無数に開口した口が、とても不気味に感じる。今から1,200年前、奈良時代を中心とした100年間の間、この地に派遣された役人や地元有力者達の横穴式墳墓跡で、この付近に約300基もあり、国内最大の横穴墓群という。なお、名称の由来は、かつて、十五郎という男が住んでいた言い伝えかららしい。


(十五郎穴横穴墓群。)

大小さまざま、遺体を安置する玄室(げんしつ)も正方形、フラスコ形、長方形などいろいろある。全体は住居を模しており、開口部は玄関にあたる前庭部、それに続く廊下部分の羨道部(せんどうぶ)、玄室の三構造になっている。本来は開口部に大きな板や石などで閉鎖されていたと考えられている。なお、殆どが盗掘されているが、ごく一部の未盗掘の横穴墓から、人骨や矛(ほこ/剣)、勾玉(まがたま)、須恵器(すえき/陶質土器)などが出土している。特に矛は、奈良正倉院のものと大変よく似ており、都と繋がりのある身分の高い人物が埋葬されたのではないかと考えられている。


(横穴墓の様子。廊下に当たる羨道部の無いタイプもある。もちろん、遺体や副葬品はない。)

なお、十五郎穴横穴墓群近くの山道から、虎塚古墳【黄色マーカー】に行けるらしい。ここの崖下にも横穴墓が沢山ある。ブルーシートがかけられているのは、発掘調査後の保護とのこと。その中でもひときわ大きな墓には、遺体を安置する寝台が最奥にあり、一輪の花が捧げられていた。


(虎塚古墳への山道と横穴墓群。)

(寝台のある横穴墓。しかし、史跡保存も予算がないらしく、風化が激しい。)

轍のある山道を少し登ると、山中の平たい場所に出る。ここに虎塚古墳があり、小さな歴史公園として整備されている。他に観光客は全くおらず、訪問者は大変少ないらしい。台地上にある全長56メートルの前方後円墳は、7世紀前半築の後期古墳という。この古墳がとても有名なのは、石室内壁画にベンガラ(※)で描かれた幾何学模様や武器などの文様が発見されたためで、現在も厳重に密閉保存されている。東日本では大変貴重とのことで、国の史跡にもなっている。


(虎塚古墳。手前が方墳、後方が円墳。石室は後ろの円墳にある。前方後円墳なので、円墳が後ろ側になる。)

なお、春と秋の年二回、石室内壁画の一般公開がされているとのこと。少し離れた場所にある「ひたちなか市埋蔵文化財センター」には、彩色壁画の立体レプリカや出土品も展示されている。


(石室内の彩色壁画。石室出入口前の歴史案内看板より。)

さて、太古の歴史を堪能した後は、来た道を引き返そう。折角なので、中根温泉の一軒宿に立ち寄りたい。玄関横のガラス越しに女将の姿が見えたので、両手先を合わせて首の所で水平にし、「日帰り入浴は可能ですか」とジェスチャーをすると、大丈夫との返事。早速、お邪魔しよう。貸しタオル込みで700円(1時間程度・税込)を支払う。


(中根温泉・はこや旅館。近代的な大型旅館になっている。)

本館二階と外にある旧浴場の二カ所があるが、今回は本館内に案内された。湧出量が少ないためか、こぢんまりとしている。窓からは、宿前の緑々とした大水田と真っ直ぐな高架橋が延びる。この高架橋がなければ、もっと良いのであるが。

6畳ほどの脱衣所で服を脱ぎ、カラカラと戸を開ける。泉質は珍しいラジウム温泉とのこと。無色透明の湯であるが、海が近いせいか少し塩っぱい。手にすくうと少し重たく、なめらかな感じがする。今日は他に客はおらず、完全に貸し切りで贅沢である。また、入浴中は普通の温泉に感じたが、湯上がり後も体が冷めず、適度にポッポと持続するのは驚いた。血行が良くなるためか、疲れやコリもよく取れるので、なかなか良い。


(本館二階の湯船。鉱泉なので、源泉の湧出温度は低く、加温しているらしい。)

女将に尋ねると、温泉として400年、宿として100年の歴史があるとのこと。宿の前は自家所有の水田が広がり、自家栽培のコシヒカリや野菜を料理に使い、もてなしてくれる。また、宿代も通年1泊2食付き8,500円と良心的で、ひたちなか海浜鉄道の旅の隠れ宿に良いだろう。
→ひたちなかの店いい情報サイト「中根温泉はこや旅館」


(はこや旅館前からの大水田と東水戸道路。)

(つづく)

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(※国井道太郎)
那珂湊生まれの地元名士。昭和初期に町会議員を永らく務めた。家業が印刷業であったため、新聞を発行していた。茨城東海新聞は、現在の茨城新聞社とは無関係。
(※鉱泉と温泉)
温泉法による区分。源泉の湧出温度が25度未満を鉱泉、25度以上を温泉とする。
(※部田野石)
地元特産の軽石凝灰岩(火山灰が水中堆積したもの)で、軽く、柔らかく、加工しやすい。建築材料や石仏材料に使われた。江戸時代、水戸藩お抱えの名石工がおり、部田野石を使った石仏が、ひたちなか市周辺に多数現存している。
(※ベンガラ)
酸化第二鉄のこと。赤さびと同様で、古代より使われてきた顔料。

※虎塚古墳・十五郎穴横穴墓群・中根温泉は追加取材です。実際の訪問には、2〜3時間かかります。

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