湊線紀行(15)磯崎海岸歩き 後編

当地一の古刹、酒列磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ)【鳥居マーカー】に参拝後、ご利益がある亀石像を撫でたら、直ぐに出発しよう。一の鳥居(大鳥居)近くには、比観亭(ひかんてい)【赤色マーカー】と呼ばれる展望地がある。阿字ヶ浦や遠く阿武隈山地を一望でき、酒列磯前神社の旧社がこの付近にあったという。手前眼下には、磯崎漁港【錨マーカー】も見える。

水戸藩第6代藩主の徳川治保(はるもり)が、江戸定府(※)から帰国して訪問した際、ここからの絶景に感嘆し、東屋を建てるように命じたという。翌年の寛政3年(1791年)に建てられたが、東屋は現存せず、石碑のみが残っている。


(比観亭からの阿字ヶ浦遠景。外海に面しているので、大きな防波堤がある。)

(眼下の磯崎漁港を望む。)

白亜の阿字ヶ浦を見納め、海岸台地から坂を再び降りる。そのまま、海岸沿いの2車線の県道になるが、やや狭く、歩道もない。交通量も比較的多いので、気をつけて歩こう。右手に海岸台地が迫っているため、平地は少なく、住宅は少ない感じである。ふと、降りてきた海岸台地を見上げると、磯崎灯台【灯台マーカー】が見える。昭和26年(1951年)8月に初点灯した小さな灯台とのこと。


(急崖が迫る海岸沿いの道路を、南に向かって歩く。)

(磯崎灯台。森の中からニョキッとある感じが、面白い。)

ここからは、太平洋を左手にずっと望みながらになる。磯辺では、車で来た家族連れや若者たちが、テントやシートを広げ、磯遊びやバーベキューをしている。一日中、海を見ながらのんびりと過ごすのも、良さそうである。しかし、とても暑い。日差しも強く、帽子を用意すればよかったと思う。なお、湊線の線路は、海岸台地の上を通っており、ここからは全く見えない。


(太平洋と海岸岩礁。南に傾いているのがわかる。大地震により、海底が傾いて隆起したもの。)

途中、見和層【灰色マーカー】と呼ばれる地層の実地サンプルがあり、崖崩れ防止のコンクリート構造物の一部をくり抜いている。遠目からでも、綺麗な縞模様がよく分かる程で、12万5千年前のものという。太古の昔、この海岸に大砂丘が広がっていた名残で、浅い海の堆積物が積もり、最上段に火山由来の関東ローム層(赤土)が乗っている。


(見和層。)

単調であるが、気持ちのいい海辺を歩いて行く。この磯崎から平磯の海岸にかけての海岸岩礁は、全て南側に傾斜しているが、一箇所だけ北側に傾斜している場所【黄色マーカー】がある。それを逆列(さかつら)といい、「畜生磯(ちくしょういそ/畜生岩とも)」と地元では呼ぶという。また、戦後の昭和29年(1954年)にアンモナイト化石が発見され、中生代の白亜紀後期(7,500万年前から6,800万年前)に形成された地層と判明した。別名・白亜紀層海岸とも呼ばれ、地元温泉ホテルの名称にもなっている。


(北を向いた畜生磯。地質学的には、地層の一部が逆転した異常堆積と考えられている。専門用語では、スランプ構造といい、海底地すべりが主な原因とされる。)

畜生磯の向かいの海岸台地中腹に小さな覆屋【祈りマーカー】があるので、立ち寄ってみよう。駐車場先の小さな石段を上がると、剣が描かれただけの神石碑が鎮座している。由緒案内の看板などはなく、詳細は不明であるが、浪切不動尊と呼ばれているらしく、海難事故の慰霊と航海安全を祈願しているのであろう。神石碑の剣は、弘法大師空海が荒れ狂う玄界灘を渡った際、不動明王を召喚し、炎と剣で海を鎮めた由来による。海の不動明王(不動尊)として祀られ、各地の海岸沿いに見られる。


(浪切不動尊の覆屋。)

(神剣が描かれた神石碑。)

徒歩で約40分、約2km南下すると、海岸台地中腹の雑木林の中にある、水戸藩由来の展望地「観濤所(かんとうじょ)」【青色マーカー】に到着。水戸藩第9代藩主の徳川斉昭(なりあき)が、藩内随一の波浪の見所として選定した場所で、水戸八景の番外地になっている。磯崎海岸から採石した砂岩を使い、斉彬公揮毫の石碑が建立されている。


(観濤所。献上された日本刀の鍔(つば)に彫刻されていた風景を、実在かと彫刻師に尋ね、斉昭公が自分の目で確かめに訪問したのが、設置のきっかけと伝えられている。)

(白波が一筋、大海原を一隻の漁船が進んでいた。)

(斉昭公揮毫の石碑。元々は、海岸近くにあったという。昭和10年[1935年]に風化を防ぐ石造の碑覆堂が建てられたが、東日本大震災で倒壊。幸いにも、石碑本体は被害軽微であったらしい。久慈川上流の安山岩を使っており、筑波大学の協力により、強化剤を塗って、保存処置をしているとのこと。)

観濤所から坂を少し登ると、あのパラボラアンテナの平磯太陽観測施設がある。元々は、郵政省の無線研究施設であったので、無線所と地元で呼ばれている。敷地内は公開されておらず、正門から見学すると、左手奥の方にアンテナが少し見える。


(平磯太陽観測施設正門とパラボラアンテナ。)

無線所を出発し、もう少し南下すると、この海岸歩きの中間地点の名勝地・清浄石【赤色マーカー】に到着する。海岸であるのに、「清浄」とは不思議であるが、徳川光圀公(水戸黄門様)の命名によるもので、古くは、「阿字石(あじいし)」や「箱磯(はこいそ)」と呼ばれていた。形が奇特であるそうなので、海岸に降り、見に行ってみよう。


(清浄石の石碑。石碑下部の「義公」の刻印は、光圀公の諡[おくりな]。)

南側に大きく傾斜した海岸岩礁も間近で見ると荒々しいが、ほぼ一列になって連なり、滑りにくく、意外に歩きやすい。ヒトデ、ヤドカリやアメフラシなども多く生息し、家族連れの子供達も嬉しそうに遊んでいる。なお、この付近が本来の阿字ヶ浦であり、この清浄石こと、「阿字石の(前の)浦」から由来する。阿字石自体の由来は、五重塔の下部の土台石に似ていることからとされている。


(元祖・阿字ヶ浦海岸に降りる。)

(自然いっぱい感の磯辺。丁度、干潮時らしい。)

先端部まで行くと、何故かここだけ足場が三角形になっており、ヒマラヤ越えになる。お目当ての前には、関門が必ずあるのものと覚悟を決めよう。カメラとショルダーバッグを背中に回し、体を頂きにへばり付くようにして越えると、清浄石があった。

周辺の磯石とあまりにも違うので、「なんだ、これは」と、とても驚く。太平洋に突き出す様にある約3.6mの正方形の巨石は、豆腐のように切り出した不思議な形をしている。上面も真っ平らで、中央の座布団の様な出っ張りも謎である。昔、ここで護摩を焚いたので、護摩壇石とも呼ばれていたらしい。


(磯岩の上を歩く。砂岩と泥岩が交互に層状になっており、波で複雑に削られている。俗にいう、「鬼の洗濯板」であるが、国内では珍しく、ここと宮崎県の青島海岸でしか見られない。)

(清浄石。)

この清浄石は、那珂エリアの大社の静神社(那珂川中流にある常陸国二の宮/水郡線静駅下車徒歩約20分)が、酒列磯前神社への磯降りの際、神輿をおいて祈祷したとの記録がある(※)。他、地元磯崎の酒列磯前神社、湊線のライバルであった村松軌道の終点にある村松山虚空蔵堂(こくぞうどう)や静神社の神仏も、この清浄石に漂着したとされている。

再び、ヒマラヤを越えて、清浄石を後にしよう。あと、半分の行程である。500mほど南下すると、平磯中学校がある。古くから、まぐろ漁で栄えた平磯は全国的にもよく知られ、漁網を干した網のし場がこの付近にあったそうで、記念碑も建てられている。近くの海岸には、石切り場跡もあり、砂岩の磯崎石として有名であったという。また、中学校の周辺の松林は、明治の大海難事故慰霊のために植林され、多くの遺族が泣きながら植林したことから、ナキビキ山と呼ばれている。

清浄石付近からは、道路も少し広くなり、歩道も付くようになる。磯も南下するに従い、平らになって、海岸から100m近くも延びる。荒々しい「磯崎」から、平らな「平磯」と地名そのままである。磯が平らになった分、太平洋の荒波も目立つようになってきた。途中、民宿兼食堂の「ほりぞえ」前に、古いコンクリート建造物がある【黄色マーカー】。何であろうと、ひたちなか市観光協会に後日尋ねると、時期は不明であるが、アワビ養殖の生け簀があった名残とのこと。


(アワビ養殖場跡のコンクリート建造物。)

(平磯海岸【カメラマーカー】を振り返って望む。この付近は、浸食されやすい泥岩が広がっており、満潮時に水没する波食棚になっている。)

そして、阿字ヶ浦駅から約3時間、この海岸歩きのゴールである平磯海水浴場【水泳マーカー】に無事に到着。日差しも強く、軽い熱中症になりそうであった。最後には、平磯町の公式マスコットの鯨の大ちゃんが迎えてくれる。長さ15m、高さ2.5m、重さ5トンもある海中滑り台で、初代は大正時代に作られ、現在は昭和58年(1983年)に設置された3代目とのこと。平磯の観光案内に必ず紹介されるほど、有名である。


(ゴールの平磯海水浴場。平磯魚港と隣り合わせで、防波堤内の北側が港、南側が海水浴場になっており、外海に直接面しているが、波はとても穏やかになっている。)

(平磯海水浴場の名物、鯨の「大ちゃん」。なお、先年の東日本大震災では、船が衝突して壊れたが、修復された。)

古くから、まぐろ漁で有名な平磯であるが、鯨とも縁が深い。魚の群れを追って鯨がこの平磯沖まで回遊し、追われた魚達が海面に盛り上がったり、定置網に沢山かかったりして、漁の手助けをしてくれた。平磯の漁師達は、これを「鯨まわし」と呼び、大変好意的であるという。海水浴場近くの交差点脇【緑色マーカー】には、潮に乗る大ちゃんの塔もあり、車で町を訪れる人達を歓迎している。また、この平磯海水浴場周辺には、老舗の海水浴旅館が多く、低屋根の石造りの建物や塀も見られる。強い潮風や塩害を防ぐためであろう。


(交差点脇の鯨の大ちゃんの塔。後ろの社は、澤メキ稲荷神社。※澤メキは地元の字[あざな]。ここに宮遷したという。)

(石造の民家。)

本取材時には立ち寄らなかったが、平磯海水浴場の近くの美味しい食堂を紹介したい。食堂兼旅館の原屋【食事マーカー】である。麺から丼物や定食までの多彩なメニューの中から、本日のおすすめのイワシ刺し身定食を女将に注文。暫く待つと、出てきた。

見た目はごく普通の定食であるが、イワシは脂が凄く乗り、生臭くなく新鮮な上、とろけるような滑らかさで、後味もすっきりしているのに驚いた。那珂湊の町食堂よりも遥かに美味しいと感じる。さすが、旅館も経営していることもある。女将に聞くと、今朝、水揚げされた地元産イワシを、大将が手際よく捌いたとのこと。人気店なので、昼食時は大変混んでいるが、時間を少しずらすとスムースに入店できる。平磯の訪問時には、是非、立ち寄ってほしい。


(食事処原屋。駅からも比較的近く、湊線訪問や海水浴の宿泊にもいいだろう。宿泊料金も良心的である。※追加取材時に撮影。以下同。)

(イワシ刺身定食。ご飯大盛りサービスで、税込み1,000円[時価]と安い。味噌汁も磯の香り満点。納豆も本場水戸で美味い。)

【食事処原屋】
火曜日定休、11時から19時30分まで営業。現金決済のみ。無料駐車場あり。旅館「シーサイド原屋」も経営。ひたちなか市平磯町1033。
シーサイド原屋公式ホームページ

(つづく)

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(※江戸定府)
徳川御三家として、水戸藩主は江戸に常在していた。治保公は、藩政改革のために帰国した。
(※浜降し祭)
昭和4年(1929年)まで、那珂エリアの村社の神輿が酒列磯前神社に集まり、合同の郷土祭兼浜降り祭「ヤンサマチ」を開催していた。30から40余(全村は48村/参加村数は、年度や書物により異なる)も集まった大祭であったという。同時に浜競馬も行われ、豊作・大漁・子孫繁栄を占った。

【歴史参考資料】
現地観光歴史案内板
写真で見るひたちなか市の名所・史跡(安島功・田所克己共著/平成24年6月発行/ひたちなか市立中央図書館所蔵)

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