湊線紀行(14)磯崎海岸歩き 前編

阿字ヶ浦(あじがうら)駅の見学を終え、時刻は11時を過ぎたとことである。昼以降終日は、鉄道から離れ、太平洋を眺めながらの海岸歩きをしてみたい。その前に腹ごしらえに行こう。無料シャトルバスの男性ガイドが二人いるので、この近くに食堂がないかと聞いてみる。駅前にはないが、海岸沿いと駅から少し離れた場所にいくつかあるという。海岸まで降りるのも急坂があり、行き帰りが大変なため、駅から内陸側に少し離れた寿司屋に行こう。

「また、寿司か」と思うが、まあいいだろう。肉の揚げ物よりは、体によく、消化も速い。車がすれ違いできる幅の道路を数分歩くと、二車線の交通の少ない通りに出る。交差点を右に曲がった先に、一軒家の寿司屋「喜の新鮨(きのしんすし)」がある。


(喜の新鮨[きのしんすし]。)

とても静かで休みかと思ったが、暖簾と看板が出ており、大丈夫そうである。カラカラと引き戸を開けると、一枚板のカウンター席と小上がりのあるこぢんまりとした店になっている。ランチメニューがあると聞いているので、大将にそれを注文。15分もすると出てきた。寿司に和え物、汁物、フルーツ付きで税込み1,620円(消費税8%の時に訪問)と、都内ならば、2,000円以上はする内容である。ネタも新鮮で、美味しく頂いた。


(ランチ上寿司 税込み1,620円。ランチ並1,080円や海鮮丼1,620円もあり、手頃に食べられる。※許可を受けて撮影。)

カウンター越しの棚上には、力士の手形色紙がいくつか飾られ、茨城県出身の横綱・稀勢の里(きさのさと)もあり、とても驚く。寡黙な大将に尋ねると、あの稀勢の里が来店しそうで、ここで26年ほど寿司屋を営んでるとのこと。この店の近くのバス停名は、前浜バス停と表示されており、「海辺ではないのに、なぜ前浜なのか」と聞くと、阿字ヶ浦の住民は古くから半農半漁を生業とし、海岸台地上の高台に集落があるためという。典型的な港町の那珂湊(なかみなと)と違い、この地域の特徴であるのが面白い。なお、前浜は阿字ヶ浦の旧町名でもある。「これからどこに行くのかい」と大将に尋ねられ、「阿字ヶ浦から平磯までの海岸歩きをする」と答えると、「おお、なかなかいいよ」と勧められた。

【喜の新鮨(きのしんすし)】
毎週木曜日定休、11時から20時まで、駐車場あり。
ランチは11時から14時まで・土日もOK。
現金決済のみ。ひたちなか市阿字ヶ浦337-5。

すっかりご馳走になり、熱いあがり(緑茶)を最後に頂く。大将と女将にお礼を言い、出発しよう。薄雲が多いが、日差しが強く、気温もかなり高くなってきた。5月上旬としては、初夏のような暑さである。一度、阿字ヶ浦駅に戻り、熱中症対策のため、飲料水とポカリスエットを自動販売機で購入しておく。

この阿字ヶ浦駅からスタートしよう。先ずは、海岸に降りてみたい。バスがやっと通れる駅前の細道を抜けると、阿字ヶ浦の総鎮守である堀出神社【祈りマーカー】がある。水戸の黄門様由来の神社であるらしい。木々が生い茂った小森の奥に拝殿が見える。


(駅前の細道。どことなく、昭和の雰囲気を感じる。)

(駅近くの堀出神社。)

境内脇にある由緒石碑を読むと、比較的新しい神社で、水戸の黄門様こと、水戸藩第二代藩主・徳川光圀公の命により、江戸時代初期の寛文11年(1671年)に創建。平成8年(1996年)に本殿の修復、拝殿と社務所の建て替えをしたとある。

また、神社名も珍しく、宇佐神宮(大分県宇佐市)を総本宮とする、八幡宮系の神社になっている。江戸時代の頃、前浜(現・阿字ヶ浦)と平磯の村境界の争いがあり、土地の検分をしていたところ、古墳を発見した。そこを掘ってみると、御神体(実際は、出土品と思われる)が出てきたため、祀ったという。「掘って出てきた」ので、そのままのユニークな神社名になっている。なお、古墳の正確な場所は、今はわからないとのこと。


(拝殿。参道は狭いが、奥は広い。背後の本殿は、江戸時代当時のもの。)

誉田別尊(ほむたわけのみこと/応神天皇のこと)を祀り、学問成就と厄除けの「八幡さま」と地元で親しまれている。境内には、光圀公の鎮め石や特産の干し芋栽培を広めた小池吉兵衛翁の胸像も安置されている。


(鎮め石。光圀公が発掘したと伝えられ、この神社に安置されている。)

(小池吉兵衛翁胸像。明治8年[1875年]・阿字ヶ浦生まれ。「干し芋の神様」として、顕彰されている。地元の株式会社マルモ初代社長で、明治時代にサツマイモ栽培と干し芋作りに着眼し、一大地場産業に育てた。)

海岸歩きの安全を祈願し、再出発しよう。海岸に降りる急坂を下る。高低差は約20mもあるので、少し長い。丁度、目の高さに水辺線がちらりと見えるのがいい。なんだか、夏休みの海水浴に来た気分になる。


(海岸への急坂を下る。)

急坂を下り切り、地元を代表する「つるやホテル」の脇の小路に入ると、直ぐに浜辺に出る。「東洋のナポリ」と比喩される美しい白浜が、弓状に1.5km続いている【海水浴マーカー】。ちなみに、イタリアのナポリには、もちろん行ったことがなく、本当に似ているのかはわからない。湊線開通の翌年、祝賀会に来賓した鉄道省(後の国鉄)国際観光局長の新井氏が、そのように称賛したことに由来するという。なお、別府や熱海も同様に名乗っているが、鹿児島県鹿児島市とナポリ市が姉妹都市を提携しており、そちらが一応本家らしい。


(阿字ヶ浦海水浴場全景。右手の遠くに見えるのは、常陸那珂港。)

(砂はきめ細かく、水もとても青い。)

この白浜の最南端の一角に行くと、立派な銅像が建立されている。湊鉄道の延伸や阿字ヶ浦の観光開発に尽力した、旧・前浜町議員の黒沢忠次氏である。湊鉄道開通前の阿字ヶ浦は、海岸沿いに白砂青松の荒れ地が広がるだけであったという。鉄道開通直後は、簡素な海の家が建ち並ぶようになったが、観光地として呼び込めるほどの魅力はなく、黒沢氏は大手新聞社と提携して観光客誘致を推進した。その後、本格的な海水浴旅館も多数建てられ、戦前には一大海水浴観光地になっている。なお、元々のここの地名(字/あざな)は、阿字ヶ浦ではなく、浜渚である。ここから南に3km付近の海岸が本来の阿字ヶ浦であり、観光宣伝のために借用した。終戦後、那珂湊市に併合する際に阿字ヶ浦町に町名を改称し、借用した地名が町名になったという。


(黒沢忠次翁銅像と茨城百景の碑。後ろには、磯崎漁港がある。※追加取材時に撮影。)

1980年代までの海水浴ブーム後も、夏の海水浴やサーファーの人気を集めていたが、最盛期の20パーセントまで来訪者が減り、今は落ち着いている感じである。また、巨大な常陸那珂港(ひたちなかこう/新港)ができると、潮の流れが変わり、白浜が侵食されるようになった。今は、白砂を投入しているという。やはり、人間の勝手な開発は、美しい自然を壊すものである。

しばし、白亜の美しい浜辺を眺め、とても癒やされた。ここから海岸沿いに南下しよう。海岸沿いにも、古刹や水戸藩由来の歴史的名所がいくつかあり、立ち寄りながらである。阿字ヶ浦海岸のメインストリートに戻り、砂浜の最東端に張り出した海岸台地に再び登る。車の交通は多いが、道路は狭く、歩道も全くないので、気をつけて歩く。なお、この急坂の麓には、湊鐵道由来の阿字ヶ浦クラブ(旧・鐵道倶楽部)【赤色マーカー】が今も残る。黒沢氏から提供を受け、休憩所、食堂、淡水プールや遊園地を造り、昭和2年(1927年)7月から湊鐵道が直営をした、阿字ヶ浦で最初にできた海水浴旅館である。現在は、展望風呂のある一般旅館として営業し、学生合宿も多いという。


(現在の阿字ヶ浦クラブ。開業当時は、湊線利用者が無料で利用できる鐵道倶楽部の名称であったが、後に鉄道会社から独立し、阿字ヶ浦クラブに改称した。)

(狭い急坂を登る。)

急坂を登りきると、住宅地の中に鬱蒼とした大きな森があり、古刹の酒列磯前(さかつらいそさき)神社【鳥居マーカー】が鎮座している。もちろん、参拝見学してみよう。一の鳥居(大鳥居)を潜ると、樹海のようなトンネル状の参道が続く。ほとんどが椿の古木で、この周辺は椿山と呼ばれていたという。茨城県の指定天然記念物になっており、椿の他、海辺の植物も混生し、学術的にも貴重な海岸森林の樹叢になっている。


(酒列磯前神社一の鳥居。)

(参道。)

300mほど参道を歩くと、小さな二の鳥居を潜り、視界が開け、広い境内に到着。真正面に社殿が構えている。詳しい創基は不明であるが、平安時代初期の斉衡3年(856年)とされており、ひたちなか市一の古刹である。平安時代の延喜式(えんぎしき/朝廷公認の神社一覧表がある)では、名神大社(みょうじんたいしゃ)であったことから、当時の京の都にもよく知れていたらしい。医薬の祖神の少彦名命(すくなひこなのみこと/通称・恵比寿様)を祀り、その「百薬の長」とされる酒の神・醸造の神としても信仰を集める。かつては、酒列磯前薬師菩薩神社と呼ばれていた。


(二の鳥居前から境内を望む。)

(拝殿。明治時代から戦前までは、国幣中社の扱いであった。)

戦国時代には荒廃していたが、江戸時代の水戸藩歴代藩主の崇敬も厚く、徳川光圀公の頃に境内を大規模に拡張し、一の鳥居近くの旧宮から現在の地に遷座。この大社殿が建てられ、復興した。拝殿のむくり屋根下には、日光東照宮の眠り猫で有名な名工・左甚五郎作と伝えられるリスとぶどうの彫刻がある。

大洗町の大洗磯前神社と兄弟社になっており、大洗は大名持命(おおなもちのみこと/通称・大黒様)を祀る。大名持命と少彦名命のふたつの神石が東の海から遠来し、別れて鎮座したためという。なお、酒列(さかつら)とは、海岸から列をなして海に続く岩礁を指し、この付近の海岸では南向きに傾斜しているが、逆の北向きの場所が一箇所だけある。これを「逆列(さかつら/同音)」と呼び、御祭神の由縁と重なって、「酒列」に変わったという。

なお、医薬と健康の神であるが、国作りの神でもあるので、祈願は何でも良い感じである。菅原道真公が少彦名命を学問の神様として信仰していたことから、地元学生の学業成就・合格祈願も多いという。最近では、宝くじの当選祈願が有名で、高額当選者が寄付した亀の石像があり、参拝後に撫でるとご利益があるという。


(高額当選者が奉納した石像「幸運の亀」。)

(亀石像の隣には、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(なりあき)公のお腰掛け石もある。御例祭の浜競馬の際に使われたもので、ここに移設し、保管しているという。)

(つづく)

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【歴史参考資料】
現地観光歴史案内板
酒列磯前神社参拝者向けパンフレット(発行年不明・神社社務所で入手)

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