小江戸川越めぐり その4

旧・銀座商店街の大正浪漫夢通りを突き当たると、川越の代表的観光エリアに入る。旧・武州銀行川越支店(現・川越商工議会所)の向かい側にも、ずらりと伝統的な商家が並び、周りの観光客から大きな感嘆が上がっている。

ここは仲町交差点から東に入った県道で、南に面した商家は、観光案内所、鰻料理店や茶店に今も使われており、保存状態は大変良い。向かいにマンションなどが建ち並んでいるので、ここだけタイムスリップしたような感じも面白い。また、商家の間には、大きな赤煉瓦の防火壁も見られる。なお、通りの片側ばかりに残っているのは、日当たりと湿気の関係であろう。日当たりの悪い向きの商家は、傷みが早かったためと考えられる。


(旧・武州銀行前の県道沿いの商家群。)

この並び中央にある茶店亀屋(山崎家住宅)【赤色マーカー】は、間口6間・奥行き8間の店蔵、袖蔵とアーチ門付き防火煉瓦壁のある豪商で、京瓦と千本格子を使った京風のデザインになっている。この亀屋は、蔵が建ち並ぶ一番通りの川越藩御用達和菓子司・亀屋(屋号は同じ)から明治初期に分家したもので、店蔵は明治38年(1905年)築になる。初代・山崎覚太郎は、茶の輸出、川越初の電灯事業や川越から大宮間を結んだ川越電気鉄道(馬車軌道の1,372mmの路面電車で、後の西武鉄道大宮線/現在は廃線※)の開業にも関わった地元の大実業家である。


(茶店の亀屋。※追加取材時に撮影。)

(袖蔵の東側にアーチ門付きの大きな赤煉瓦防火壁も残る。)

この商家群の東の外れには、巨大な蔵店が建っており、撮影やスケッチをする人達が大勢集まっている。かつては、足立屋と呼ばれた穀物問屋を営んでいた明治27年(1894年)築の原田家住宅【黄色マーカー】で、高い箱棟、大きな鬼瓦や三連観音開扉を備えた川越屈指の商家である。川越では、商家や蔵が連なっている場所が多いが、ここだけは一軒家のように建ち、それでいてこの威容である。間口は4.5間、奥行きは3間で、6畳の帳場と土間があるという。


(旧・足立屋の原田家住宅。※現在は廃業、内部は非公開。)

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少し戻り、仲町の交差点【A地点】に出よう。ここがあの蔵の町並みの玄関口で、北に直線420m先の札の辻交差点【北のB地点】までが、「一番通り」と呼ばれている川越観光のメインストリートである。

交差点角にも、古い商家・蔵や洋風建築の建物が集まっている。まだ、入り口の場所であるが、もの凄い混雑であり、東京の浅草にも負けない感じである。浅草との違いは、外国人観光客は少なく、日本人の観光客が圧倒的で年齢層も広い。色鮮やかな浴衣で散策する若い女性も多く、目を楽しませてくれる。やはり、懐かしい伝統的日本建築の町並みは、老若男女に関わらず日本人の琴線触れるのであろう。


(県道東側から仲町交差点に入る。)

交差点角には、マツザキスポーツ(マツザキ運動具店)と和菓子司・亀屋の蔵店が、通りを挟む門の様にある。東側の亀屋(山崎家住宅)【青色マーカー】は、天明3年(1783年)創業の川越藩御用達老舗菓子司で、裏の土蔵と製造所跡が山崎美術館としてオープンしており、大通り側に立派な黒蔵造りの店と袖蔵がある。明治の川越大火直後の明治26年(1893年)に再建され、店蔵は間口4間・奥行き2.5間、袖蔵は間口2間・奥行き2.5間で、火の手は冬の北風の煽られるため、北側に袖蔵がある。
川越藩御用達和菓子司・亀屋公式HP

4代目当主の山崎嘉七(かしち/山崎豊)は、川越を代表する豪商のひとりで、第八十五国立銀行や川越商工議会所の設立に関わったという。なお、大正時代に座売りから陳列売りに変更し、現役の和菓子店になっている。


(川越藩御用達和菓子司・亀屋。※混雑のため、追加取材時に撮影。)

(亀屋奥の山崎美術館。入館は有料500円であるが、茶菓の無料サービスがある。)

亀屋向かいの野球用品専門店として有名なマツザキスポーツ【緑色マーカー】は、野球シューズの5本歯スパイク発祥の店でもある。プロ野球選手の使っていた野球用品を展示しているそうなので、野球好きは必見であろう。なお、昭和24年(1949年)までは、砂糖商を営んでいた。

交差点角の蔵店(旧店舗)は、この通りの代表建築のひとつである。明治34年(1901年)竣工、今の貨幣価値で約3億円(当時は3万円)もかけて造られ、この角地の目立つ場所にあることから、とても気合の入った屋根装飾が施されている。なお、現店舗は西隣りにあり、この蔵店は倉庫になっている。


(マツザキスポーツの店蔵と町並み。間口4間、奥行き2.5間で、店蔵はやや小さいが、屋根の造りは他を圧倒する。)

マツザキスポーツの北隣には、洋風近代建築がふたつ建ち並ぶ。左は大正4年(1915年)築の二階建て、当時は猟銃や輸入自転車を販売していた旧・櫻井銃砲店で、後に田中屋(田中家住宅)になった【下の灰色マーカー】。現在は、アートカフェと和食レストランが入っている。外観は人造石洗い出し仕上げの洋風建築であるが、内部は和風の土蔵造りの和洋折衷、天辺の軒下に右書きの田中屋の文字が残る。なお、田中屋時代に、外観が改装されているらしい。ショーウィンドウには、輸入高級自転車が飾られていたという。


(旧・櫻井銃砲店と旧・山吉デパート。)

その右隣には、大正11年(1922年)築の旧・山吉(やまきち)デパート【上の灰色マーカー】がある。川越初の高級百貨店で、渡辺吉左衛門の呉服太物商・山田屋の店舗として開業し、昭和26年(1951年)に閉店した。三階建て鉄筋コンクリートも川越初で、エレベーターも装備したルネッサンス風デザインになっている。4本のイオニア式大石柱と二階外壁中央部の大きな唐草レリーフ、一階窓上の半円ステンドグラスが見所である。廃業後は、丸木百貨店(現・丸広百貨店)やキャバレーなどが入ったが、現在は、歯科医院が入っている。


(旧・山吉デパート。近年、耐震補強と復元工事を行い、往年の姿に復活した。)

(1階窓上の半円ステンドガラス。孔雀と椰子の木が描かれているハイカラなもの。窓まわりも大理石を使った豪華な造りである。)

人混みの流れに任せて、この一番通りを北に向かって歩こう。左右に古い商家や蔵店が点在するが、午前中から日当たりの良い西側に多い。この徳町荻野銅鐡店(旧・北野家)【茶色マーカー】は金物屋で、代々、「釜屋小兵衛(かまやこへい)」を名乗り、銅製の鍋やコップなどのほか、金属製の小さな仏像や置物も販売している。明治26年(1893年)の川越大火直後の建築とのこと。なお、北野家は鍛冶町(かじまち)の名主であったが、大火後に荻野家が引き継いだ。萩野家は東京日本橋にも店を持ち、文人との交流もあったという。


(徳町荻野銅鐡店。)

(庇上の看板もレトロである。※混雑のため、追加取材時に撮影。)

その先には、可愛らしい大正風洋風建築の長屋【黒色マーカー】が東西に伸び、女性向けのお洒落な雑貨店が入っている。築年は不明であるが、川越市の歴史建築物の認定プレートがあるので、大正から昭和初期頃のものだろう。両脇の尖塔、細い窓枠とシンメトリーなデザインがとても美しい。


(大正風洋風デザインの長屋風建築。※混雑のため、追加取材時に撮影。)

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そして、通り中央部の信号機付き横断歩道のある所【カメラマーカー】が、最も混雑しており、曹洞宗・長喜院【万字マーカー】の門前になっている。この川越を代表する蔵店の陶器店の陶舗やまわ、江戸時代からの老舗刃物商のまちかん本店、額装店の深善(フカゼン)などがずらりと並ぶ。現在も、この一番通り沿いの仲町・幸町・元町に30余軒の古い商家が残っており、千葉佐原や栃木県栃木市にもあるが、この圧倒的な軒並びの迫力は関東一であろう。


(長喜院門前の蔵店の並び。この一帯は、国重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。)


(やまわ横の長喜院参道。※混雑のため、追加取材時に撮影。)

殆どは、明治26年(1893年)の川越大火後に再建されたもので、防火性に優れる伝統的な蔵造りが見直され、続々と造られた。急勾配の瓦屋根の上に恐ろしく大きな箱棟を乗せて瓦を支え、頑固で堂々とした雰囲気である。また、磐城墨(いわきすみ/現・福島県いわき市特産の墨)を混ぜて黒くし、木賊(とくさ/茎が固く、砥石の様に使えるシダ植物)で磨き上げた黒壁が特徴になっている。なお、江戸時代初期の寛永15年(1638年)1月にも、大火で川越城の大部分と城下町の大半が焼失している。

特に角地にある陶器店のやまわ(原家住宅)は、この通りの代表建築として、テレビや雑誌などでもよく紹介されている。元々は、呉服商・山本平兵衛の店であった。明治の大火直後の明治26年(1893年)に再建された蔵店で、箱棟が今にも落ちそうな大迫力である。NHKの連続テレビ小説のロケも行われ、間口は狭いが、奥行きが長い鰻の寝床状になっており、後ろに住宅や土蔵を擁している。
陶舗やまわ公式HP


(陶舗やまわと刃物商まちかん本店が並ぶ。隣のまちかん本店も現役店舗で、包丁が店頭に沢山展示されている。)

(やまわの敷地奥にある土蔵では、陶芸体験ができるカルチャークラブとして使われている。※混雑のため、追加取材時に撮影。)

やまわの斜め向かいには、国登録有形文化財の旧・第八十五国立銀行本店(※)【円マーカー】も聳え、埼玉りそな銀行の支店として、今も使われている。大正7年(1918年)築、高さ約25m、当時流行していたネオ・ルネッサンス様式の洋風建築である。

この国立銀行は、横田家の第十一代五郎兵衛政徳や亀屋の山崎嘉七らが発起人となり、明治11年(1878年)に設立。横田家の屋敷の一角が提供され、開業した。なお、江戸時代の横田家は藩財政を支え、商家でありながら、武士格の勘定奉行の地位に準じていた豪商である。五郎兵衛政徳は、この国立銀行の取締役と二代目頭取を務めている。そして、戦時中の昭和18年(1943年)、武州銀行・忍銀行(おしぎんこう)・飯能銀行と共に埼玉銀行に合併され、同行川越支店になる。その後、協和埼玉銀行、あさひ銀行を経て、現在の埼玉りそな銀行になっている。


(旧・第八十五国立銀行本店。埼玉県最古の銀行である。窓の間の縦縞模様はサラセン縞と呼ばれ、イスラムがルーツ。)

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そして、やまわ先の路地を右に入ると、川越のシンボルである時の鐘【歴史的建造物マーカー】に到着。ご存知の人も多いだろう。櫓の前は、大勢の観光客の撮影会になっている。城下町の真ん中にある三階建ての櫓で、約730kgの時鐘が吊り下がっている。高さは16.2mあり、奈良の大仏と同じである。

江戸時代の寛永年間(1624-44年)に、当時の川越城主・酒井忠勝によって初めて建てられた時鐘櫓で、江戸時代の寛永の大火と明治時代の大火で焼失。現存するものは、江戸時代の姿を再建した三代目という。今も、1日4回(6時、正午、15時、18時)鐘を打ち鳴らす。また、鐘下に薬師堂【神社マーカー】があり、眼病に効く言い伝えがある。この付近は昔、箍町(たがまち/後に、多賀町と書く)と呼ばれ、桶大工が多かった。


(川越のシンボルである時の鐘と鐘つき通り。この通りにも、店屋がずらりと並び、観光客でごった返している。)

(鐘下の薬師堂。参拝者も絶えず、長い列が出来ていた。)

一番通りに戻り、もう少し北に歩くと、東側に寛政4年(1792年)築の川越最古の店蔵・大沢家住宅【星マーカー】がある。明治の川越大火で焼失しなかったことから、町の再建時の参考になった店と伝えられている。当初は、近江屋と呼ばれる呉服太物商であった。明治時代の店蔵よりも、屋根周りがスッキリとしたデザインになっており、白壁であったが、戦時中に空襲対策のために黒くしたという。なお、平成の大修理を行ない、江戸時代の竣工当時の趣になっているとのこと。国の登録有形文化財である。

間口6間、奥行き4間あり、この通りの中でも、かなり大きな店蔵である。1階は1室の大きな部屋で、土間、板床と31畳の畳敷きもある。一階は現店舗で、店以外の内部は非公開になっている。店蔵の装飾が簡素であるのは、江戸時代当時の藩主の居城である川越城よりも、豪華にしてはいけなかったためといわれている。


(大沢家住宅。現在は、民芸品店になっている。※混雑のため、追加取材時に撮影。)

(つづく)

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(※川越電気鉄道/西武鉄道大宮線)
新設されたばかりの帝国陸軍鉄道連隊の演習により敷設したため、軌道が脆く、脱線事故が多発した。しまいには、川越市民の不乗・廃止・国鉄線誘致運動にまで発展し、昭和15年(1940年)の省線川越線(現・JR川越線)が開通した翌年、廃線になった。
(※国立銀行)
明治初期に政府が定めた国立銀行条例により、民間資本で設立された銀行。国が設置・運営する銀行の意味とは違う。国立銀行ごとに紙幣の発行権もあり、全国に153の国立銀行が設置され、明治初期の地元殖産興業に大きく寄与した。明治15年(1882年)の国直営の中央銀行である日本銀行設立後は、紙幣発行権も停止され、普通銀行に転換していった。現在も一部の銀行がそのルーツを持ち、長野県の八十二銀行(第十九国立銀行と第六十三国立銀行の合併時に、その和にした)などがある。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
時薫るまち「小江戸川越散策マップ」(小江戸川越観光協会・2016年)
川越建物細見(川越市教育委員会・発行年不明)
瓦版川越今昔ものがたり(龍神由美・幹書房・2003年)

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