小江戸川越めぐり その5

一番通りの終点は、札の辻と呼ばれる大きな交差点【カメラマーカー】になっている。明治初期までは、高札場があり、城下町の中心地点であった。この十字路から、南は南町(現在の幸町)、北は北町(現在の喜多町)、西は高沢町(たかざわまち/現・元町の西側)、そして、東に本町と川越城があり、市役所付近に川越街道終点の西大手門があった。また、江戸時代には、灰市場がここで開かれ、穀市の日に肥料用の灰が取引されていたという。


(江戸の日本橋に相当する札の札交差点。当時は、高札場があることから、御判塚とも呼ばれていた。明治以降の中心地は駅寄りに移動している。※追加取材時に撮影。)

札の札交差点から東に向かい、川越城に行ってみよう。元町を東西に走る本町通りを歩き、川越市役所の前に到着する。耐震補強のごつい窓枠ダンパーが目立つ市役所の前には、川越城を築いた太田道灌の銅像(第2話で写真掲載済)があり、交差点反対側に手打ち蕎麦屋・百丈(ひゃくじょう)【丼マーカー】がある。

昭和7年(1932年)築の三階建て看板商店兼住宅建築で、元々は、湯宮(ゆみや)釣具店であった。外壁一面に簡易防火の銅板を打ち付けてあり、火災の被害が大きかった関東大震災後、関東一円で大流行した商店建築様式になっている。なお、緑色に見えるのは、十円硬貨が錆びた時にもできる緑青(ろくしょう)である。また、竣工当時は、緑青が無かったので、まばゆくばかりの金色(銅色/あかがねいろ)に輝いていたという。軒蛇腹や装飾柱などの銅板打ち出しの凝った洋風装飾も付けられており、国登録有形文化財に指定されている。


(旧・湯宮釣具店。現在は、蕎麦屋百丈が入る。外壁側面に「つり具」の箱文字が一部残る。なお、店内は和風建築である。)

市役所前から更に東に歩くと、中ノ門堀跡【史跡マーカー】が保存整備されている。ここには、市役所付近にあった大手門からの侵入を防ぐ2階建ての櫓門と堀があった。幅18m、深さ7m、右の西大手門側の斜面角度は30度、左の本丸側は60度もある巨大な空堀になっていて、川越城の規模の大きさと重要さが垣間見える。


(中ノ堀門跡。見学用の広場やベンチも設置されている。)

(市役所前の川越城配置図。水堀も張り巡らせた巨大な城であった事がわかる。)

次の郭町(くるわまち)交差点の先に、こんもりとした大きな木々が見えると、巨大な黒瓦屋根の川越市立博物館の前に到着。この南側に、川越城の本丸御殿【歴史的建造物マーカー】が構えている。周辺一帯は、緑が多く、市営野球場やプールも整備されている。

江戸時代後期の嘉永元年(かえい-/1848年)、当時の藩主・松平斉典(なりつね)が造営したもので、東日本唯一の現存する本丸御殿であり、幅三間の巨大な唐破風屋根があんぐりと口を開く。明治時代になると、城内の多くの建物は移築・解体されたが、この本丸御殿の玄関と大広間は解体されず、川越県庁の庁舎として使われた。その後、県庁が移転すると、公会所、タバコ工場、武道場や中学校の仮校舎として使われ、昭和42年(1967年)に大規模修理を行い、観光客に一般公開された。


(川越城本丸御殿。)

この唐破風の大屋根下から中に入り、左手の受付で見学料大人100円を支払って、パンフレットを貰う。玄関右手の36畳もある大広間は、御殿で2番目に大きかったといわれ、藩主に謁見する前の待機部屋と考えられている。謁見は南側にあった大書院で行われたが、明治時代初期に解体され、現存していない。なお、全体的な造りは、華美さを抑えたシンプルな武家屋敷の造りになっており、北にふたつ、南に四つの予備の間や詰所がある。ふたつの坊主の間(坊主部屋と坊主番詰)も、西側の廊下向かいにある。


(本丸御殿広間。松が描かれた杉戸で、隣の部屋と仕切られている。)

なお、ぐるりと360度回った大廊下の中心に、部屋が一列に並ぶ感じである。しっかりとした一枚板を横に並べた大廊下は、玄関のある東側はケヤキ、南から西側はツガやマツが使われており、公的空間と私的空間を分けているらしい。


(西側の大廊下。)

西の離れにある家老詰所に行ってみよう。明治時代初期に解体され、福岡村(現・ふじみ野市)の商家に移築されていたが、昭和62年(1987年)に戻された。江戸時代、藩主は幕府重臣の大老や老中でもあり、江戸城にいることも多かった。実質的には、家老が藩政を行なっていたのである。


(渡り廊下からの家老詰所。当時の場所の北隣に移築されている。)

この家老詰所は、小さな部屋(詰合)をいくつも集め、廊下部分が少ない。また、板床の廊下ではなく、畳になっている。中央部の八畳間のふたつと十畳間の三つが、主な部屋になっており、一番奥西側の十畳間が家老の部屋(家老詰所)である。


(年寄詰所から見た、二ノ間と家老詰所。左の日が差し込む方が中庭側。)

【川越城本丸御殿のご案内】
休館日は毎週月曜日(祝日は開館、翌日休館)、毎月第4金曜日(祝日は開館)、年末年始。
9時から17時まで(入館は16時30分まで)、見学料は大人一般100円、本殿隣に駐車場あり。
埼玉県川越市郭町2丁目13番地1(川越市立博物館の南)。
川越市立博物館公式HP「川越城本丸御殿」

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畳に座らせて貰い、少し休もう。御殿内は涼しく、暑さを少ししのげた。見学の後は、川越一の古社・川越氷川神社【鳥居マーカー】に参拝しよう。川越市役所や御殿の北に鎮座しており、徒歩10分程で到着した。
川越氷川神社公式HP

古墳時代の6世紀中頃の欽明天皇2年(西暦540年頃)に、現・さいたま市の武蔵一宮(現・大宮氷川神社)より分祀され、創建したと伝えられている。室町時代中期に太田道灌が川越城を築いて以来、総鎮守として、江戸時代の歴代藩主の信仰も厚かった。5柱もの神々が祀られており、家族であることから、家族円満と縁結びの神様になっている。最近は、若い女性達に人気があるらしく、浴衣姿の若い女性グループやカップルの参拝も多い。

東に木製大鳥居が聳え、巨木が生い茂る小さな森が境内になっている。この大鳥居は高さ約15m、平成に入って再建され、木製としては日本最大である。後ろにかなり下がらないと、天辺まで撮影できない。なお、掲げられた扁額は、あの勝海舟の揮毫とのこと。


(赤い大鳥居。拝殿前の南側にも、小さな石鳥居がある。)

今日は、七五三の参拝と重なり、老若男女で大混雑である。神前結婚式も執り行われており、神官や巫女も忙しそうに立ち回っている。拝殿の前後はガラスの扉で、向こうの本殿が透けて見えるのは、歴史の長い古社としては珍しい。この拝殿の左に八幡神社、右に護国神社の大きな境内摂社を配し、三つの社殿が並んでいるため、より狭い感じがする。


(境内中央の拝殿。大鳥居下まで、参拝者が並んでいる。)

内垣内の本殿は、嘉永3年(1850年)築の銅板葺き入母屋造りで、川越祭りの山車人形を題材とした彫刻があり、県の重要文化財になっている。なお、素盞嗚尊(すさのおのみこと/スサノオ)が主祭神である。先述の5神の関係を簡単に言うと、叔父夫婦、その娘と婿の夫婦、娘婿の息子で、婿が主祭神スサノオになり、息子は出雲大社の大貴己命(おおなむちのみこと/大国主)である。また、川越まつりと山車は、この氷川神社の秋の例祭がルーツになっている。江戸時代初期の寛永の川越大火後、藩主の松平信綱(のぶつな)が、「川越ほどの町に何の祭りがないのは、おかしいではないか」と嘆き、自ら神輿や獅子頭などを奉納したのが始まりである。


(本殿。拝殿と本殿を繋ぐ幣殿[へいでん]がなく、結婚式や祈祷の場合、本殿前に進んで執り行う。)

拝殿左の八幡神社前では、少し変わったおみくじを行なっている。初穂料三百円を払い、小さな釣り竿でおみくじを釣り上げる趣向である。右は赤色の「一年安鯛(あんたい)みくじ」、左は桃色の「良縁祈願あい鯛みくじ」で、特に、左は若い女性達や来日観光客に大人気で、ワイワイと大撮影会になっていた。


(おみくじを釣る。鯛の置物も縁起担ぎであろう。来日観光客もしきりに記念撮影をしていた。)

本殿と八幡神社間には、名物の絵馬のトンネルがあるので、通ってみよう。頭上にも、三角屋根の四列の結び棒があり、人気イラストレーター・大塚いちお氏作の馬が鼻を付き合わせた可愛い絵馬が奉納されている。また、社務所では、可愛いらしい御守りも沢山授与されており、境内の小石を持ち帰って大切にすると、良縁に恵まれる言い伝えがある。


(名物の絵馬のトンネル。)

(大塚いちお氏デザインの絵馬。良縁成就や子育て祈願が多い。)

絵馬トンネルの外側、八幡神社裏手に行くと、大きさや社殿様式もまちまちな境内摂社が並ぶ。拝殿前の大混雑とは対照的に、霊験な雰囲気が漂う。その中でも、特に大きな子ノ権現社は足腰を丈夫にする神社として、古くから、足腰の痛みのある時に参拝したという。履物が沢山吊り下がっているが、願掛け参拝時に一組頂き、治ったらお礼参りをして、二組奉納する習わしになっている。


(藪の薄暗い中には、境内摂社がずらりと並ぶ。手前の大木横が子ノ権現社。)

また、神社内のスタンプラリーも開催しており、若い人達や家族連れにも、楽しめるように工夫している。本殿の東側奥に進むと、樹齢600年のケヤキの御神木が聳える。


(御神木。石の廊下が整備され、幹に触れながら、参拝もできる。)

また、境内の裏に出ると、桜並木が続く小さな川が流れ、隠れた花見の名所であるとのこと。中山道上尾宿(あげお-/現・埼玉県上尾市)へ至った上尾街道の坂も一部残っている。江戸時代に新河岸川(しんがし)の舟運が開通するまでは、江戸への物資輸送は荒川の川港を利用していたため、人馬の往来が盛んだったという。

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川越氷川神社から、蔵が並ぶ幸町の一番通りに戻り、北寄り西側の川越まつり会館【博物館マーカー】に立ち寄ってみよう。祭りで曳き回される山車二台を入れ替えながら、観光客向けに年間を通じて展示している。入館料大人300円を支払い、祭りの準備の様子を展示している長い廊下を歩いて行くと、照明が落とされた大きな展示ホールに入る。


(二階展望デッキからの山車の展示ホール全景。)

川越では、町毎に独自の特徴のある山車を所有している。今日は、今成町の「鈿女(うずめ)の山車」と三久保町の「賴光(らいこう)の山車」が展示されている。高さは約8m(人形も含む)、重さは3-4トンある木造の大きな山車で、車輪も木造である。車軸固定式の3輪車、または、4輪車になっており、交差点を曲がる時は、「キリン」と呼ばれる人力ジャッキを下に入れ、車輪ごと山車を浮かして転回する。

近くで見ると、非常に大きい。上から人形、赤い幕、囃子台の三段仕様の車体部分は、赤い幕が張られた通称「あんどん(上段四方幕)」の中に人形を格納でき、更にあんどんが山車の中に下がるそうである。この二段エレベーターのような造りを、二重鉾(にじゅうほこ)という。元々は、将軍天覧の際、江戸の神田明神や赤坂山王の山車が、江戸城の城門を潜り抜けるための工夫であり、江戸型山車と呼ばれている。また、高さ約1.9mの人形は、町毎に自由に選ばれたもので、神が降臨する依り代とされている。徳川三代将軍徳川家光、弁慶、日本武尊など、実在した歴史人物や伝説上の人物が鎮座している。

山車の囃子台は左右に360度回転し、他の山車と鉢合わせした際、囃子台を正面同士に突き合わせる「曳(ひ)っかわせ」が行われ、囃子合戦で大いに盛り上がる。場合により、三、四台が集まる。これは、勝敗を決めるものではなく、町同士の挨拶の儀礼打ちとのこと。


(今成町の「鈿女の山車」。明治10年に元の鍛冶町から譲り受けた古形の山車。人形は、日本神話の天の岩戸伝説で舞った女神・天細女命[あまのうずめ]で、明治22年の作。)

(三久保町の「賴光の山車」。豪華さを競った明治30年頃の製作と伝えられる。当初の人形は、猿田彦尊であったが、昭和24年に源頼光になった。「らいこう」は、有職[ゆうそく]読みである。※)

丁度、祭囃子の実演が行われる時間である。野田五町(東武川越市駅の南西にある町)の小室囃子連が、演奏してくれる。小さなステージの前には、50人位の観客が集まってきた。

最初の曲は、「鎌倉」と呼ばれる静かな曲で、そのまま、子守唄「坊やは良い子だ。寝んねしな」に繋がって行く。笛がかなり調子外れであるので、子守唄のメロディも最初は判りにくい。赤い着物を着たオカメ女と赤子の人形を使い、優雅に踊る。ちなみに、女性ではなく、年配の男性が踊っているとのこと。オカメが下がると、次は軽快なヒョットコ男の踊りで、仕草が笑いを誘う。この「インバ(仁羽/他所では、ニンバとも)」のリズムは、「テンツク・テンツク・テンテン・ツクツク」と、誰もが思い浮かべるあのリズムである。そして、最後は「屋台」で、大きな大麻(おおぬさ)を振りかざす天狐の、前つんのめりのリズムと乱れるような締太鼓(右手の高音程の二連小太鼓)に乗った迫力のある舞が披露された。なお、この五人囃子に舞い手の組み合わせも、色濃く江戸の伝統を受け継ぐ。

なお、囃子は同じようにも見えるが、川越では、王蔵(おおぞう)流、芝金杉(しばかなすぎ)流、堤崎(つつみさき)流の三つの大きな流派がある。川越古来からの里神楽と合わさり、他の町から師匠を迎えたりして、独自に発展した。この小室囃子連は、江戸神田祭の流れを継ぐ王蔵流という。


(小室囃子連の天狐囃子「屋台」実演。祭本番では、八幡太郎の山車で演じている。)

現在、29台(うち1台は市の所有、丸広百貨店が寄進)の町山車があり、うち10台が県の指定文化財になっている。制作時期は、古いものは江戸時代、新しいものは平成とのこと。なお、新造した場合、1台1億3,000万円程かかるそうで、3,600万円を費やした製作中の山車が、オーナーの逝去のために製作中止になった。その山車もホールに展示され、内部構造や二重鉾の仕組みが良く判る。

なお、毎年の祭りには、全ての山車は出ないそうである。2日間で約300万円の町の経費負担が大きく、事前に話し合いをして決める。今年(平成29年度)は、21台の山車が出る予定で、山車を出さない町は自分の町内で囃子を上演したり、市所有の「猩猩(しょうじょう)の山車」に乗る。10年に一度は、全車を出す決まりがあり、市制記念などの特別イベント時には全車が出る。なお、東京の祭りは、明治42年(1909年)の深川祭以降、山車から神輿へ主役が変わってしまった。川越の山車はかつての江戸の祭りの生き写しであり、明治の川越大火後の明治30年頃には、本家の天下祭りの山車よりも豪華になっていた。

【川越まつり会館のご案内】
休館日は毎月第2・第4水曜日(祝日は開館、翌日は休館日)、年末年始休館と臨時休館もあり。9時30分から17時30分(4-9月は18時30分)まで。入館は閉館時間の30分前まで。専用駐車場なし。入館料は大人一般個人300円。川越市元町2丁目1番地10(一番通り北寄り西側)。
川越まつり公式HP「川越まつり会館」

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豪華絢爛の山車と囃子実演を楽しみ、通りに出ると、更に混んできた。まつり会館の斜め向かい東側には、この通りの中でも、一風変わった商家が建っている。

伝統的な店蔵の北棟と中央通路付き看板商店建築の南棟が合わさっている長島家住宅【青色マーカー】である。和洋合体が面白く、北棟は明治34年(1901年)築、南棟は大正11年(1922年)に板葺き町屋を取り壊し、建て替えられた。敷地全体を防火土蔵壁で囲っているのも、特徴になっている。南棟には、観光客向けの和風小物を売る店が入り、大いに賑わっていた。


(向かいにある長島家住宅。南棟玄関上には、「長島(丸の中に幸)乾蔵」と左書きで書かれている。現在は、創作ちりめん店の布遊館[ふゆうかん]が入る。)

(つづく)


(※有職[ゆうそく]読み)
人名を音読みすること。元々は、和歌の歌人を音読みしたことから。
例・藤原定家(さだいえ)→ていか、伊藤博文(ひろぶみ)→はくぶん。

【参考資料】
現地観光案内板・解説版
時薫るまち「小江戸川越散策マップ」(小江戸川越観光協会・2016年)
川越建物細見(川越市教育委員会・発行年不明/川越市教育委員会より譲受)
瓦版川越今昔ものがたり(龍神由美・幹書房・2003年)
川越城本丸御殿見学者向けパンフレット
川越まつり会館見学者向けパンフレット

※川越城本丸御殿・川越氷川神社・川越まつり会館は追加取材時の訪問。

2017年12月2日 ブログから転載

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