上高地線紀行(4)旧・島々駅跡

上高地に行きたいところであるが、時間も大幅にオーバーしてしまうので、今回は諦めよう。見上げると、すこぶる気持ちのいい青空が広がっている。少しばかり、新島々駅の周辺を散策してみることしにし、足を伸ばして、廃止された旧・島々駅跡に行ってみようと思う。いわゆる、廃線探訪である。国道沿いの片道1キロメートル弱程度の距離なので、見学時間も含め、往復1時間もあれば、大丈夫であろう。


(旧・島々駅の復元駅舎横から、折り重なる北アルプス稜線を望む。)

出発前にトイレを済まし、新島々駅改札口の軒下の露店を覗くと、地元産の果物や菓子、飲料などを綺麗に並べて販売している。上高地などに向かう観光客相手に長年商売しているらしい。「どうぞ、(桃を試食で)食べてって」と店番のお婆さんが言うが、これから徒歩で旧・島々駅跡に向かうので、重く嵩張る果物は買うことができない。その旨を伝え、代わりに、間食代わりの菓子パンとポカリスエットを購入。詳しく尋ねられなかったが、私企業である鉄道会社の敷地内で商売をしているので、かつては、駅構内売店を経営していたのかもしれない。昭和後期の旧駅舎の写真を見ると、国道側の島々寄りに売店があったようである。

駅前の国道158号線を左に行こう。歩道付きの2車線の道路は、幅員も広めで、アスファルトも厚い。途中の上高地・平湯温泉を経由し、松本と高山を結ぶ高規格国道の貫禄がある。もちろん、上高地線開通時は、舗装されておらず、砂利道であった。観光客や登山客で鈴なりのボンネットバスが、車列を成して走っていたという。

なお、この国道は「野麦街道」と呼ばれているが、歴史上の野麦街道と異なる。野麦峠(標高1,672メートル)は越えず、安房峠(あぼうとうげ・標高1,811メートル/別称・平井峠)を越えるのである。大竹しのぶ主演の映画「あゝ野麦峠」でよく知られる本来の野麦街道は、乗鞍岳の南を経由し、松本には直結せず、藪原(やぶはら)に南下し、中山道に合流。奈良井と塩尻を経由して、松本に至った。現在は、岐阜県側の国道361号線の一部と岐阜県道39号線、長野県道39号線(県境を越え、同じ号線)と26号線になっている。本来の野麦街道の歴史は古く、中世の鎌倉街道をルーツとしている。後には、江戸や信州に通じることから、江戸街道や信州街道とも呼ばれていた。日本海の海産物を信州に送り、米や清酒を飛騨に運ぶ地域交易路として栄え、正月に食べる祝いの寒ブリ(飛騨ブリ)も運んだので、「ブリ街道」の別名もある。ちなみに、松本での寒ブリ1本の年末価格は米1俵(4斗/現在の60キログラム)に相当し、約2万円したらしい。

現在の野麦街道(国道158号線)は、戦国時代、高山と松本を結ぶ最短距離の脇街道(脇往還)として、整備されたという。学術的には、「街」の漢字を取り除いた「野麦道」とされ、一字違いでまぎらわしいのも、混同する原因と思う(※)。飛騨(高山)側では、武田信玄が見つけたとされる平湯温泉から、平湯街道とも呼ばれている。江戸時代に銀山も発見され、番所も置かれて、往来も賑わった。しかし、江戸時代後期に飛騨国が天領(幕府直轄領)になると、次第に寂れ、寛政2年(1790年)に安房峠は閉鎖されという。なお、冬季や安房峠閉鎖後は、高山から野麦街道を東進し、野麦峠を越えた。寄合渡(よりあいど)から北上し、野麦道に抜けて、松本に向かうショートカットがよく使われていた。

[凡例]
赤ライン→「野麦道」。現在の野麦街道こと、国道158号線。安房峠・平湯温泉経由。
青ライン→「野麦街道」。本来の野麦街道。映画の舞台はこちら。野麦峠・藪原経由。
黄ライン→両道を結ぶ、よく使われていたショートカット。寄合渡・入山経由。

赤星は安房峠、青星は野麦峠。両峠の間の山は乗鞍岳。
黄星は中山道藪原宿。温泉マーカーは平湯温泉。線路マーカーは新島々駅。
※ラインは正確なルートを示したものではなく、イメージになる。

新島々駅周辺に観光施設はないが、駅斜め前に大きな酒屋兼土産店「こばやし」や、小さなビジネス旅館「石川旅館」、駅員御用達の食堂という「赤松ドライブイン」がある。殆どの民家は農家らしく、国道沿いにも、緑々とした美しい水田が広がっている。大屋敷や土蔵を構える旧家もあり、狭い山谷であるが、昔から比較的豊かな地域と感じる。


(新島々駅から左へ行く。長い上り坂が続く。)

(上赤松集落で最も大きな旧家の土蔵。状態も非常によく、美しいなまこ壁になっている。)

新島々駅から線路は、このまま国道と並行して、山谷の南側を走っていた。駅からしばらくは国道から離れており、線路跡は見えない。山側の路地に入ると、農道化した線路跡があり、レールや架線柱は撤去されていた。


(農道化した線路跡。)

国道のカーブしている脇には、小さや社が祀られ、大きな石碑や石仏が並んでいる。国道側ではなく、梓川に社の正面が向いているのが、面白い。取水口跡碑、戦勝記念碑、馬頭観世音、道祖神や風化した小さな石仏もあり、ここに整備移設されたのかもしれない。とりわけ背の高い戦勝記念碑は、明治37・38年(1904・1905年)と刻まれ、日露戦争のものである。この近辺に住む深澤家が建立したものらしい。


(国道脇の小さな社と石碑群。)

(取水口跡碑と日露戦争戦勝記念碑。)

しばらく行くと、山中に突然、純和風白壁の酒屋がある。地元と観光客相手に地酒を扱っているらしい。店頭左手に銘柄のパネルが張り出され、「いくつ判るか」の試験のようである。母屋の横には、端正な土蔵も並ぶ。


(深澤酒店。残念ながら、店主の高齢と後継者不在のため、令和元年[2019年]9月に閉店したとのこと。)

(銘柄のパネル。普通の酒屋と違い、こだわりの美味しい酒を厳選し、販売しているという。)

(母屋の並びの土蔵。屋根が浮いているのは、通風、防火や断熱効果を得るため。)

更に進むと、山谷は狭くなり、国道が南側の山際によると、道床跡らしい一段高い土手が続いている。草木が生い茂り、地面が見えないが、緩やかな勾配とその幅から線路跡と判る。すると、急に開けた場所があり、小さな神社が鎮座している。ここが、昭和58年(1983年)9月28日夜に台風10号により、線路が埋没した被災場所になる。完全に地形が変わっているので、すぐに判る。

この場所の山側から、沢が下り、整備されたコンクリート製水路に豪快に水が流れるが、この沢伝いに3,000立方メートルの大量の土砂が押し寄せたという。当初は、バスで代行運行をし、早期復旧を見込んだが、この沢の治水工事も行わないと、再度被災する危険性を行政から指摘された。そのため、線路復旧見積額の2,000万円では足りなくなり、巨額の資金の調達は困難として、翌年の昭和59年(1984年)12月に新島々から島々間の廃止を決定したのである。


(台風10号の被災場所。左手のコンクリート製枡が、沢水が下る水路である。)

被災場所を過ぎると、ますます山谷は狭くなり、両側から切り立った山肌と樹木が迫る。歩道もなくなった。国道は綺麗であるが、人家はなく、観光客相手の果物販売と植木販売の店がぽつんとある。


(被災場所から更に進む。)

線路跡は、そのまま一段高い場所にあり、架線柱と思われる木製電柱もちらほらと見かけられるようになる。長年放置したため、等間隔すべてではなく、蔦なども絡まっている場合も多い。ビームや架線は張られていないため、撤去されたらしい。


(ぽつんと残された木製架線柱。)

緩やかに左カーブをすると、急に右手の山肌が後退し、明るく視界が広がる。旧・島々駅があった前淵(まえぶち)集落に到着。前述の通り、字(あざな)と駅名が一致していないのは、更に梓川上流2キロメートルにある、北アルプス登山の有名ベース地であった島々の名を借用していたためである。


(前淵集落に到着する。)

現在の前淵集落は、国道の拡張工事により、集落内を通らないバイパスができている。集落中心部に駅があったらしいので、国道を横断し、向かいの旧道に入ろう。信号機付き横断歩道はなく、車列も途切れにくく、上りも下りもかなりの速度で走って来るので、危険である。ヒヤヒヤしながら、十分に気をつけて渡る。

比較的大きな集落であるが、人気はなく、静まり返っている。かつては、上高地や北アルプスに向かう大勢の観光客やバスの発着で賑わったというのが、嘘のようである。弧を描いた旧道の中ほどに、大きな空き地があり、ここに旧・島々駅の駅舎があったという。今は、ハイシーズン時のアルピコ交通の観光バス駐車場として、使われているらしい。


(前淵集落旧道。右手の空き地が、バス乗り場跡らしい。)

(ハーフティンバー風民家と土蔵。商売をしていた跡があるが、何屋かは判らない。)

(旧・島々駅跡地。)

駅舎の向きは旧道側に正面が向き、現在の国道バイパス上にホームがあった。当時の写真を見ると、駅舎よりも線路が一段低く、階段とスロープで下り、ホームに構内踏切で接続。島式ホーム1面2線と貨物側線が1本敷かれ、駅舎横に木材が大量に野積みされていた。

周辺を見渡し、島々駅があった当時の面影はないかと探す。それほど時は経っていないが、本当に残っていない。駅前旅館兼食堂と商店、バス乗り場跡らしい小さな空き地があるのみになっている。しかし、国道バイパスに面して「山麓島々館」と呼ばれる蕎麦屋があり、昔は旅館を営業していたという。旧道側の軒下に、当時の観光案内看板がぽつんと掲げられており、往年を感じさせる唯一のものである。向かいのバス乗り場跡の隅には、バス停名や時刻表が外された停留所のフレームが、打ち捨てられていた。


(駅前旅館兼食堂「千代美」と商店跡。)

(島々館裏手の観光案内看板。島々駅の表示がある。島々駅からのバス接続図になっている。)

(つづく)

□□□

(※街道)
幕府公認の道路のみ、「街道」の名を冠していた。野麦道などの脇往還は主要街道の間に無数にあった。

※旧島々駅跡への散策は追加取材になる。所要時間は約1時間。

【歴史参考資料】
週間 日本の街道64 郡上街道と野麦街道(講談社・平成15年発行/街道の歴史について)

©2020 hmd
文章や画像の転載・複製・引用・リンク・二次利用(リライトを含む)や商業利用等は固くお断り致します。