上高地線紀行(3)新島々駅

定刻の10時40分に終点・新島々(しんしましま)駅に到着する。横幅の狭い島式ホームに乗客がどっと降りる。松本からの乗客の殆どが、この終点まで乗り通し乗車をするので、やはり、観光登山鉄道である。


(アルピコ交通オリジナルのホームの建て植え式駅名標。)

改札口横の精算口では、鉄道とバスの乗り継ぎ乗車券を購入する長い列が出来、混んでいる。先を急いではいないので、ホーム周辺を見学してみよう。


(改札口案内とバスの液晶式発車時刻案内。日本の国際的観光地でもあるので、多言語案内をしている。)

(乗り継ぎ乗車券を買い求める乗客と改札口。)

最後の第3次上高地線開業(波田から島々間)後の追加設置駅で、当初は、赤松駅と称していた。長らく、ひと駅先の島々駅が終点であったが、上高地方面へのバスターミナルが手狭になったため、昭和41年(1966年)に当地に移転し、同時に新島々駅に改称した。そのため、駅所在地の字(あざな)や付近の集落名と一致していない。なお、筑摩電気鉄道の敷設予定図(大正9年)では、上赤松駅として駅設置が計画されている。諸般の事情により、開通時に間に合わなかったらしい。

開通から2年後の大正13年(1924年)8月に開業、起点駅の松本から13駅目(開業時は11駅目)の終点、14.4キロメートル地点、所要時間約30分、松本市波田上赤松、社員配置の有人駅である。山に入っていないので、標高が低いと思われがちであるが、梓川(あずさがわ)扇状地の扇頂部の狭い川谷にあり、700メートル程ある。東京西部の高尾山(たかおさん/599メートル)よりも高く、奥多摩の御岳山(みたけさん/929メートル)よりは低く、それらの中間くらいになる。なお、松本駅は585メートルあるので、100メートル弱を登って来たことになり、全区間平均勾配率は7.9パーミルになる。

元々、列車交換可能な途中駅であったので、終着駅に改築した取って付けた感がある。ほぼ東西に配された島式ホーム1面2線の線路終端方に、ホームから降りる階段と警報機や遮断機のない構内踏切が置かれ、駅舎改札口にコの字に接続している。ホームと線路は山際ぎりぎりに寄り、構内はかなり狭い。ダムの建設資材を輸送していた頃には、資材を下ろす側線があったというが、現在は撤去されている。


(構内踏切付近からホームを望む。番線は振られていないが、右手の山側が本線になっている。左手の副本線に電車を停める場合もあり、電留線も兼ねる。)

開業当時の終点であった島々駅は、新島々駅から更に1.3キロメートル山に入った場所にあったが、昭和58年(1983年)9月28日の台風災害により、新島々から島々間の線路が土砂に埋没。復旧困難になったため、翌年の昭和59年(1984年)12月に新島々から島々間を正式に廃止した。以降、上高地線の終点とバスターミナルを併設し、北アルプスへの玄関駅になっている。

また、戦後昭和の高度成長期の登山ブーム時には、名古屋発新新島々行きの国鉄直通臨時急行「こまくさ」が、昭和42年(1967年)7月から運転され、名古屋や関西の若者達が押し寄せたという。当時、中央西線の中津川から塩尻間は非電化(※)であったため、上高地線内も国鉄キハ58形2両編成で運行。急行「あずみ」(名古屋発長野行)に併結され、翌朝4時過ぎに新島々に到着した夜行気動車急行であった。帰路(上り列車)は、朝の9時台に新島々を発車し、松本から昼行急行「第一しなの」(長野発名古屋行※)に併結した。なお、上高地線内も急行運転になり、下り列車は波田のみ、上り列車は波田・森口・新村・信濃荒井に停車している。昭和48年(1973年)5月まで運転された。


(駅舎通路側からのホーム全景。古いホームの擁壁も残っている。昭和56年[1981年]撮影の写真を見ると、ホームは全面未舗装で旅客上屋もない。)

ホーム端に行ってみよう。かつての最盛期には、最大3両編成で運行されていたので、その分の有効長がある。松本方は水力発電所の脇を通過し、真っ直ぐに線路が伸びる。このまま、通称「車坂」と呼ばれていた道路横の長い勾配を登る。反対側の島々方・線路終端方は、50メートル程線路が伸びるが、木々の緑の中に消えている。


(松本方。右手の変電設備は上高地線のものではなく、発電所の設備である。)

(線路終端方。電留線として使われることもあるらしいが、レールの踏面も錆び、あまり使われていないらしい。線路脇に14.5キロメートルのキロポストもある。なお、公式の営業キロは14.4キロメートル。)

やっと、改札口の列が空いてきた。外に出てみよう。自動改札機はなく、昔ながらの鉄パイプ製ポールに初老白髪の駅員氏が改札掛をしている。改札口正面には、同じアルピコ交通の大型観光バスが並び、上高地、乗鞍高原(休憩村)、白骨温泉方面に分かれ、案内係が大きな声で誘導している。また、安房峠を越え、高山方面の特急バスや東京直通高速バスも発着する。なお、バスは電車からの乗り継ぎが完了してからの発車になり、発車時刻を気にしなくても良い。その点は、同一会社の乗り換えの利点である。ここで目的地別のバスになるので、乗車間違いをしない様に係員が繰り返し案内をしていた。なお、上高地へは約38キロメートル・バス所要時間約1時間5分、乗鞍高原と白骨温泉へは約30キロメートル・約1時間かかる。


(改札口周辺。)

(電車とバスの片道乗車券が、一台の自動発券機で買えるのは珍しい。往復切符は有人の出札口で発券になる。)

非常に大きな平屋建て駅舎になっている。バスターミナルに直結されているので、普通の駅舎と構造が少し違う。なお、平成14年(2002年)7月に建て替えられており、先代はかまぼこ型屋根の駅舎であった。妻面の屋根の一部がせり出して、雨風除けの上屋になっており、バスターミナルの表示がある。国道に面した方に駅名が掲げてあるので、一応、国道側が正面になるらしい。


(バスターミナル側の駅舎外観。国道側の軒下では、年配女性が、菓子やパンなどの軽食、地元産果物などを露天販売していた。)

(国道側の駅舎外観。)

国道寄り駅舎内には、10畳程の長方形の屋内待合室がある。日中は、バスに直ぐ接続するため、利用者は少ないらしい。駅時刻表もあり、画家・イラストレーターの吉永直子氏筆の「新島々えきなかギャラリー」が設置されていた。上高地線などの鉄道風景を描いた水彩画が展示され、電車内のトレインギャラリーにも、氏の水彩画が展示されているとのこと。


(駅時刻表。「あんしん」の緑色表示は、高齢者の利用促進と補助のため、専任の案内係が乗務する。車内精算や福祉バス回数券を発券している。)

(吉永直子氏筆の水彩画。上高地線は上の3枚になり、左から、新村から三溝間、下島から波田間、渚から信濃荒井間。下の3枚は、東海道本線根府川付近、中央東線国分寺付近、信越本線安中付近を描いている。)

観光客や登山者を乗せたバスが次々に発車し、静かな駅に戻る。駅前は国道158号線に面しており、この国道が上高地や飛騨高山まで結んでいる。周辺に人家は少なく、観光施設もない。国道向かいには、開業当初の終着駅・島々駅の木造駅舎があるので、行ってみよう。色褪せたブリキ看板の歓迎門を潜り、無料パークアンドライド市営駐車場の一番奥に、ふたつの建物からなる木造駅舎が保存されている。


(駅向かいの歓迎門とパークアンドライド市営駐車場。)

現在は、松本市波田観光案内所になっているが、使われている様子がなく、休館状態らしい。かつては、地元農産物の直売やギャラリーの展示もあったという。内部を一般公開すればいいと思うが、上高地方面に直ぐに向かう観光客が殆どなので、素通りしてしまうためであろう。

新島々から島々間の廃止後、開業以来の島々駅の駅舎は解体されてしまったが、懐かしむ利用者や登山者の要望が多く、残されていた設計図を元に波田町が平成3年(1991年)に新築した。そのため、移築ではなく、復元駅舎になっている(※)。なお、当時の駅舎と写真を見比べてみても、非常にそっくりに造られている。しかし、オリジナルには、駅出入口左右の外灯や右側2階建て正面左側の両扉がなく、平屋建て屋根上のストーブ煙突があるなどの相違点が見られる。


(復元駅舎の旧・島々駅。鉄道模型のストラクチャーモデルにもなっている名物駅舎である。大棟から続くスラントのある拝み[おがみ]など、デザインも凝っている。)

(裏手の改札口側。屋外の臨時改札口も設けられている。)

ハーフティンバー様式のヨーロピアンアルプスを彷彿させるハイカラなデザインは、開業当時から人気があったのであろう。正面出入口上の「旧島々駅舎(右書き)」は復元新築後のもので、オリジナルには「松本行電車(右書き)」の大きな看板が掲げられていた。下山した登山者にとっては、見た瞬間、「無事に下界に戻って来れた」と安堵したに違いない。駅舎正面のどこにも、島々駅の駅名標は掲げられていなかった。

ここで、行き止まり盲腸線の地方ローカル線のお決まりともいえる、上高地線の延伸計画(構想)について触れてみたい。筑摩電気鉄道以前の安筑軽便鉄道計画時は、この新島々よりも更に梓川を遡った稲核(いなこき)【赤星マーカー】を終点とした。その後の再申請では、稲核よりも松本寄りの龍島【青星マーカー】までになり、免許が下付されている。なお、本来の島々【黄星マーカー】は龍島の対岸になる。古くから、北アルプスの登山基地として有名な集落であり、下流の前渕にあった島々駅【電車マーカー】もその名を借りていたという。

また、大正池を擁する上高地に直接向かう鉄道にしたかったと思われるが、当時の鉄道技術力や地方資本だけの開通はかなり難しく、国も懐疑的であったらしい。開通できる現実的な場所までの免許を与えたと思われる。当時の鉄道省総務課長が、発起人兼初代社長である上條信の旧制中学の先輩で、「そんな所に鉄道を敷いても、採算が取れない」と軽視していたともいわれ、地元の有力代議士に働きかけたと伝えられている。

殆ど知られていないが、島々から安房峠の南をトンネルで抜け、平湯温泉を経由、乗鞍岳を源流とする高原川に沿って下り、国鉄神岡線(後の第三セクターの神岡鉄道、現在は廃線/猪谷[いのたに]から神岡間)に接続する「信富鉄道」の構想があったというので、驚きである。その名称の通り、猪谷からは高山本線に連絡し、最終目的地は富山である。東京から富山間は、国鉄既成線の大糸線や信越線経由よりも路線キロが短く、所要時間の比較計算もされていた。条件や詳細は不明であるが、路線キロは100メートル単位、所要時間は分単位で比較しており、かなり綿密に計画されたらしい。

【東京から富山までの予想所要時間】
信富鉄道経由 367.4キロメートル 特急で5時間5分、急行で5時間51分。
大糸線経由 421.0キロメートル 特急で6時間38分、急行で7時間10分。
信越線経由 416.0キロメートル 特急で6時間18分、急行で7時間7分。
(※当時の信富鉄道路線略図資料より抜粋。)

[凡例]
赤線は信富鉄道(島々から神岡間)、青線は旧・国鉄神岡線(神岡から猪谷間)、
緑線は現・高山本線(富山口/猪谷から富山間)。

赤星マーカーは新島々、青は平湯温泉、黄は神岡、紫は猪谷、灰は富山。
温泉マーカーは浅間温泉、茶星は上田。

※線やマーカーは、正確な場所やルートを示したものではなく、参考イメージになる。
※国鉄神岡線の終点は、国鉄時代は神岡駅、第三セクター鉄道時代は奥飛騨温泉口駅に改称。

おそらく、昭和41年(1966年)の国鉄神岡線開通が刺激になっているらしいが、松本電鉄の公式記録はなく、昭和50年代に地元で企画が上がったという。しかし、開業時に島々駅から先の開通を断念していることやモータリゼーション化が進み、現在の北陸新幹線を含む整備新幹線構想も政府決定されていた。そして、新島々から島々間の台風被災の廃線により、立ち消えになったらしい。実現乏しい構想であったと思われるが、開通していれば、風光明媚な国内第一級の山岳路線になっていたであろう。「もし、ならば」の空想鉄道世界もなかなか楽しい。

また、島々線開業後の大正13年(1924年)には、松本駅前から市内の浅間温泉【温泉マーカー】を結ぶ浅間線(軌道線。路面電車のこと/5.3キロメートル)も開業させている。この浅間線から東進し、更に山を隔てた上田【茶星マーカー】に延伸する上松鉄道計画もあったという。なんと、終戦直後、実現に大きく動く。上田電鉄との合弁会社・上田松本電鉄を設立し、地元からの賛同や国から免許も下付されたが、険しい筑摩山地を抜けるトンネル工事が難しく、諸般の事情もあって計画は流れ、未成線になっている。

初代社長の上條信は、この上松鉄道のほか、松本から長野方面や諏訪方面などの鉄道延伸計画を考えていた。特に、松本から諏訪への松諏鉄道は有望で、免許も下付されたが、着工できなかったという。以前、西松本駅にあった変電所跡の建物は、この松諏鉄道計画の名残であった。

(つづく)

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(※急行こまくさ)
同時期に、奥羽本線の山形と秋田間を運行した同名の急行こまくさがあるが、別の列車である。
(※中津川から塩尻間の電化)
昭和48年(1973年)5月に電化。中央西線の名古屋から塩尻間の電化が完了した。中央西線は複線化を優先し、電化は遅かった。
(※急行しなの)
今や中央西線の看板特急であるが、元々は、準急から始まり、急行化を経た格上げ列車である。
(※旧島々駅について)
観光パンフレットや書籍などでは、移築とよく紹介されているが、誤りである。駅舎の老朽化も激しかったため、廃線から3年後の昭和63年(1988年)に取り壊された。旧駅舎の一部建材を活用し、平成3年(1991年)に波田町が復元した。松本市役所商工観光部観光温泉課に確認済み。

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