上高地線紀行(10)松本市内観光 その2

大方の観光客はこの松本城を観て満足し、駅方面に引き返す場合が多いが、城の北側にも名所があるので、行ってみよう。松本神社【鳥居マーカー】の脇を北上し、突き当りの小学校を左折。道なりにそのまま進むと、洒落た洋館がふたつ建っている。

国重要文化財の旧明智学校校舎【赤色マーカー】は、明治政府の学制発布直後の明治6年(1873年)に開校した、国内でも最古の小学校のひとつと伝えられている。国の重要文化財に指定され、大切に管理されており、今でも現役校舎のような佇まいを保つ。観覧料(大人300円)を払えば、内部の見学もできるので、立ち寄ってみよう。出入口横の小屋で観覧券とパンフレットを貰い、校庭まで進むと、白亜の塔がシンボルの美しい校舎を真正面から眺められる。


(旧明智学校校舎。)

元々は、江戸時代の松本藩の藩校をルーツとし、学制発布前の筑摩県学(校)を経て、発布後翌年に明智学校になったという。開校当時は、廃仏毀釈で廃寺になった寺の建物を再利用していたが、明治8年(1875年)4月にこの新校舎の建築が始まり、翌年4月に竣工した。なお、総額1万1千円の建築費の7割は、地元松本の人々の寄付で賄われた。

正確には、和洋折衷の擬洋風建築であり、東京の開成学校(現・東京大学)の校舎を参考にした。風見鶏が立つ八角形の白塔とギヤマンガラス(ステンドグラス)をはめ込んだ洒落た造りは、東京から遠く離れた山国の松本の人々に大いに驚かれたであろう。なお、河川改修による保存のため、女鳥羽川の辺りから現在地に戦後移築され、新築当時の姿により正確に復元されている。


(正面玄関。この部分は和洋折衷の造りが顕著に現れている。唐破風屋根に天使の彫刻と、コーニス屋根に龍の彫刻があり、奇妙な同居である。)

中に入ってみよう。正面中央に玄関があるが、観覧者は建物の東側から入る。土足厳禁なので、靴を預けて上がると、飴色の総板張りの廊下が真っ直ぐに延びる。小生の小学校時代は、高度成長期に大量に建設された鉄筋コンクリートの校舎であったが、1、2世代上の人であるならば、非常に懐かしく感じるであろう。こぢんまりとした教室に入ると、まるで時間が止まったような感覚になる。


(総板張りの廊下。)

(当時の雰囲気を再現した教室。窓は少ないので、意外に薄暗い。)

なお、木造2階建ての建物は東西に長い長方形で、中央に廊下が貫通し、左右(南北側)に教室が対配置されているシンプルな造りである。各教室とは別に、生徒達が集合できる講堂も校舎2階南東側に設置されている。


(2階の講堂。教室3個分ほどの柱のない大きなスペースになっている。天井照明には、彫刻の装飾も見られる。)

現在は、建築物文化財としての保存公開と、当時の教育関連や建築資料など10万点を収蔵し、教育博物館になっているとのこと。この旧明智学校は、教育県と呼ばれる長野県の学校教育制度の原点になっている。

旧明智学校校舎を出ると、向かいの駐車場の横には、長野県宝の旧司祭館【黄色マーカー】がある。明治22年(1889年)にフランス人のギュスターブ・セスラン神父によって建てられた洋館で、こちらも内部見学ができる。


(旧司祭館。※追加取材時に再撮影。)

建物は正方形の木造2階建て、日本の一般的な個人宅程度(約200平米)の広さしかないが、質素ながら、旧明智学校校舎よりも洋風の趣を感じられる。北側に総ガラス張りのベランダがあるのが特徴になっている。また、セスラン神父は本格的な和仏辞典を編纂し、母国の第一次世界大戦徴兵時期を除いた22年間、松本に滞在。その後、東京築地教会の司祭になり、日本で生涯を終えている。

司祭らの住居として使われていたが、都市道路拡張計画のため、平成3年(1991年)に現在地に保存移築された。日本国内の洋館というと、イギリス風の洋館を思い浮かべるが、フランス風とアーリーアメリカン風の折衷である。特に、縦長の窓に鎧戸(よろいど)が付くのは、フランスではよく見られ、イギリスでは珍しいという。また、正面側屋根に三角形の装飾破風(はふ)があるのも、ギリシアをルーツとするフランス古典的建築様式のひとつとされる。しかし、シンメトリーデザイン、外装の総下見板張りや各部屋の暖炉など、アーリーアメリカン風の特徴も見られる。このアーリーアメリカン風建築様式は、北海道の開拓時代にアメリカ人技師がもたらし、建築費の安さやメンテナンスの容易さから、北海道から徐々に南下して日本国内に広まった。


(食堂。1階には、玄関・事務所・食堂・応接室・台所・風呂があり、2階に個室が4つある。)

(応接室の暖炉。実際に使えるように復元しているとのこと。)

ベランダは、欧米諸国がアフリカやアジア各地に植民地を広げていた頃、蒸し熱い気候をしのぐため、造られたという。しかし、日本は寒冷なため、ガラス張りのベランダがよく見られる。この旧司祭館のベランダは、1階と2階共に出入りが可能な純西洋風になっている。


(北側の総ガラス張りのベランダ。※追加取材時に再撮影。)

この旧明智学校校舎界隈の北側に武家屋敷があるらしいので、更に行ってみよう。この先に向かう一般観光客は他におらず、自分ひとりだけである。外装ガラスの美しい市立中央図書館の前を過ぎ、ほうぼう茂った生け垣の細道を抜けると、沢村と呼ばれる静かな住宅地に出る。家々は密集しているが、とても静かで、人影も見かけない。松本城周辺を表の顔とすれば、ここは裏の顔で、本当の松本の生活住宅地である。迷惑がかからないように、静かに見学しよう。

この東西を目抜く通りは、城下町時代と同じ道幅で、市内でも数少ない現存の武家屋敷と小さな史跡が残っている。普通の住宅地の中であるが、江戸時代以前の大層古いものもある。また、字(あざな)のとおり、奈良井川支流の大門沢川が流れ、特に水利がよいため、縄文時代から人々が暮らしてきた跡があるという。


(沢村の町並み。城下町時代は、中級武士が住む武家町であった。)

細道を出た所にある首貸せ地蔵【赤色マーカー】は、江戸時代初期の城主であった水野氏が、前領地の三河(現・愛知県)からわざわざ運んだと伝えられている。近くに住む子供がよく供養していたが、とある日、家に押し込み強盗が入った。家族は殺されたが、子供の身代わりになって地蔵の首が落ち、その子だけは助かったという。その後、その首を借りて祈願すると、子供の病が治ると評判になり、方々に借りられていった。なお、後方に墓地が広がるが、この地蔵尊由来ではなく、明治政府の廃仏毀釈で廃寺になった賢忠寺の遺構らしい。元城主の水野氏が建立した菩提寺であるが、松本藩では廃仏毀釈が特に激しかったため、免れなかった。


(首貸せ地蔵尊と賢忠寺跡。左手奥に沢村墓地がある。右手の建物は沢村公民館。)

(首貸せ地蔵尊。やはり、「首はないのか」とそっと覗いてみると、優しい顔の首が乗っている。首はなかなか返されないため、新しく据え付けられたという。)

通りの西寄りの小森の中には、大日堂【黄色マーカー】がある。創建時期は不明であるが、戦国時代末期の天文20年(1551年)、信濃国を治めていた小笠原長時が甲斐国の武田信玄に対する戦勝祈願した記録があるので、それ以前よりあったという。御本尊の大日如来は逸品とされ、鎌倉時代から室町時代のものとされている。毎年3月には、数珠つなぎが行われ、この沢村の人々の拠り所になっている。


(大日堂。現在の本堂は、大正時代末期に再建された。境内には、稲荷神社や御嶽大権現も鎮座する。)

同じ境内にある稲荷の赤鳥居の脇には、江戸時代末期の安政6年(1859年)建立のふたつの道祖神もある。集落の安全(疫病や農作物害虫の退散)や子孫繁栄を祈願するもので、性神的な要素もあり、男女双神体のものが多くみられるが、文字(神号)だけのものは、この松本周辺でも珍しいという。なんと、大きな道祖神の裏側には、自然にできた穴に対して男性器が刻まれているとされ、「本当か」と裏を覗くと、確かにあり、苦笑してしまった。神石ではあるが、石工が悪ふざけしたのであろう。そのまま、お上のお咎めもなく、ちょこんと鎮座しているのも面白い。


(境内東側の法崎於喜久稲荷大明神、御嶽大権現[稲荷の左奥]と道祖神。)

(ふたつの道祖神。小さい方も神号のみで、神札の輪郭が掘られている。これも、松本周辺では珍しいという。)

また、公民館角の交差点を過ぎた東寄りには、高橋家住宅【青色マーカー】がある。時代劇に見られるような石置屋根であるので、まるで異世界の住宅のように異彩を放っている。毎週末は無料公開しているので、見学してみよう。管理人の中年女性に挨拶し、座敷にも上がる。


(高橋家住宅。藩重臣の屋敷は三の丸内にあり、中下級武士の屋敷は城の北側に軒を並べていたという。)

相当古い家屋であるが、補修と手入れがよくされており、状態は大変良い。武家らしい質素で機能的な家屋になっている。軒をはじめ、鴨居や天井も低いのは、江戸時代初期の住宅の特徴でもあり、刀を振り上げさせない安全対策(刃傷沙汰の防止)もある。また、高橋家は松本藩の中級武士であったが、仕事ぶりはかなり優秀で、通常は上級武士に任ぜられる山方奉行(山林や鉱山の管理などの役職)を務めていた。

なお、個人宅ではなく、松本藩所有の藩士向けの住宅であったという。今ならば、官舎のようなものである。玄関に続く土間と田の字に配された4つの大きな部屋の間取りになっており、正確な築年は不詳であるが、江戸時代初期から中期(1617年から、高橋家が入居した1726年)頃の住宅とされる。


(台所の「くど(かまど)」から、座敷を眺める。手前から、居間と奥の間になる。)

(座敷から南庭を望む。田の字配置の座敷は農家でも見られるが、中床や押入れは武家屋敷のみ見られる。)

現存する武家屋敷としては、長野県内でも最古であり、平成16年(2004年)に高橋家から市に寄進されたという。その後、幕末から明治時代初めの頃の姿に復元された。今は、松本市立博物館の分館として一般公開されている。

近年の一般住宅では、純和風の家もだいぶ少なくなってきている。この薄く暗く、しっとりとした感じは懐かしく、妙に落ち付く。畳に座らせてもらい、少しばかり休憩しよう。

(つづく)

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【参考資料】
現地観光歴史案内板
国重要文化財旧明智学校校舎観覧者用パンフレット
(観覧入場時に入手/松本市立博物館発行・発行年不明)

※沢村地区(首貸せ地蔵尊・大日堂・高橋家住宅)は、後日の追加取材。

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