銚子電鉄紀行(14)外川観光 その3

犬岩から大杉神社【A地点】まで戻り、今度は、東側に行ってみよう。神社前の小高くなっている道路を、そのまま東に歩く。ここからは、犬吠埼まで2.5km位なので、30分程度で歩いて行く事も出来る。


(犬吠埼へ行く海岸道路。)

高台にある1.5車線分の道路は、少し下ると、広々とした二車線の新しい道路になる。道路に面して、海が広がり、大きな砂浜【波マーカー】が残っている。源義経が馬(駒)を止めて休んだ浦なので、「古藻浦(こもうら)」呼ばれ、「こま(駒)」が「こも」に訛ったとの事。また、暖かい場所のなのか、道路下の土手には、大きな葉サボテンが自生している。

実は、この付近の海岸には、慰霊碑や卒塔婆(そとば)が、海に向かって多く建てられている。黒潮と親潮がぶつかる良い漁場らしいが、暗礁の多い難所らしく、海難犠牲者を弔うものらしい。豊かな海は恵みをもたらす反面、人は敵わない大自然の怖さを感じさせる。


(古藻浦の眺め。※春の本取材時の撮影。)

近年整備された感じの護岸道路の先には、海に突き出した小半島状の場所があり、小さな漁村・長崎町がある。ここは、陸地の幅が200m位しか無く、太平洋の荒々しさの中にある場所になっており、約250世帯・約530人が暮らしている。また、犬吠崎からも見える太平洋に突出した磯場は、長崎鼻と呼ばれ、先端部に灯台がある。「鼻」とは、「端」を意味するとの事。


(長崎鼻。※春の本取材時の撮影。)

長崎町の中に入ると、人影が無く、とても静かである。海岸沿いの道路を歩いて行くと、海石の石垣に囲まれた石祠【祈りマーカー】がある。塩害が強くて、ボロボロになっているが、とても小さな御手洗もあり、可愛いらしい。

地元では、「亀の子さま」と親しまれている祠である。明治の終わり頃、「生け捕りの亀を食べた漁師が、祟りで死んでしまった事件」と、「流木を拾うと、末代まで大漁に恵まれる」と言う、ふたつの地元民話が由来になり、漁師達が亀を海神の使いと信じ、亀の甲羅を御神体として、祀った神社である。漁師の多い銚子周辺には、あちらこちらに見かける。


(長崎の亀の子さま。覗いたところ、甲羅の御神体は無い様である。)

町内には、黒瓦の屋根がとても低く、石垣に囲まれた立派な旧家【赤色マーカー】もある。網元らしい大邸宅で、昔の長崎の家々は、こういう雰囲気であったらしい。


(漁師の旧家。)

防波堤にある、長崎漁港の出入口から、灯台の近くまで行ってみよう。長崎漁港【錨マーカー】は、漁船を降ろすスロープと小さな防潮堤があるのみの鄙びた漁港で、観光の釣り船は係留されていない。地元の為の漁港であり、こんな感じの小さな港も良い。


(長崎魚港。)

平坦であるが、拳大の石が転がる荒れた磯場が広がっており、気を付けて歩く。長崎鼻の先端には、長崎鼻一ノ島照射灯【灯台マーカー】が聳え立っている。座礁を防ぐ灯台施設のひとつで、回転や閃光はせず、危険箇所を照らすものであり、高さは23m、昭和30年(1955年)4月に初点灯し、500m先の一ノ島を照らしている。なお、遠目に見ると、白いペンキ塗りに見えるが、小さな白タイルを無数に埋め込んだ美しい塔である。遠くには、真っ白な犬吠埼灯台が見え、絶景である。


(長崎一ノ島照射灯と犬吠埼灯台。犬吠埼灯台までの直線距離は、約1.7kmある。)

(長崎鼻の先にある一ノ島を望む。かなり、荒れた磯場である。)

照射灯から、港の出入口に戻ろう。町の中央部の小高い所に、石の鳥居が見える。北側に大回りし、住宅が密集している路地を歩いて、行ってみる。


(高台の石鳥居。)

この神社は、長崎町鎮守の西宮神社【神社マーカー】で、全て石造りである。見学をしていると、「面白いかい」と、ゴルフクラブ片手の地元年配男性が石段を登って来て、挨拶をする。この西宮神社の由来や長崎の町の様子を伺う事が出来た。

江戸初期、鰯(イワシ)を追って来た西宮出身の漁師が、この長崎に住み着き、故郷を偲んで遷宮したらしい。出雲大社の大国主命の子・事代主命(ことしろぬしのみこと/国護りの神、恵比寿様)が、御祭神になっている。


(西宮神社の石鳥居。扁額も石である。)

(先代の石祠も保存されている。)

地元の方の話によると、長崎の町は三方が海に囲まれ、非常に風と塩害が強い為に風化が激しいそうで、近年、氏子達でお金を出し合って再建したとの事。後ろのふたつの小さな石祠は先代の本殿で、祠の室に供物や賽銭を置き、祈願祈祷した。この石祠自体が、御神体らしい。現祠前の由緒石碑によると、明治17年(1884年)に再建され、昭和32年(1957年)に鳥居と祠を修復したと記されているので、この石祠は明治のものと思われる。また、狛犬は、先代のものを、新しい台座に鎮座したとの事。

本殿後ろの最も小高い場所には、瓦葺きの小さな土蔵とブロックの建物があり、ブロックの建物の出入口上に、「水難(丸に救のマーク)救済(会)」と、微かに読める。長崎鼻周辺は好漁場であるが、暗礁が多い難所になっている為、ここから沖を操業する船を監視し、遭難や非常時の指揮所として、使われていたらしい。なお、左書き文字、ブロック建てなので、昭和中期頃の建物と思われる。今も、道路沿いの防波堤上に、ガラス張りの監視所が設けられている。


(水難救済会の監視所跡。)

ここは、町内で最も高い所にあるとの事で、海抜は6m位ある。二階建てらしいが、二階部分の床は抜け落ちていて、屋上に上がる出入口のみが開いている。なお、船の性能向上やGPS航法装置等が発達し、新しい監視所もあるので、今は使われていない。

なお、水難救済会は、当時のロシアの制度を見らない、明治22年(1889年)に設立された水難救助組織で、「海の赤十字」と呼ばれていた。緊急時には、地元漁師達が救助夫になり、救助活動を行っていたそうで、公益社団法人として、現在も全国各地で活動をしている。

「楽しんでいって」と、地元の年配男性から言われ、お礼をする。一期一会的な地元住民との会話も、ローカル線途中下車観光の面白い所である。

神社の前の方を見ると、古い漁師家と高い石垣【黄色マーカー】がある。この高い塀は、波の飛沫が飛んで来る為、塩害から家を守るものとの事。塀の一部になっている大きな自然岩の上には、小さな石祠も祀られており、漁の安全や豊漁、津波等の災害回避を願ったのであろう。


(高さは2m以上ある大きな石垣。鳥止まりを防ぐ為、三角屋根になっている。)

(自然岩の上の石祠。)

隣の旧家は、昔の漁師家の原型を維持しており、今は、倉庫として使われている様である。屋根瓦は強い煙害の為、白く変色している。また、海風を防ぐ為、一般的な民家よりも海側の軒が非常に低く、腰をかがめないと入れない。


(原型を留めている漁師家。)

護岸道路に戻り、東に歩いて行こう。長崎町の東海岸は、ガイドブックにも載っていない、隠れたビューポイントになっており、波が間際まで押し寄せ、展望も素晴らしい【カメラマーカー】。


(護岸道路が東から北に曲がり、堤防に上がる。)

護岸から、沖の方を見ると、宝満(ほうまん)【名勝マーカー】と呼ばれる、大きな岩場がある。大小ふたつの島からなり、人が仰向けになって、寝ている様に見える。海鵜達が羽を休める、憩いの岩場になっている。

この宝満も、義経伝説に関連した地名である。義経公は源義朝の九男(九郎)、平氏を討伐した武将に与えられる受領名「判官(はんがん)」である事から、「九郎判官義経」とも言い、これが訛って、「ほうまん」になったらしい。なお、この島は、二千万年前の海底火山跡で、それから噴出した安山岩で出来ている。


(宝満。※光学ズームにて、撮影。)

長崎海岸からの犬吠埼は、この銚子周辺の海岸でも、一、二を誇る絶景になっている。暫く、ブルーの美しい景色を楽しんでから、外川駅に戻ろう。


(長崎町東海岸と犬吠埼。)

(つづく)


当記事は、冬の追加訪問時の取材。

【参考資料】
銚子ジオパークパンフレット(銚子ジオパーク推進協議会発行)

2017年7月15日 FC2ブログから保存・文章修正(濁点抑制)・校正

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