今回は屋代線の旅であるが、見事な木造旅客上屋がしなの鉄道ホームにもあるので、見学してみよう。しなの鉄道のホームは、駅舎に面した単式ホームの下り篠ノ井・長野方面行き1番線と、島式ホーム1面2線の上り上田・軽井沢方面行きの2・3番線の2面3線の配置である。木造旅客上屋が現存するのは、上り方面の2・3番線ホームになり、古い客車ホームの擁壁が一部残っている。
(しなの鉄道駅舎側1番線ホームからの上り2・3番線ホーム。現在のホームの高さは、1,100mmになる。)
国鉄やJR時代は、東京と長野を結ぶ主要幹線であったので、長編成の特急等の優等列車が停車出来る様にホームも長い。現在のしなの鉄道の3両編成の電車には、贅沢過ぎる設備になっている。跨線橋から2・3番線の篠ノ井方に降りると、木造旅客上屋部分に直結している。ごく普通の国鉄風であるが、柱や梁が白く塗られているので、年季による木造の重厚さは無く、軽快さを感じる。
(2・3番線ホーム篠ノ井方の木造旅客上屋。)
支柱の斜め梁は小さく、ストレート葺き屋根になっており、構造はシンプルになっている。ホーム幅が狭い上に柱も細めなので、スマートに見える。また、中央部には、しなの鉄道オリジナルの吊り下げ式電光駅名標が架かる。
(小型でシンプルな小屋組み。)
(しなの鉄道オリジナルの電光式吊り下げ駅名標。)
見学をしていると、丁度、下り1番線から長野行きの快速電車が発車して行く。しなの鉄道の元・国鉄115系や169系電車ではなく、元・国鉄189系特急形電車6両編成である。碓氷峠を越えていた名特急「あさま」に使われていた車両で、まるで信越本線時代の光景かと、とても驚いた。実は、しなの鉄道所属の169系が、朝夕に長野まで乗り入れていたが、鉄道保安基準の兼ね合いで、篠ノ井駅から長野駅間の乗り入れが出来なくなってしまった。その為、JR東日本長野総合車両センター所属の189系が、当面の間、代走しているとの事。
(代走の元・国鉄189系快速電車。)
篠ノ井方のホーム北端に向かって歩くと、木造部分は終わりになるが、Y字に曲げた古レール柱の延長部が接続している。特急列車の乗客対応の為の延長部分らしく、弥次郎兵衛にも見えるのが面白い。
(篠ノ井方の古レール柱旅客上屋。)
終端部は菱形切羽板で、屋根に上がる為の鉄製梯子も付いている。また、向かいの1番線ホーム上には、巨大な60kmポストが設置されており、現在のしなの鉄道の起点駅である軽井沢駅からの距離を示している。
(篠ノ井方終端部の切羽板と巨大キロポスト。)
この古レール柱は白ペンキが塗られており、見つけ難いが、刻印を探してみよう。「(丸)Sマーク NO 60 A 1911 VI(?/やや不明瞭)」と読める。明治44年(1911年)6月製造・八幡製鉄所製・30kgレール・高速線用ARA-A規格の約100年前のレールである。
明治34年(1901年)から、国産レールを製造している八幡製鉄所製の初期レールである。重さはヤード当たりのポンド表示であり、メートル当たりkg換算は、ほぼ半分の値になる。製造月は、後年に見られる棒表示ではなく、ローマ数字になり、丸Sマークは八幡製、”NO”は、単にナンバーの意味になる。なお、30kgレールと言うと、現在の線路規格では使われない軽量レールであるが、戦後の昭和30年代の国鉄では、幹線でも37kgレールが基本であった。
(古レールの刻印。※正向きに90度回転済み。)
北側の篠ノ井・長野方を眺めるてみよう。ホームに面した本線・副本線の三線と、屋代線ホーム側に側線1本があり、ポイントで纏まって複線になると、屋代線の単線と共に三線並走区間になる。
(篠ノ井方の三線並走区間を望む。)
今度は、ホーム反対側の南側に行ってみよう。跨線橋よりも南側は、現代風の鉄骨造旅客上屋になっている。その為、この屋代駅2・3番線ホームは、三種類の旅客上屋が同居していることになる。ホームの嵩上げは中央部分の6両分で、本来、このホームの長さは12両分・約250mある。なお、左手の大きな建物が、車両整備部門の長電テクニカルサービス屋代工場の検修庫になる。
(軽井沢方を望む。直線の線路が続いている。)
3番線隣の側線には、廃車になった元・国鉄169系S54編成が留置されており、篠ノ井方からの車番は、「クモハ169-13+モハ168-13+クハ169-13」になっている。しなの鉄道に移管された際、169系4編成12両が譲渡されたが、この編成だけが廃車になった。今は、部品取り車になっているのだろう。
(廃車された元・国鉄169系S54編成。)
なお、国鉄時代は、上野発の急行列車が、湯田中まで直接乗り入れていた。屋代線の電化は、大正15年(1926年/昭和元年と同じ)と早く、国鉄信越本線の電化は、碓氷峠区間の横川〜軽井沢間は明治45年(1912年/大正元年)と早かったが、高崎〜横川間が昭和37年(1962年)、軽井沢〜屋代〜長野間は昭和38年(1963年)とかなり遅かった。
その為、昭和36年(1961年)から運行された長野行き直通急行「志賀」は、翌年から屋代線に分割乗り入れを開始し、当初、キハ57急行形気動車で運行されたという。その後、急行「志賀」は電車化し、昭和57年(1982年)まで運行されていた。
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跨線橋に戻り、1番線ホームに接続している改札口に行こう。国鉄時代の重厚な改札口の面影はなく、普通の出入り口風になっているので、改札の感じがしない。一応、木造の改札詰所が設けられているが、普段は使われていない様子である。なお、この屋代駅の開業は、官営鉄道時代の明治21年(1888年)になる。
なお、屋代駅では、有効な切符や入場券を持っている場合でも、1時間以上のホームの滞在は禁止になっている。かなり厳しい警告なので、過去に心無い鉄道ファンが問題を起こしたのだろう。やはり、鉄道会社や一般客には、迷惑をかけない様にしないといけない。
(ホーム側からの駅舎改札口。)
(木造改札口。)
改札右手に待合室がある。元・国鉄主要駅らしい広さがあり、現在は千曲市民ギャラリーが併設され、市民の写真や絵画等の作品の展示をしている。待合室向かいに、駅事務室、出札口、自動券売機があり、構内コンビニエンスストアが撤退した為、屋代駅ウェルカムステーションが入っている。千曲商工会議所が運営しており、地元物産品や地元産野菜の即売等を行なっている。(平日7時-19時、土日祝8時-17時、毎週水曜日定休。)
(出札口と改札口。)
(屋代駅ウェルカムステーション。)
駅前に出てみよう。駅舎は近代的な平屋建てで、中央部分に大きな三角屋根が付いている。
大きなロータリーに面し、駅前通りを進むと、国道18号線「北国街道」に接続している。
(駅舎外観。)
(駅前の様子。)
時刻は、8時を過ぎた所である。屋代線上り8時12分発須坂行きに乗車し、松代駅まで再び行こう。フリー乗車券を改札係に見せ、直ぐに5番線に向かう。跨線橋階段下には、国鉄風の案内板が掛かっていた。
(国鉄風の案内看板。)
(つづく)
2020年3月20日 ブログから転載・校正。
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