行田めぐり その2

小腹が満たされたら、おばあさんとお母さんに「美味しかったです。ごちそうさま」と伝え、再出発である。なお、ゼリーフライというご当地B級グルメもあり、この店のメニューにないため、食せない。衣のないタイプの野菜コロッケという。元々は、日清戦争の頃に伝わった中国まんじゅうが由来とのこと。なぜか、フライとゼリーフライの両方を扱う店は少なく、どちらかひとつである場合が多い。ぜひ、次回は食してみたい。

更に西に向かって歩き、駅から武蔵野銀行【円マーカー】に南下する大通りの西側にも、幾つかの蔵があるという。まち歩きマップを確認すると、観光情報館「ぷらっと♪ぎょうだ」【インフォメーションマーカー】の裏手周辺になり、行ってみよう。旧国道から路地に入ると、民家が建て込んだ旧市街エリアに、ぽつんと古い蔵が佇んでいる。この付近は忍(おし)1丁目と、まことしめやかな城名由来の字になっている。


(路地【カメラマーカー】に入ると、きれいに整備された石畳道が旧市街に延びる。※当日夕方に撮影。)

路地に入ったすぐの場所には、牧野本店店蔵兼住宅・足袋工場跡【赤色マーカー】がある。「力弥足袋」の商標(ブランド)で知られ、大正13年(1924年)頃に建てられたとのこと。半蔵造りと呼ばれる行田独自の家屋構造は、奥の住宅部分の北側のみを土蔵壁にし、冬季強風時の防火対策を施してある。また、脇の木造洋風2階建て住宅は、大正11年(1922年)築の足袋工場跡で、最盛期の工場を再現した博物館になっている。あいにく、今日は平日のため、休館であった。


(牧野本店店蔵兼住宅と足袋工場跡。現在の店蔵には、和服の仕立て店が入る。併設の足袋くらしの博物館は、土日のみ開館・10時から15時まで・入館料大人一般200円。)

この路地の途中の小さな交差点を左に曲がると、地元寺院の蓮華寺(れんげじ)【万字マーカー】の門前通りがあり、ここにも幾つかの蔵が残っている。


(蓮華寺の門前通り。)

門前通りの南端には、背の高い立派な時田蔵【黄色マーカー】がある。「神武足袋」、「かるた足袋」や「桜都足袋」の商標で知られた時田啓左衛門商店が、大正時代頃に建設した。左隣りの昭和15年(1940年)頃築の住宅と連接した袖蔵造りは、行田では珍しいとのこと。明治28年(1890年)に創業し、山形・宮城・山梨を中心に販路を拡大した。昭和初期の行田足袋産業全盛期の遺構になっている。


(時田蔵。2階建てに見えるが、3階建てである。2階土蔵扉の中程まで、下見板が付くのが特徴。奥に明治36年[1903年]築の足袋蔵も並ぶ。)

門前通りの中程東側にも、昭和4年(1929年)に棟上げした、時田啓左衛門商店の足袋蔵【青色マーカー】がある。老朽化が著しいが、間口8間(約14.5メートル)・奥行き3間(約5.5メートル)の大型蔵で、外壁が総トタン張りであるのは、防火対策であろう。なお、足袋の需要は秋から春にかけて高くなり、原料や製品をそれまでに準備し、これらの足袋蔵に大量に保管していた。短冊状で細長い城下町の区割りのため、大抵、敷地の奥に建てられる場合が多い。


(昭和初期築の時田足袋蔵。足場が組まれ、補修工事をしているらしいが、進んでいないようである。)

南寄り西側には、旧・牧禎商店(まきていしょうてん)の事務所兼住宅・工場跡「牧禎舎」【緑色マーカー】もある。「ヤマキ(上がヘ型の山形、下がキ)」の商標で足袋や服の製造をしていた。創業時のもので、太平洋戦争直前の昭和15年(1940年)に木造2階建ての事務所兼住宅と工場を建てたという。現在は、藍染体験工房兼レンタルスペース・アーティストスペースとして、再活用されている。


(旧・牧禎商店の事務所兼住宅。)

通りの中程西側には、十万石ふくさやの入る旧山田清兵衛商店店蔵と並び、行田を代表する店蔵の旧小川忠次商店店舗兼主屋(忠次郎蔵)【紫色マーカー】が構えている。大正14年(1925年)棟上・昭和4年(1929年)頃に竣工。店蔵は切妻造りの土間付き土蔵2階建て、L形に繋がる後ろの主屋は、寄棟造りの木造2階建て半蔵造りという。間口の狭い城下町のため、ミセ・ナカノマ・オクと1階の一直線の間取りは、行田の店蔵の特徴になっている。店蔵2階は格式の高い座敷になっており、接待や会合が行われたのであろう。現在は、NPO法人が維持管理し、手打ち蕎麦店として営業している。店先を覗くと、町中では見かけない観光客が食事を取っていた。


(旧小川忠次商店店舗兼主屋。足袋原料問屋であった。保存状態も大変良く、国の登録有形文化財に指定されている。)

そして、一番奥には、日蓮宗の妙法山蓮華寺【万字マーカー】が鎮座する。かつては、忍城の鎮守寺であった。今や人気のない静かな寺であるが、大正時代から昭和初期にかけて、堂宇を多数建て替えるなど、寺勢があったという。足袋産業全盛期の当時、関係者の信仰寄進も厚かったと思われる。なお、この門前の通り沿いは、かつては、蓮華寺町と呼ばれていた。江戸時代初期、忍藩主の阿倍正武が小見村(小見野村)からこの寺を移転させ、通りの両側に武家屋敷を造った。時代が変わり、明治以降に足袋産業が盛んになると、足袋職人が住む長屋や足袋蔵が軒を連ねたという。


(妙法山蓮華寺。山門前には、江戸時代後期の天明年間の大きな石塔も鎮座する。)

(本堂。創基時期など詳細不明であるが、室町時代以前らしい。元は、真言宗であったが、日蓮宗に改宗したと伝えられる。)

蓮華寺から武蔵野銀行まで戻り、行田の総鎮守である行田八幡神社【鳥居マーカー】に行ってみよう。旧国道の南側、ほぼ市街中央部にある。歩道を東に歩いていくと、ブロンズの人形【カメラマーカー】が幾つも展示されているのが気になる。平成10年(1998年)に電線を地中化した際、39体の童人形が撤去した電柱跡の櫓上に設置されたという。各々のポースや仕草が異なっており、行田の新名物になっている。銅板工芸作家の赤川政由氏が制作し、昔の子供たちの遊びをテーマにしているという。


(埼玉りそな銀行行田市支店前の朝顔鉢を抱える童人形。代表的作品として、観光パンフレットなどでよく紹介されている。櫓の中には、各家庭や事業所への変圧器を設置している。)

(観光情報館ぷらっと♪ぎょうだ前の魚釣りの童人形。全金属製の忍城の模型もセットで展示。)

旧市街地の行田郵便局の通りに入り、南に真っ直ぐ歩いていくと、こぢんまりと高木が生い茂る場所がある。門前には、蕎麦屋、和菓子屋と洋菓子店しかないので、仲見世のない村社であるが、ひきりなしに参拝客が訪れている。

かつての行田では、冬季の強い季節風も相まって、何度も大火になめ尽くされた。そのため、古文書や社宝は多数失われており、創基時期などの詳細は不明とのこと。口伝によると、源頼義(よりよし)や源義家(よしいえ)が奥州征伐(※)への滞陣中、戦勝を祈願したというので、平安時代以前から1,000年以上の歴史があるらしい。また、珍しい西向きに鎮座するのは、戦国時代の忍藩主・成田長泰(ながやす)が手厚く保護・信仰し、城下の総鎮守としたため、城のある方角に向いている。そのため、「城主八幡」や「西向き八幡」とも呼ばれている。なお、元々は、佐間村(現・行田市佐間。忍城の南)に鎮座していたが、戦国時代末期(1550年頃)に現在地に遷座した。


(蓮華寺から徒歩10分程度で、行田八幡神社に到着。)

(行田八幡神社正面・鳥居。)

境内はかなり狭いが、手入れの行き届いた美しい神社で、気持ちいい。参拝者が多いのは、丁度、七五三詣の時期であるためかもしれない。境内に整備された駐車場があり、車での参拝もしやすい。遠くからの参拝者は、皆、車でやって来る感じである。近年では、行田のパワースポットとして、また、御朱印集めも人気があるという。通りに面する拝殿(社殿)は、皇紀2650年を記念し、平成10年(1998年)11月に建て直されたというので、とても真新しい。

応神天皇こと、誉田別尊(ほむだわけのみこと)を主祭神とし、応神天皇の母・神功皇后こと、気長足姫尊(おきながたらしのひめのみこと)など計5柱を祀る。気長足姫尊を祀る由縁から、地元では、安産子育ての神社として人気があるという。また、虫封じ(子供の夜泣きや疳の虫封じ)の神社としても有名で、癌封じ・病封じ・ボケ封じなど、遠くの土地からの祈祷参拝者も多いという。拝殿横の絵馬奉納所には、沢山の絵馬が括り付けられており、癌封じや病封じが多い。


(伝統的な神社建築を踏襲した拝殿。旧社格は村社でありながら、立派な造りに感心する。)

(奉納絵馬と千羽鶴。他の神社よりもシリアスな雰囲気であるが、平癒を願う気持ちも伝わってくる。)

拝殿横に面白いものを発見。チリチリチリリンと、とても繊細な音を奏でる水琴窟があり、心地いい音色にしばし聞き入ってしまった。寺では散見するが、神社はあまり見たことがなく、粋な計らいと感じる。

また、なで桃さまと呼ばれる縁起物もあり、この金色の桃の彫刻を撫でると、病魔や厄災を退治してくれるという。古代中国では不老不死の果実、日本では魔除けの果実として、古事記にも登場する。伊耶那岐命(いざなぎのみこと/国造りの最初の男神)が、黄泉の国の悪鬼達に追われた際、坂の上になっていた桃を投げつけ、退散させたという神話による。


(水琴窟。土中の空洞内に瓶を設置し、落下した水滴音を共鳴させるしくみになっている。大きさなどの構造の違いによって、音もかなり変わるという。)

(なで桃さま。屋根付きの小さな絵馬掛けも囲む。)

境内には、8つの境内社が所狭しと合祀され、どれも手入れの行き届いた小社であるが、道路側の瘡守(かさもり※)稲荷神社と目の神社(めのかみしゃ)が気になる。瘡守稲荷神社は普通の稲荷と同様、食物の女神・稲倉魂命(宇迦之御魂神とも/うかのみつけのみたま)を祀るが、おでき・吹き出物・湿疹治癒の御利益もあるという。その右隣の目の神社は、その神名の通りの御利益が得られ、味鋤高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を祀る。向かい目と呼ばれる「め」を鏡文字でふたつ並べた絵馬が面白い。最近、近眼の上に老眼が入ってきており、少し不自由になってきているので、ここはひとつ参拝しておこう。


(境内北側に境内社が鎮座する。一番左端が瘡守稲荷神社になる。明治時代までは、天然痘[痘瘡/ほうそう]の罹患率・死亡率が高く、天然痘の平癒を祈願する痘瘡神と習合したと思われる。)

(目の神社。大国主命の子とされ、蛇神と考えられている。)

(つづく)

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(※奥州征伐)
鎌倉幕府の成立前、源氏が東北を支配する奥州藤原氏を征伐した。
(※瘡守稲荷)
瘡はかさぶたのこと。同じ読みの「笠森」と神社名を記す場合も多く、全国各地に見られる。

【参考資料】
現地観光歴史案内板
足袋蔵と行田市の近代化遺産
(まち歩きマップ・行田市教育委員会発行・2018年/現地観光情報館で入手)

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