行田めぐり その1

さて、世界的な新型コロナウイルスの流行により、大変な状況になっているが、かえって家に籠もるも、ストレスが段々溜まってくる。ここは感染予防対策を万全にして、日帰りで出かけてみようと飛び出した。もちろん、都会の人混みは危険であるので、疎らな郊外へと。

ローカル線の取材の間に実施している、古い町並みが残る町を訪問してみたい。関東エリアの未訪問リストの中から、今旅は埼玉県行田(ぎょうだ)を選んでみた。関東在住者であれば、行田の名を聞いたことがある人が多いと思うが、場所は判らない人が多いかもしれない。埼玉県北部の中心的都市・熊谷から東に約6キロメートルにある地方都市で、人口は約8万人と少ないが、古い土蔵などが多数残っている。ちなみに、市中心部の最寄りの駅は秩父鉄道(羽生から熊谷間)の行田市駅になる。JR高崎線に「市」の一字なしの行田駅があるが、市中心部より遠い市境のため、路線バスへ乗り継ぎが必要であり、都内からのアクセスは若干不便になっている。

あくまでも鉄道乗り(乗り鉄)として、鉄道のみの利用で行ってみたい。まずは、JR常磐線の北千住駅に行き、東武鉄道伊勢崎線(スカイツリーライン)に乗り換える。そのまま、館林・太田方面に北上するが、時刻表改正と運転系統改変により、久喜での乗り換えが必要な場合が多くなった。なお、浅草発の伊勢崎線有料特急りょうもう号では、乗り換えなしで行ける。

急行と各駅停車を乗り継ぎ、北千住駅から約1時間で、東武鉄道伊勢崎線と秩父鉄道が連絡する羽生(はにゅう)駅に到着。家を出発する時刻が遅かったため、時刻は午前10時を過ぎたところである。羽生駅は橋上化されており、同じ自由通路コンコース上で乗り換えできる。しかし、秩父鉄道の駅時刻表を見ると、10時台の下り熊谷・秩父方面の列車がない。コロナ禍のため、減便された特別ダイヤという。仕方がないので、駅前のスーパーなどで時間を潰し、11時半に行田市駅に到着した。10人ほどの乗降があるが、利用客数以上に駅は大きく、寂れている。

改札口への階段を上がり、年配の駅長氏に切符を渡すと、一見して観光客と判ったらしく、「これをどうぞ」と観光パンフレットを頂いた。地元の利用客にも気さくに声掛けしており、ポーカーフェイスな接客の大鉄道会社とは違い、昭和な鉄道情緒を感じる。駅長氏にお礼を言い、出発しよう。なお、今旅では、富士フイルムX100シリーズの第5世代機の試写も兼ねる。

かなり遅いスタートであるが、町もさほど大きくないので、大丈夫であろう。改札口の正面には、小さな観光歓迎板が据え付けられている。この行田は元城下町であり、歴史好きな者ならば、よく知られている忍城(おしじょう)を擁する。あの石田三成率いる豊臣秀吉軍が落とせなかった城として、名を轟かせた城である。また、江戸時代中期から昭和30年代前半までは、足袋(たび)の生産地として大いに栄え、市内に多数の土蔵が保管倉庫して建てられた。


(改札口前の観光歓迎板。実は、埼玉県名の発祥の地でもある。)

忍城観光歓迎の幟が左右に並び、昭和チックな駅舎の大階段を降りると、整備された駅前ロータリーが広がる。名物のからくり時計が中央にそびえているが、残念ながら、長らく故障しているらしい。日に数回、定刻になると、男と女のふたりの童人形が曲を奏で、忍城城主の成田氏長(うじなが)が馬にまたがって時計の真下に登場。辺りを見渡した後、甲斐姫(かいひめ)が代わって登場し、曲に合わせて舞うという、凝った造りであるとのこと。なお、甲斐姫は甲斐武田氏の姫ではなく、氏長の娘(長女)である。豊臣秀吉の小田原城征伐の際、忍城を囲んだ豊臣の大軍勢を撃退した女武将と伝えられ、後に秀吉の側室のひとりになった。


(秩父鉄道行田市駅南口とからくり時計。市の玄関駅であるが、人影は少なく、テナントも空きがある。)

天気は快晴。気温はやや低いが、風はなく、心地よい秋日和である。駅の南側と忍城周辺に土蔵や名所史跡が集まっているので、このまま南に歩いて行こう。駅前の商店や飲食店は閑散とし、廃業している店も多い。怪しい水商売の店ばかり目立つが、途中、猫の額ほどの狭い間口に奇妙な格好のレコード店【赤色マーカー】を発見。奥を覗くと、電気は点いているので、現在も営業しているらしい。後ろは一般的な住宅であり、看板建築商店の一種と言える。


(駅前ロータリーから南へ歩く。)

(ターンテーブルを模しているらしい、レコードショップかわしま。正式には、「川島書店レコード部中央店」という。交差点向こうの斜め向かいに本業の書店があるが、店内は荒れており、廃業状態であった。)

南に300メートルほど歩くと、旧国道125号線(現・県道128号線)と交差する。交差点の脇には、国登録有形文化財の武蔵野銀行行田支店【円マーカー】がどっしりと構えている。昭和9年(1934年)築の鉄筋コンクリート2階建てで、当初は忍貯金銀行の店舗として建てられた。戦時中から終戦後は足袋販売関連の施設になり、昭和44年(1969年)から武蔵野銀行の支店になったという。東側のATMコーナーは増築部分と思われるが、端正なスクラッチタイル全面張り、パラペット(陸屋根/ろくやね)と華麗な軒蛇腹が美しい。


(武蔵野銀行行田支店店舗。冬季の強い季節風を避けるため、出入口や窓の配置も考慮されているという。)

この行田市中心部を東西に横断する旧国道125号線(現・県道128号線)は、地元では、通称「ワンツーファイブ」と呼ばれていた。交通量も非常に多く、東は千葉県香取市、西は埼玉県熊谷市が起終点になっている。途中、埼玉県羽生市・加須(かぞ)市や茨城県古河市・つくば市・土浦市も結ぶため、北関東の国道51号線と同様に関東横断国道のひとつである。

武蔵野銀行のある交差点を右手に行くと、観光情報館「ぷらっと♪ぎょうだ」【案内所マーカー】を併設する行田市商工センターがあるので、街歩きパンフレットを貰いに行こう。中年の男性ガイド氏に見どころも教えてもらい、再出発する。まずは、銀行の交差点東側に土蔵群があるというので、行ってみよう。しかし、車は多いが、歩道を歩く人がほとんどいない。自転車さえ通らないのも、寂しく感じる。埼玉県も東京寄りの大宮周辺を別とすれば、鉄道路線は線状であり、どこに行くにも車がないと生活しにくい。


(羽生方面を望む。100番台国道なので、戦後の高度成長期に整備された国道である。)

(観光情報館「ぷらっと♪ぎょうだ」。レンタサイクル、土産やご当地グッズの販売もしている。)

武蔵野銀行向かいの旧国道沿いにも、ふたつの銀行支店が並び、その先に古めかしい建物が国道に面している。京風格子窓の端正な商家【黄色マーカー】は、昭和4年(1929年)築になり、20年ほど前に荒物屋が廃業した後、テナントとして貸し出されているとのこと。現在は、天然酵母使用のパン屋「翠玉堂(すいぎょくどう)」が入っている。時折、店内でアートイベントや展覧会も企画されているという。


(旧山田荒物店店舗。テナントのパン屋は、新型コロナ流行の影響ため、休業状態であった。)

その先の交差点の横断歩道を渡ると、重厚ななまこ壁の土蔵が建っている。この旧山田清兵衛商店店舗【青色マーカー】は、明治16年(1883年)築の江戸時代様式の店蔵として、呉服商を営んでいたという。戦後になって、足袋を保管する蔵になり、昭和44年(1969年)に、菓子司「十万石ふくさや行田本店」が入り、現在も営業している。関東在住の中年以上の方々には、「風が語りかけます。うまい、うますぎる」のテレビコマーシャルといえばわかるだろう。終戦直後創業の菓子司であるが、看板商品「十万石まんじゅう」は、埼玉県の代表的銘菓のひとつになっている。


(旧山田清兵衛商店店舗。ふくさやは、漢字では「福茶屋」と書き、この行田で創業した。世界的版画家の棟方志功(むなかたしこう)氏直筆のまんじゅう姫のパッケージも有名。)

貰ったまち歩きマップを眺めると、ふくさや行田本店前から2本先の路地を左手に入り、愛宕神社【鳥居マーカー】角の交差点を左に進むと、土蔵群が建ち並ぶ一角があるらしい。丁度、この裏側付近になるので、行ってみよう。

二車線の幅の広い道路を歩いていくと、住宅地の中に幾つかの蔵が建っている。足袋の原料や完成品の保管蔵なので、商店としての蔵と違い、漆喰・石・トタンと建材も多様で、実用的な造りであるのが特徴になっている。店蔵のような統一感はないが、これも面白く、造りの違いもよく観察してみたい。


(森家土蔵・足袋蔵群【緑色マーカー】。武士から転身した森伴造商店の土蔵・足袋蔵が密集している。江戸時代末期から明治末期築のものが並び、道路側は明治末期のもの。「出世足袋」の商標で知られていた。※私有地のため、通りから見える場所を撮影。)

(大澤久右衛門家住宅・土蔵【灰色マーカー】。江戸時代、行田一の藍染綿布問屋であったという。記録では、弘化3年[1846年]に発生した大火を、この土蔵群が食い止めたことから、江戸時代後期築の行田最古の足袋蔵とされている。痛みも激しく、廃屋になっているらしい。※駐車場敷地外から撮影。)

(足袋原料問屋の保泉商店の保泉蔵【紫色マーカー】。国道から一本向こうの路地まで、壁状に4つの蔵が連なる。手前の国道側の石蔵は昭和元年[1926年]築、その後ろの小型蔵が明治期築、次の大型蔵が大正5年[1916年]築・路地側の石蔵が昭和7年[1932年]築とのこと。改修されており、今でも使われているらしい。)

この通りには、ぽつんと、一般住宅に取って付けたような小さな店【食事マーカー】が。昭和風の軒下看板に、大きく「フライ」とある。続けて「やきそば」なので、軽食店らしい。ちょっと、立ち寄ってみよう。アルミサッシの引き戸を開けると、「いらっしゃーい」とおばあさんと中年のお母さんが迎えてくれる。狭い小上がりと4人がけのダイニングテーブルがふたつ並んでいるだけの家庭的な店である。


(フライ・やきそばのにしかた。毎週月曜日と第1・第3日曜日定休、11時から15時まで営業、駐車場あり。)

「看板のフライとなるものを食べてみたい」と言うと、特大・大・中のサイズがあるという。とりあえず、中サイズを注文。ソース味と醤油味が選べ、「一般的なのはどちらですか」とお母さんに尋ねると、「ソース味ですね」とのことなので、それにして貰う。作り置きはせず、注文を受けてから作るので、時間が少しかかる。厨房のおばあさんが調理を担当し、昭和的な急くない食堂も今や懐かしい。待ち時間に店内を見渡すと、有名人来店の記念色紙も壁に飾られ、プロ野球選手の色紙が多い。

コトコトと調理する音を聞きながら、出された温かいほうじ茶を飲んで待っていると、「おまちうどうさま」と出てきた。その名から何かの揚げ物と思いきや、どう見ても、お好み焼きである。この北埼玉エリアは、古くから小麦の産地であり、農作業の合間の小腹を満たすおやつであったという。昭和の初め、足袋工場で働いていた女工達の間で大ヒットし、今や、行田のご当地B級グルメになっている。


(フライ中サイズは、税込み350円と安い。市内では、30店以上の店で提供しており、名称の由来は諸説あるという。)

さっそく、食べてみよう。普通のお好み焼きとは違い、クレープのようにモチモチで薄い皮に、豚肉・ネギ・卵をとじ込んでいる。ソースは酸味がやや強い昔ながらの味。クレープとお好み焼きの合いの子のような軽い感じになっており、油分や粉もの感が強くなく食べやすいので、女工達に人気があったのも、なんとなく頷ける。なお、フライ単品のほか、やきそば単品(特大・大・中)、フライと焼きそばのセット(大・中・小/焼きそばは別盛り)も選べる。ガッツリと量が欲しいならば、セットがいいだろう。セット大(フライ中とやきそば中)でも、税込み650円と良心的な価格になっている。

フライを頬張っていると、車で来店した20代の元気な男性ふたりと、持ち帰りの地元のお母さんもやって来た。結構、繁盛しているらしい。

(つづく)

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【参考資料】
現地観光歴史案内板
足袋蔵と行田市の近代化遺産
(まち歩きマップ・行田市教育委員会発行・2018年/現地観光情報館で入手)

※料理の価格は取材時。

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