上信線紀行(9)下仁田散策 その2

昼食後は、駅から西に進み、下仁田の市街地を歩いてみよう。この下仁田には、懐かしい昭和の町並みが残っているが、意外に知られていない。駅前通りの交差点に接続している幅2-3mの中央通り【赤色マーカー】を通ってみる。


(駅寄りの中央通り入口付近。もう、ここから、昭和の雰囲気が充満している。)

中央通りの名があるが、車が通れない程に狭く、ひしめく様に家々が左右に建ち並んでいる。駅寄りには、老舗割烹旅館の「常盤館」や肉屋、レストラン等の営業している店もあるが、90m先の中道が交差する角の化粧品店を過ぎたその先には、薄暗く、うら侘しい路地が続いている。その奥に恐る恐る歩いて行くと、もう営業していない店や町パチンコ店がひっそりとある。かつては、花街も置かれ、人通りの多い下仁田一の繁華街であったらしい。


(中道の交差点角にある布屋。化粧品店らしいが、小物や日用品も扱っている。)

(中道の交差点を過ぎると、薄暗く、しっとりとした路地が続いている。)

左右の古い建物を見ながら、薄暗い路地をゆっくり歩いて行くと、「撞球場」とガラス戸に書かれた店【ボールマーカー】がある。何だろうと、割れた小窓の隙間から中を覗いてみると、布が掛けられたビリヤードの台がふたつある。この撞球は「どうきゅう」と読み、中は良く整理整頓されていて、タイムスリップした様な不思議な空間が広がっている。


(撞球場のガラス戸。以前、一度だけ、イベントで内部公開がされた。)

撮影をしていると、向かいの閉店した食料品店から、中年男性が出て来たので、挨拶をする。話によると、看板側はパチンコ店、撞球場はビリヤード場で、オーナーが東京に出て行ってしまった為、昭和40年代半ばに廃業となった。建物の一階部分は改築されているが、地元の典型的な旅館の造りになっており、この建物の二階の欄干やこの通りで、昭和時代のドラマ撮影が行われる事もあるらしい。


(東側のパチンコ店側。看板に「祝王ホール」と薄っすらと書かれている。)

(西側の「みつるビリヤード」。台は大理石製。一階の出窓には、色ガラスが嵌め込まれている。)

当時は、商店も多く、大変賑やかであったらしい。撞球場の斜め向かいに町医院があり、東隣は魚屋、西隣は駄菓子屋であった。また、斜め向かいには、廃業した町パチンコ店がもう一軒あり、祝王ホールよりも、近代的な雰囲気になっている。古いパチンコ台のチューリップを思わせる電光看板がある富士ホールも、相当前に廃業した様子で、がらんどうのホールがあるのみになっている。


(町パチンコ屋の富士ホール。)

振り向いて、駅の方を眺めると、この通りの雰囲気がよく判る。古い昭和の町並みの好きな人には、たまらない光景である。この路地を抜けた突き当りに、彫刻が見事な神社があるそうなので、行ってみよう。お礼を言い、先に進むと、道幅と視界が開けて明るくなり、ホッとする。

中央通りの最も狭い場所を抜けた場所にも、蝋山酒店とかぎや化粧品店がある。酒屋は地酒を沢山置いており、今も営業をしている様子であるが、化粧品店は不明である。


(駅方面を望む。左のラーメン屋は、現在も営業しており、餃子と唐揚げが名物。)

(蝋山酒店とかぎや化粧品店。)

二車線の大通りを渡り、突き当りまで行くと、諏訪神社【鳥居マーカー】が鎮座している。江戸時代後期の天保8年(1837年)に再建された、下仁田の中心となる古社である。信州諏訪の有力棟梁である矢崎氏が建てた一間社流造りの社殿で、見事な彫刻が施されており、大隅流と言われる彫刻流派になる。また、右手には、樹齢650年と言われる大ケヤキがあり、神社の裏に鏑川が流れている。

毎年10月中旬には、町を挙げての大祭が行われているそうで、江戸時代天保年間から続き、神輿と何台もの山車が町中を練り歩くらしい。右手の御神木の大ケヤキは、高さ31m、幹周り5.4mもあり、町の天然記念物になっている。


(町の重要文化財でもある諏訪神社本殿。)

(唐破風向拝下の見事な彫刻。諏訪大社にある彫刻の流派を受け継ぐ。)

横断した町中を南北に通る大きな通りは、県道45号線「西上州やまびこ街道」で、下仁田道が分岐した、南側の余地峠(よじとうげ)経由の元・南牧道(なんもくどう)である。この付近は、古来からの下仁田中心地の宿場町であった場所であり、長さ約600mある道の両側には、店蔵、白漆喰壁の町家、昭和風モルタル看板商店等、明治・大正・昭和の三時代が混在する町並みが残っている。なお、北高南低の長い坂道の南端は、鏑川と南牧川が合流する地点で、親水公園の青岩公園がある。

この南牧道は、江戸時代以前、信州へ通じる脇街道として栄え、中山道にある取り締まりの厳しい安中の関所を迂回する旅の女人や、善光寺参りの参拝者の往来が多かった。戦国時代の南牧エリアは、甲斐武田家の支配下になっており、上州侵攻にも使われた。

南側の上町【カメラマーカー】には、坂に沿って古い商店が並び、閉まっている商店もあるが、米屋、薬屋や荒物屋等の幾つかは、今も営業している。しかし、何回かの大火、大規模な米騒動(※)や幕末の混乱の為、江戸時代以前の建物が残っていない。

どこからか、オルゴールのBGM放送が聞こえ、とてものんびりとした雰囲気である。上信線開通7年後の明治37年(1904年)頃の古地図を調べてみると、この上町の通りには、商店や飲食店が今以上にびっしりと建ち並び、下仁田最大の商店街であったらしい。先程通って来た中央通りは、当時は新道と呼ばれ、商店や民家も少ない抜け道であった。昭和になってから、発達したのであろう。


(上町付近の商店。)

昔ながらの荒物食品店の中磯商店は、鍋や靴等の金物荒物、日用品、肥料、種子や食品等が、薄暗い店内に所狭しと並び、混沌とした品揃えが見所である。看板の品名の漢字は、縦書きになっている。また、懐かしい「ムーンスター」こと、月星靴「つきほしくつ」や専売公社塩等の張り出し看板が並ぶ。月星靴は、明治6年創業の九州久留米にある老舗国内靴メーカーで、足袋の大量生産を初めて行った。現在は、高級靴メーカーに転向し、平成18年(2006年)に、会社名もムーンスターに改称している。


(荒物食品店の中磯商店。)

(中磯商店の古い看板。)

(中江米穀店の妻面軒下のコーラとファンタの古いブリキ看板。)

中磯商店の前を下って行くと、左手に立派な木造看板の店がある。この「十一屋」【黄色マーカー】は、化粧品と日用品の店であったらしい。養蚕製糸業が盛んな当時、製糸工場の若い女工達向けの化粧品店が多かったそうで、休日の買い物に繰り出していた名残である。なお、富岡製糸場もあるが、下仁田社(※)も共同製糸工場を下仁田周辺に幾つも持っており、地元の女性達を沢山雇っていた。


(可愛らしい王冠マークの十一屋。看板が京風の格子状であるのも、お洒落である。)

十一屋の向かいにも、立派な大谷石造りの二階建て石蔵【灰色マーカー】がある。駅周辺には、白漆喰の土蔵も多数残っているが、大谷石の石蔵はここだけと思われる。元々は、蒟蒻(こんにゃく)の生芋等を保管していたらしい。

今は、高崎のコーヒー製造会社のコーヒー豆熟成倉庫となっている。大谷石は、遠赤外線やマイナスイオンを放出すると言われており、熟成に良いらしい。案内看板を見ると、なんと、ジャズを聞かせて、長期熟成しているらしい。


(洋風建築風のコーヒー熟成石蔵。)

この坂を下り切って、川の方に行ってみよう。鏑川(かぶらがわ)と南牧川(なんもくがわ)の合流地点には、近代的なコンクリート橋が架かり、とても綺麗な青色をしている青岩【青色マーカー】が川床にある。緑色片岩と呼ばれる変成岩で、火山岩が200度位の低温で変成作用を受け、露出したものである。また、下仁田戦争に勝利した水戸天狗党(※)が、捕縛した高崎藩士を処刑した場所でもある。

地元では、「石の博物館」とも呼ばれ、16種もの岩石が見られる場所である。この青岩は、今から約1億4千年前に形成され、5千5百年前に地表に出て来たそうで、日本列島の成り立ちにも関連している。


(青岩公園。)

険しい山の間を流れる南牧川上流方には、左の急斜面の大崩山「おおぐいやま」、右正面の川井山、川井山の左稜線奥に重なっている四ツ又山が見える。ここから、南牧村は10km、日航機墜落事故現場の上野村は19km先にある。


(険しい山の間を流れる南牧川上流方。)

下仁田周辺には、九つの山が取り囲んでおり、急峻な山形は、とてもインパクトがある。「下仁田九峰」と呼ばれる山名の中には、富士山(ふじやま/標高453m)、浅間山(せんげんやま/標高435m)、御嶽山(おんたけさん/標高574m)、大山(おおやま/標高857m)があり、著名な山名と同じ漢字使いが面白い。

また、下仁田の南側の山々は、跡倉クリッペと呼ばれ、山の頂上(山体)と麓では、地層の繋がりのない独特な地質である。国内有数の特異な地質である事から、日本ジオパークにも認定されている。この青石公園の左右にある大崩山(おおぐいやま/標高467m)や川井山(標高452m)、四ツ又山(別名・下仁田富士、標高899m/鹿岳の南隣、南牧村との境)もクリッペである。この奇っ怪な山形は、クリッペと土台となっている地層との浸食スピードが異なる為らしい。

地殻運動で移動してきた地層(跡倉層)が、青岩公園に露呈している青い岩盤上に乗り、浸食されて出来た。しかし、その分厚い地層がどこから来たのか、全くの謎になっている。ここから南牧川を少し遡ると、青岩と山体のすべり面(境界面)が観察できる場所もあり、これ程の巨大な謎になると、本当のミステリーみたいに感じる。なお、青岩は、海底火山がプレート移動で、一度深い海溝に落ち込み、大隆起をしたと考えられている。
下仁田ジオパーク公式HP「根なし山の形成/跡倉クリッペ」


(下仁田ジオパーク紹介動画・YouTube「クリッペ」※無音再生、26秒間。)

下仁田市街地からは、妙義山(標高1,103m)が見えない。橋の先に急坂【双眼鏡マーカー】があり、そこから見えるかもしれないので、行ってみよう。坂の中間から、振り返ると、妙義山の頂きが、はっきりと見えた。なお、下仁田駅から妙義山までの路線バスは無く、タクシーのみになる。上州富岡駅からは、コミュニテイバスが数往復出ており、片道40分程度で行けるらしい。

この妙義山のローソク状の峰々は、どの様に出来たのかは、よく解っていないらしい。太古の昔には、頂上よりもはるかに高い位置に地面があり、柔らかい部分が浸食されて無くなり、浸食されなかった硬い岩石の部分が、妙義山の山体になったのではないかと考えられている。隆起して出来た山ではなく、巨大スケールの土中の山であったのが、とても面白い。なお、山体自体は、6百万年前の火山活動で造られた火成岩である。


(急坂から見える妙義山。天に突き上げるギザギザな険しい岩峰は、初めて見ると衝撃的である。下仁田からは、北北西の約10km先にある。※光学4倍ズームをトリミング。)

(急坂の途中から見た下仁田の町。狭い平坦地に家々が密集しているのが、良く判る。正面の岩山は、下仁田九峰のひとつの浅間山「せんげんやま/標高436m」。)

(つづく)


(※下仁田社)
富岡にあった製糸組合の甘楽社から、下仁田以西の組合と養蚕農家が分離して設立された製糸農業協同組合。甘楽社、碓氷社と下仁田社で、上州南三社とも言われた。繭や製品の取引の他、商標品質管理(商標品質表示シールはチョップと言われた)、共同工場の経営、乾燥室の設置や製糸技術の向上等も行い、地元雇用を生み出して、女工の他所流失を防いだ。初代社長は佐藤量平氏。本社は、下仁田駅北側のドラッグストアの場所にあった。
(※下仁田の米騒動)
下仁田周辺は寒冷な気候の為に米が出来ず、信州米(佐久米)の供給を受け、取引地でもあった。文政8年(1825年)の米の不作時には、投機筋の米穀商や豪農に対し、大規模な米騒動が起きている。幕末には、米の高騰に怒った南牧や西牧の農民達が、信州との境である峠を越え、佐久の農家と連携して、打ち壊しを行い、安価での米の安定供給を図った事もあったと言う。なお、悪政や悪者を正したり、世直しの為、上州は農民一揆が多い気風であった。
(※下仁田戦争と水戸天狗党)
幕末の元治元年(1864年)11月16日、京都に向かっていた尊王攘夷急進派の水戸天狗党は、幕府の命を受け追討して来た高崎藩士と下仁田で交戦した。この戦いは、奇襲を成功させた水戸天狗党が勝利した。なお、捕らえられた高崎藩士7名と人足3名は、鏑川と南牧川の合流地点(現・青岩公園)の鏑川北岸で、藩士は切腹、人足は斬首されている(青岩の上ではない)。

【参考資料】
現地観光案内板
「しもにた小旅」(下仁田町観光協会発行)
「下仁田まちあるきマップ」(下仁田まちづくり委員会発行・2016年)
「きてみて下仁田・下仁田商店街マップ」(下仁田町商工会発行)
「昭和の「撞球場」公開・下仁田で祭」(共同通信社・2011年)
「明治30年代下仁田古地図」(下仁田町歴史研究会発行・2014年)
「ぐんまルネサンス第二部・絹先人考/佐藤量平」(上毛新聞発行・2008年)
「下仁田戦争」(下仁田町公式HP)
「地球の窓探検コース・青岩と根なし山/妙義山の奇岩」(下仁田町発行)
「南牧の文化財」(南牧村公式HP)

撞球場、富士ホール、中磯商店とコカ・コーラ看板は、秋の追加取材時の撮影。
カメラ機種が違う為、若干色調が異なる。ご容赦願いたい。

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