妙義山を望む坂を下り、中央通りから北側の仲町周辺を見てみよう。諏訪神社前の交差点【赤星マーカー】まで戻る。
旧・南牧道(なんもくどう)の大通りの北側も住宅が多く、群馬県信用組合がある仲町交差点付近も、古い商店や旧家が残っている。白漆喰の店蔵を構える蒟蒻専門店「まるへい(荻野家住宅)」【赤色マーカー】は、店蔵、母屋や土蔵等の六棟が、平成21年(2009年)に登録有形文化財に指定された。テレビの旅バラエティ番組でも、よく紹介されている店舗である。「てのしこんにゃく」と名付けられた特許製法の刺身蒟蒻が看板商品で、南隣の軽食処も経営している。
今も使われている通りに面した店蔵は、明治時代後期に建てられ、屋根上の大棟(おおむね)が立派な二階建て土蔵造りになっている。右奥の母屋は、屋根が盛り上がった起り(おこり)がある入母屋造りの木造二階建て住宅で、大正13年(1924年)頃のもの。また、三棟の蔵が奥にあり、明治38年(1905年)築の二階建て白漆喰仕上げの蔵が最古との事(※)。
(蒟蒻専門製造直売所「まるへい」。)
(間口は狭いが、奥に長く、所狭しに建ち込んでいる豪邸である。)
仲町交差点角の里見文林堂(文林堂洋品店)【黄色マーカー】も、下仁田の古い商店として、よく紹介されている。その斜め向かいの閉店している和洋菓子屋【茶色マーカー】の佇まいも凄い。ここは、この大通りの中間地点になる。かつての仲町付近は、商店は少なく、大きな旧家が多かったらしい。北側の突き当りには、旧・西牧道である国道254号線と天台宗霊山寺がある。民家が並んでいるが、大きな商店街が明治時代の頃にあったという。
(仲町交差点。右手の停車場通りと接続する。)
(里見文林堂洋品店。上段の店名は、右書きである。)
(ブリキ看板の昭和堂菓子舗。葱最中を販売していたらしい。)
(山田新聞店北隣の店蔵【灰色マーカー】。業種は不明であるが、立派な造りである。)
(大通り北側の町並み。国道254号線と天台宗霊山寺方を望む。)
里見文林堂洋品店の北隣には、旧家の桜井家【青色マーカー】が建っている。幕末、水戸天狗党が下仁田を経由した際、幹部達が宿泊した。翌日の下仁田戦争が始まると、天狗党本陣となったという。西牧道沿い(現・国道254号線)の下小坂付近で、高崎藩追討隊と激しい戦いになり、高崎藩本陣が置かれた下小阪の里見家土蔵には、その時の鉄砲玉の跡が残っている。なお、水戸天狗党の下仁田戦争と和田峠の戦いは、甲冑を身に付けた最後の戦いといわれている。交戦地の近くには、町立歴史民俗資料館と勝海舟揮毫の慰霊碑があるという。
(旧家の桜井家。一階部分は、むくり屋根になっている。※秋の追加取材時に撮影。)
ここで、水戸天狗党について、簡単に触れておこう。江戸時代幕末の頃、列強の開国要求に対し、水戸藩の腕の立つ武士や浪人を中心にして結成された尊王攘夷急進派グループである。京都まで上洛し、在京の徳川慶喜(よしのぶ/後の江戸幕府最後の第15代将軍)に直接進言しようとした。なお、当時の水戸藩や江戸幕府は、水戸天狗党の討伐の命令を繰り返し出していた。本拠地の筑波山を出発した天狗党一行は、幕府軍との衝突を避ける為に東海道を通らず、この上州を西進して、太田から、一ノ宮、そして、下仁田に進んだ。
天狗党が一ノ宮に入ると、幕府側の高崎藩は320名の討伐隊を送り込んだ。先回りをして、下仁田駅から西1.5kmの西牧道沿いの下小坂に本陣を構え、迎え撃とうとした。元治元年(1864年)11月16日未明に交戦が始まったが、天狗党は高崎藩の三倍の920名の隊士がおり、奇襲を成功させて、高崎藩を打ち破ったのである。僅かな戦死者で済んだ天狗党は、そのまま信州への峠を越え、交戦しながら西進を続けた。そして、桜田門外の変で暗殺された幕府大老・井伊直弼(なおすけ)お膝元の彦根藩通過を避け(※)、現在の樽見鉄道(旧国鉄樽見線)が走る根尾谷(ねおたに)を北進し、険しい蠅帽子峠(はえぼうしとおげ)を越えて、越前国(現在の福井県敦賀市付近)に抜ける事にした。しかし、越前にたどり着くと、三万もの幕府軍が待ち構えており、進軍はあえなく終わりになってしまったのである。第二次長州征伐(1865年)や薩長同盟(1866年)の直前の出来事であった。
町内には、下仁田戦争で戦死した水戸天狗党4名が、村人達により手厚く葬られている。幕敵ではあるが、尊皇攘夷の圧倒的な世相で、天狗党の人気が高かったという。日本人の好む判官贔屓な気持ちも、強かったのであろう。
また、明治生まれの文豪・島崎藤村の代表小説「夜明け前」(昭和4年刊行)には、この下仁田戦争や上洛行軍の詳しい記述がある。執筆の為、藤村は下仁田にわざわざ滞在した。当時の里見家の当主が、詩碑を建立したいと思い、詩の一節を依頼。快諾を受けて、昭和6年(1931年)に建立されている。
過し世を静かに思へ 百年(ももとせ)の昨日の如し
かって上州かぶら河のほとりを旅せし縁故より旧詩の一節を求められるままに
藤村が生前に碑詩を寄せるのは、大変珍しい。全国に百余りある藤村碑のうち、四つだけという。元祖ご当地ソングの下仁田音頭の一節にも、この詩碑の事が歌われているそうで、当時の藤村の人気が判る。当時の上信電鉄バスも、藤村詩塚前バス停を設置した程であった。なお、前半の部分は、藤村作の「千曲川旅情の歌 二」の一節である。
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仲町交差点から駅方向に戻る。停車場通りを東進すると、路地に煉瓦の一部が見えるので、行ってみよう。公民館の駐車場に沿って、大きな煉瓦塀【緑色マーカー】がそびえ立っている。丁度、隣に住む地元中年女性が個人宅から出てきたので、挨拶をして、尋ねてみた。この広い空き地には、蒟蒻工場や倉庫が沢山建ち並んでいたが、取り壊されてしまい、この壁だけが残ったという。
(煉瓦の大塀。)
煉瓦塀は民家と駐車場を隔て、北向きに建っており、高さ3m程もある。積み方は、富岡製糸場と同じフランス積みで、所々に小さな丸印が刻まれている。おそらく、製造所を示すのであろう。
(フランス積みの煉瓦と刻印。※露出調整、トリミング拡大済み)
この停車場通り先に、下仁田社本社の敷地跡がある。現在は、大手チェーンドラッグストアの大型店舗が営業している。敷地の広さを見ると、かつての下仁田社の繁栄ぶりが判る気がした。
ドラッグストア角の交差点を南に曲がり、駅のすぐ近くの交差点には、古いタクシー会社や電器店があり、まるで昭和の横丁になっている。なお、上信線開通当時から電化される頃までは、列車運行ダイヤは1時間半から2時間毎、1日7-8往復と少なかった。待合、待合料理と呼ばれる民間の列車待合所兼食堂や、駅から木炭を出荷する木炭商が数軒集まっており、川寄りに人力車屋もあったという。
(上信電鉄グループではない、古い地元タクシー会社「成和タクシー」もある。隣は、時計眼鏡屋である。昔は、ここに木炭商が構えていたという。)
(昔懐かしい町の電器屋「園部電気器具店」。角のショーウインドに古いブラウン管テレビが、街角テレビの様に置かれていた。右隣の川寄りには、きよしや食堂がある。)
(中央通り入口横の常盤館は、格式のある割烹旅館になっている。創業は大正元年、昭和初期に竹久夢二も宿泊した。なお、蒟蒻料理、すき焼きやカツ丼等の昼食利用も出来、意外にリーズナブルだ。)
電化当時の大正13年(1924年)12月改正の下仁田発電車時刻表を見てみると、列車本数が非常に少ないのが判る。高崎線、上越線と両毛線の連絡時刻も下段に記載しており、高崎線も少なく、上下各三本の夜行が走っているのが判る。なお、この時刻表には書かれていないが、相当数の貨物列車も運行されていたので、実際の列車の本数は更に多いはずだ。
(大正13年12月当時の下仁田駅発車時刻表。※甘楽町歴史民俗資料館別館所蔵。屋内展示の為、照明の反射はご容赦願いたい。)
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ここで、追加取材時に昼食を摂った、大衆食堂「一番」【食事マーカー】を紹介したい。中央通りから一本北側の路地にある創業約50年の老舗で、タンメンと餃子が名物になっている。下仁田葱を食べたかったが、生では食せない。困っていた所、冬期は自家製餃子に下仁田葱を入れるとの情報を観光マップで見つけ、それが決め手になった。
(路地を入った所にある大衆食堂一番。後ろのコロムビアは、あのレコード会社ではなく、鍋料理と下仁田すき焼きの老舗専門店。)
一見すると民家風であり、色褪せた暖簾を潜ると、老夫婦と若い男性店員が切り盛りをしている明るい雰囲気のラーメン屋である。色褪せた赤テーブルにパイプ椅子が並ぶL字の赤カウンター15席と、小さな上がりがあり、やはり昭和の感じが充満している。昼時のテレビが流れるのんびりとした雰囲気で、店主老夫婦も親切そうで、気さくな感じである。「餃子に下仁田葱が入っていますか」と、尋ねてみると、「入っているよ」との事で、早速注文をし、カウンターに座る。
少し待っていると、待望の下仁田葱入り餃子が出てきた。注文を受けてから、お母さんが目の前で皮に具を包んで、焼いてくれる。食べてみると、一口目は、少しツンと辛味が来るが、後味はほんのりと甘い。全体的に丸い味で、ラーメン屋によくある平たく青っぽい味と違う事が直ぐに分かる。ジューシーで、旨味がとても多く、結構旨い。
(一番餃子・税込450円。冬期は下仁田葱が入っている。)
次に、看板メニューのタンメンも頼んである。極太角麺で、腰の強い触感が懐かしい。スープも辛くなく、野菜の旨味が広がるバランスの良い自然な味で、昭和の良き時代の味わいである。
(一番タンメン・税込650円。)
他に、焼肉丼や下仁田カツ丼も定評がある。もうひとつの看板メニューの焼肉丼は、厚切りの豚ロースをジュッと軟らかく焼き上げ、秘伝の甘辛ダレでテカテカに仕上げた逸品だ。シンプルでありながら、甘辛タレと甘みのある肉脂が美味しく、ご飯が進む。下仁田カツ丼と食べ比べも面白いだろう。
(焼肉丼。味噌汁とお新香付き・並税込850円。上1,000円もあるが、肉の量が違うだけである。※同年秋の追加取材時に試食・撮影。)
美味しいラーメンを食べていると、地元常連らしい人達が、次々入ってくる。余所者と直ぐに判るらしく、「どっから来たの」と色々と話しかけられた。都会暮らしの自分は驚くが、人情の町を標榜する下仁田の気風と感じる。鉄道ファンであると判ると、「上信電鉄の運賃は高いよ」といわれている地元の話や、デビューしたばかりのぐんまちゃん電車の話題で盛り上がった。地元の人達との交流も、ローカル線の旅の醍醐味である。
【大衆食堂・一番(下仁田)】(※)
定休日・毎月3日、13日、23日、営業時間・11時半から19時まで、
駐車場なし(町営無料駐車場二箇所を利用可)。
下仁田町下仁田362番地(中央通りから一本北の路地に入る/グーグルマップ)
なお、下仁田町の市街中心部には、老舗飲食店がとても多い。かつて、周辺の鉄山などの鉱山で働いていた山男達が、休みに下仁田に繰り出して楽しんだ名残という。味も美味しい名店揃いである。
(つづく)
(※蒟蒻専門店「まるへい」)
廃業している模様。軽食処の営業は不明。
(※彦根藩と水戸天狗党)
安政7年(1860年)3月、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼は、尊王攘夷派の水戸藩浪士が襲撃した為、水戸天狗党は無用な戦いを避けたといわれている。水戸天狗党が通過した諸藩も、高崎藩、高島藩や松本藩の様に討伐隊を差し向ける藩もあったが、暗黙下に無害通過を認めたり、軍資金を提供して、城下通過を避ける要請をする藩もあった。当時の民衆の間では、尊皇攘夷論が強く、水戸天狗党の人気が高かった事もある。天狗党内の規律は、経由地での略奪や暴行を許さず、非常に厳しかった点も、民衆から支持されていた。
(※大衆食堂一番)
二代目に代替わりし、タンメンと餃子のみのメニューになったとの情報あり。営業時間変更もあり。訪問時は要事前確認。
【参考資料】
「しもにた小旅」(下仁田観光協会発行)
「下仁田まちあるきマップ」(下仁田まちづくり委員会発行・2016年/散策マップ)
「きてみて下仁田・下仁田商店街マップ」(下仁田町商工会発行/飲食店ガイド)
「明治30年代下仁田古地図」(下仁田町歴史研究会発行・2014年/現地に掲示)
この下仁田駅下車観光は、本取材時と追加取材時の訪問を編集。記事本文中では、下仁田駅への到着時間から駅へ戻る時間が、非常に短いが、実際の観光には3-4時間程度かかる。
桜井家、煉瓦塀、成和タクシー、園部電気器具店と大衆食堂一番の焼肉丼は、同年秋の追加訪問時の撮影。カメラ機種が違う為、若干色調が異なる。ご容赦願いたい。
2017年7月18日 ブログから保存・文章修正(濁点抑制)・校正
2025年1月22日 文章修正・加筆・校正
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