わ鐵線紀行(30)上州桐生めぐり2

上毛電気鉄道西桐生駅から、東に向かって、歩いて行こう。駅前の横断歩道を渡り、桐生大附属中学校の前を通る。一本南の大通りであるJR桐生駅北側の県道3号線沿いには、大型アーケードの商店街もある。大型スーパーの長崎屋桐生店が撤退した後に出店したドンキホーテの裏手を通ると、永楽町交差点角の古い鉄筋コンクリートビルに目を奪われる。

この旧・水道事務所【青色マーカー】は、昭和7年(1932年)の建築で、当初は二階建てであったが、なんと、三階部分を増築している。また、縦型窓が非常に大きいので、シンプルなデザインに関わらず、迫力がある。現在、桐生市西公民館本館として利用され、平成9年(1997年)に国登録有形文化財に指定されている。


(旧・水道事務所/現・桐生市西公民館本館。)

建築当時、流行したアールデコ様式を取り入れ、当初は南側に玄関があった。また、北側には、珍しい鉄筋コンクリート製土蔵の旧・水道倉庫もある。なお、桐生市では、昭和7年(1932年)に上水道が整備された。

◆国登録有形文化財リスト◆
「桐生市旧・水道事務所(現・桐生市西公民館本館)」

所在地 群馬県桐生市永楽町2-16
登録日 平成9年11月5日
年代 昭和7年(1932年)竣工
構造形式 鉄筋コンクリート造2階建て、一部、3階建て。
特記 桐生市の上水道給水開始年である昭和7年に竣工。
当時の職員であった清水三五郎氏の設計による鉄筋コンクリートと
金属を組み合わせたアールデコ風のデザインになっており、
地方の公官庁建築物としては異彩を放つ。
当時はアールデコ風の2階建て庁舎で、南側の道路に面して玄関があったが、
後に3階部分が増設され、玄関が西側に移設された。
南側1階には、玄関の庇の跡が残る。

(桐生市公式ページの文化財等データベースを参照・編集。)

旧・水道事務所の南向いには、桐生織物記念館(旧・桐生織物会館)【赤色マーカー】がある。昭和初めの恐慌から立ち直り、桐生の織物産業全盛期を迎えた昭和9年(1934年)に、桐生織物組合の事務所として建築された。桐生全盛期の代表的な建物で、今でも、とてもモダンに見える。


(旧・桐生織物会館/現・財団法人桐生織物記念館。)

当時、流行していたスクラッチタイル張り木造二階建ての建物は、洋風でありながら、屋根は青緑色に輝く美しい日本瓦で葺き、二階の窓上部には、ステンドグラスが嵌めこまれている。なお、現在の組合事務所は、通りを隔てた西隣のビルに移転し、織物や手機織り機の展示の他、桐生織小物等の産地直売を行なっている。


(入り口にあるプレート。)

【桐生織物記念館ご案内】
開館時間・午前10時から午後5時まで、駐車場あり。
休館日・毎月最終週の土曜日・日曜日、8月13~16日、12月29日~1月3日。
桐生織物協同組合公式HP

◆国登録有形文化財リスト◆
「旧・桐生織物会館(現・財団法人桐生織物記念館)」

所在地 群馬県桐生市永楽町1184-4
登録日 平成9年5月7日
年代 昭和9年(1934年)竣工
構造形式 木造2階建て、スクラッチタイル張り、瓦葺き、建物面積833m²。
特記 桐生の織物産業全盛期の昭和9年に竣工。
当時流行したスクラッチタイルを外壁に取り入れたモダンな洋風建築で、
好景気に沸いた市民の住宅にも、これを真似た例が見られる。
背の高い2階建て建築は、明治末期からの庁舎や事務所に良く採用され、
上階には大会議室を備える。

※桐生市公式ページの文化財等データベースを参照・編集。

更に、東に歩いて行こう。ふたつの小さな南北道を渡り過ぎると、大きな通りの交差点に出る。桐生の中心部を南北に貫く、メインストリートの本町通りである。この本町四丁目交差点を左折して、北に向かって、歩いて行く。


(本町四丁目交差点南側から、本町通りの北方を望む。)

桐生は、中心部の人口に対しては、非常に大きな町並みになっており、かつては、「西の西陣、東の桐生」とも言われた程、織物産業で栄えた。戦国時代末期から江戸時代初期に、計画整備された町でもあり、城下町の様な封建的な雰囲気は全く無い。かつて、この周辺は、荒戸原と言われた未開の土地で、関ヶ原の戦い直前の天正18年(1590年)に、徳川家康の直轄領となった。翌年の天正19年(1591年)、徳川家から派遣された代官所手代(※)の大野八右衛門は、現在の桐生天満宮を宿頭とした門前町形式の町づくりに着手している。天満宮から南に向かって、この本町通りを通し、町割りを行った。

宿頭の天満宮には、桐生五十四郷の総鎮守である梅原天神を久方村から遷座し、周辺の村々から、人々を移住させたり、入植者を募ったりした。この町づくりは、江戸時代初期の慶長11年(1606年)頃に完成し、現在の桐生の礎になっている。なお、当初は荒戸新町、後に桐生新町と言われており、今でも、桐生新町と呼ぶ場合がある。

静かで広い道幅の本町通りを、暫く歩いて行くと、ほりえのやきそば【食事マーカー】がある。桐生周辺のご当地B級グルメ・ポテト入り焼きそばの有名専門店で、テレビ等の旅行番組や旅行雑誌等でも、良く紹介されている。


(ほりえのやきそば。残念ながら、開店前の様である。)

実は、帰りに立ち寄ってみた。肉無しの大盛り(税込400円)を注文。自家製麺であり、勿論、ご当地名物のポテトが入っている。塩っぱ過ぎないマイルドなソースが、ストレート中太麺に自然に絡み、薬味の七味唐辛子が少し効いているのが特徴で、飽きない美味しい味になっている。


(ほりえのやきそば。肉無し・大盛り400円。)

メニューも単純明快で、肉の有り無しと、普通・大盛り・特盛りを選ぶ。肉無し普通盛り300円、肉入り普通盛り500円からと、手頃であるのが嬉しい。桐生市内には、焼きそば専門店が何軒かあり、織物工場で働く工員の食事処として、大いに繁盛した。

【ほりえのやきそば】
営業時間・11時から18時まで、定休日・毎週火曜日と水曜日(祝日は営業)、
駐車場・2台(周辺に、時間貸しの有料駐車場もあり)。

本町三丁目と四丁目の本町通り沿い約500mの間は、地元銀行や大きな店構えの商業ビルも多く、車の往来は多いが、人通りは少ない。商店街の半分程度が、営業している感じである。地元のライオン薬局の横にも、立派な土蔵【救急箱マーカー】が建っている。観音開き扉に、「丸に薬(薬は旧漢字)」のオリジナル商標があるのが、ユニークである。昭和風の町並みが続いているが、所々に古い建物があり、アクセントになっている。


(ライオン薬局北隣の土蔵。築年は不明。)

そして、西桐生駅から約2km、徒歩15分程歩くと、本町一丁目・二丁目の桐生伝統的建物群エリア入口【カメラマーカー】に到着する。この先約540mの間は、桐生市街地で最も古い町並みの場所であり、国の重要伝統的建造物群保存地区指定も受けている。なお、この一丁目と二丁目の約400棟の半数に当たる約230棟が、終戦の昭和20年(1945年)以前に建てられたそうなので、驚きである。(平成20年度・桐生市調査時点。)


(桐生伝統的建物群エリア入口。)

此処からは、道幅が狭い。保存地区入口横には、古い商店が出迎える様に建っている。東に建つ矢野本店【水色マーカー】は、江戸時代から、この桐生で有力な商家のひとつであった。この江戸時代風の商家の佇まいは、大正5年(1916年)建築のもので、地元住民や観光客向けに、茶、醤油、日本酒等を販売している。元々は、江戸時代に桐生にやって来た近江日野商人の矢野家の店舗で、江戸時代中期の享保2年(1717年)の創業との事。かつては、酒・醤油・味噌を醸造し、大蔵群が店舗裏に建っている。一般公開されているので、帰りに見学してみよう。


(矢野本店。)

(庇上のキリンビールの大看板。)

矢野本店から30m入った西側には、旧・書上商店【黄色マーカー】がある。明治から大正にかけて活躍した呉服太物買継商(※)の書上家の店舗で、木造二階建て、明治前期の建築になる。また、この商店の北西にある土蔵の殆どが、書上商店のものであったと言う。棟から下る隅棟(すみむね)が急勾配で、豪華な盛り上げ装飾を施し、重厚さがある。


(旧・書上商店。現在は、花屋の「花のにしはら」が営業している。)

この書上商店は、江戸時代中期・貞享元年(1684年)頃の創業と言われる桐生最古の呉服太物買継商であった。絹織物産業が盛んであった明治時代には、この両毛エリア最大の買継商になり、輸出港の横浜や中国・上海にも店を構えた程、当時の栄華を極めた。なお、明治末期の年商は700万円もあり、現在の50億円以上に相当する巨額で、「買継王」とも比喩された。戦後も事業を続け、昭和47年(1972年)に逝去した十二代当主まで、約300年間の歴史を刻んだと言う。また、昭和初期から終戦直後まで、文壇で活躍した作家の坂口安吾(※)が、書上家本宅を間借りし、晩年を過ごした事でも有名である。

旧・書上商店の向かいには、玉上薬局【十字マーカー】がある。江戸時代から続く薬屋で、文化元年(1804年)に建てられたと言われ、この桐生新町の町並みの中でも、最も古い建物になっている。妻入り恵比寿造りと言われる建築様式であり、幕末の町屋の雰囲気を色濃く残している。玉上薬局は、江戸時代後期の文化文政期に織物業を創業し、後に、薬店に業種変更している。寛政4年(1972年)の桐生新町の大火後に、防火対策として、再建されたのが由来である。近年、二階にあった店看板を取り外し、外壁の漆喰も修復して、原状復原をしている。


(玉上薬局。築200年を超える店蔵である。)

更に歩いて行くと、旧・書上酒店(現・大風呂敷)【桃色マーカー】がある。平成9年(1997年)、明治末期に建てられた書上酒店を、残っていた写真を元に一部復原され、カフェやギャラリーとして営業している。


(旧・書上酒店/現・大風呂敷。)

路地を挟んで、旧・書上酒店の右並びには、伝建まちなか交流館【案内マーカー】がある。立ち寄って、観光パンフレットを貰っておこう。桐生市役所伝統的建造物群推進室の出先施設として、地元住民が住む歴史的建物の修理や文化財の相談、観光客向けの案内を行なっている。


(伝建まちなか交流館。)

【桐生市伝建まちなか交流館ご案内】
開館時間・午前9時から午後5時まで、休館日・毎週月曜日、祝日、年末年始。

(つづく)


(※手代/てだい)
代官所の下級役人。
(※買継商/かいつぎしょう)
織物工場(機屋/はたや)から製品を買い上げて、東京や京都等の呉服問屋に卸す商店。江戸時代から桐生の織物産業を支え、明治時代には、町内に30〜40の買継商があった。
(※坂口安吾/さかぐちあんご)
明治39年(1906年)生〜昭和30年(1955年)没。新潟県出身。代表作は、「堕落論」(1946年発表)、「白痴」(1946年発表)、「不連続殺人事件」(1947年発表)など。昭和27年から、逝去する昭和30年までの3年間、この書上家で過ごした。

【謝意】
ほりえの店主様、記事掲載の承諾を頂きまして、ありがとうございます。
厚く御礼申し上げます。

【歴史参考資料】
桐生本町1・2丁目まち歩きマップ(平成19年・桐生市発行)

2017年11月25日 ブログから転載・文章校正

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